忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

覚醒・至高体験をめぐって21:  (4)自己超越①

2012年10月23日 | 覚醒・至高体験をめぐって
4 自己超越

精神分析派の思想家であるフロム(Erich Fromm,1900~1980)は、「精神分析学と禅仏教」という論文のなかで次のようにいう。私たちは、日常的な現実を自分達の必要に応じて取捨選択して見ており、しかも多かれ少なかれ私たち自身によって歪められた現実を見ているのだ。したがって、私たちが現実であると信ずることのほとんどは、私たちの心が作り出した虚構の産物なのだ、と。私たち普通人の意識は、主として虚構や幻想から成り立っているとも言えるであろう。(鈴木大拙、E・フロム、R・デマルティーノ『禅と精神分析 (現代社会科学叢書)』東京創元社)

もちろん日常的な認識のこうした捉え方は、マスローのいうD認識のあり方に対応する。マスローにとっても、ごく普通の日常的な認識(D認識)は、多くの場合、自分の都合に合わせて分類し、抽象化し、概念化して見る(概括)という性格をもっている。観察者は、自分が見ようとするものを選び、さらにそれを欲求や恐れや利害関心によって歪め、こうして私たちが経験する世界は、一種の構成と選択によって組みたてられ、再配列されているのだ。

一方、現代の心理学者たちのこうした主張に対応する見方は、東洋の伝統的な思想のなかにも見られる。たとえば、大乗仏教の「空」の哲学者ナーガールジュナはいう、生滅し、たえず変化するこの世界は「あたかも幻のごとく、あたかも夢のごとく、あたかも蜃気楼のようなものである」(『中論』)と。ナーガールジュナは、言語を通してなされるわれわれの日常的な認識のありかたは倒錯であり、夢幻であると主張しているのだ。

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