玄文講

日記

ω

2005-08-07 01:21:14 | 怪しい話
自然界に今なんてものはない。

現在。

そんな概念は物理学には存在しないし、この世でそれが観測されたこともない。
「現在」とは心理学や大脳生理学の問題であり、物理学の問題ではないのである。

時間は連続的に流れている。

私たちは、そう感じている。
古今東西、たいていの人類は時間をそうゆうようなものだとみなしているようだ。
だから私たちは自然界の「時間」も連続的だと思いがちだ。

だが実際に流れているのは時間ではない。
流れているのは現在であり、意識である。それを私たちは時間だと思い込んでいる。
時間は、たぶん、流れていない。

また現在を観測しようとする行為は全て徒労に終わる。
たとえば、ある特定の時刻を指定しても、「今、この時」を確認したとしても、自然界においてそれは現在ではない。
それは過去か未来かのいずれかであり、時間の対称性を思えばその両方でもある。

そして現在が心理学的なものであることを思い出せば、現在が流れるということは、自我や意識を持つということでもある。
人は今という中に自分を投影して自我を獲得する。
そして人は幅を持った現在の拡張という形でしか「未来」を感じられない。

なぜそんなことが分かるかと言えば、そういう観測例があるからである。
離人症という精神病がある。
それは自己の同一性が感じられなくなる症状である。自分を自分とみなせず、世界の存在に違和感を感じるようになる。そして注目すべきは彼らは「時間が流れる」ということが分からなくなるということである。
その場、その場での現状は認識できるが、それらの一つ一つがつながっているということが理解できなくなるのである。
つまり現在は動くのをやめ、つながりをなくし、ただのバラバラな事象の群れに成り下がる。

流れる時間を感じられなくなった人は、自分もなくす。
連続的な時間というのは、ひどく人間的な思い込みなのである。

私たちの作った物理学も、ある意味では「連続的に流れる時間」という思い込みの上に作られている。

ただし誤解されるといけないので書いておくと、私は相対主義者でも、ポストモダニストでもなければ、人間原理の信奉者でもない。
人間の認識能力によって自然法則が変わるだとか、ある科学法則は時代や文化を反映した多様な価値観の一つに過ぎないという主張には賛成できない。
自然は絶対にして、人間の認識能力ごときで世界は変わらない。

もっとも認識能力の限界によって、法則の表現や直感的な理解の仕方が変わるのは確かなことだ。

たとえば私たちが盲(めくら)だったとしよう。
目で見て何かを観測することができないし、色も知らない。
色を知らなければ炎色反応は観測できないし、植物がなぜ緑色なのかという疑問を抱くこともない。クォークを直感的に理解しやすくするために、色の名前をつけて分類することもない。
そもそも見えないのだから、実験はすべて手探りか道具を使って数値を測るしかない。
全人類が盲(めくら)だったら物理学の歴史は今とは大きく異なっていたことであろう。
盲(めくら)には盲の物理学がある。

しかし、それで何か真実が変わるわけではない。

目が見えなくても、私たちは手探りで作用・反作用の法則を知り、特定の物質がある波長の電磁波を放射・吸収していることをつきとめたことだろう。
私たちの真実は盲にとっても真実である。
人間の側が真実に影響を与えることはない。

ただ人間の認識能力が真実を知る上で不利になったり、有利になったりすることはある。
たとえば私たちは電磁波のごく一部の領域を可視光線として認識できるだけである。
その意味では私たちは盲とその能力において大差はない。それでも私たちは素では認識できないものを観測できている。
道具を使うことで認識能力を拡張することが可能だからだ。
時間についても同様のことを無意識のうちに行っているのが、先にあげたような精神病の人々である。

たとえば癲癇(てんかん)患者はその発作時に時間感覚を失う。癲癇(てんかん)患者でもあったドストエフスキーは自分の体験を通して、「カラマーゾフの兄弟」における登場人物にこう言わせている。

ある数秒間があるのだ、それは一度に五秒か、六秒しか続かないが、その時忽然として、完全に獲得された永久調和の存在を直感するのだ。

これはもはや地上のものではない。といって、何も天上のものだと言うわけじゃない。つまり、現在のままの人間には、とうてい持ちきれないという意味なんだ。どうしても生理的に変化するか、それとも死んでしまうか、二つに一つだ。まるでとつぜん全宇宙を直感して、しかりそれは正し、といったような心持ちなんだ。

……何よりも恐ろしいのは、それが素敵にハッキリしていて、なんとも言えない喜びが溢れていることなんだ。もし十秒以上続いたら、魂はもう持ちきれなくなって消滅してしまわなければならない


これを木村敏氏という精神医学者は

「永遠が日常性と重なって意識されるとき、それは必ず、永遠の瞬間、永遠の現在という姿を取る」

と解説している。

またアフリカの原住民は強い「現在」性の支配下にあるという。
つまり彼らの現在の幅は極端に短く、そのため未来という概念が弱い。
彼らは現在を表わす「ササ」とあらゆるものを含む過去としての「ザマニ」ばかりを使用する。
そして彼らが近代になって未来を理解するようになったのは、外の世界との交流から自我というものを認識し始めたからである。

時間感覚が人間の自意識において果たしている役割は、今後の脳研究により明らかになっていくことであろう。
進化生物学の大家、ジョージ・ウィリアムズは「生物はなぜ進化するのか」において、人が直感的に時間の経過を感じとれる理由を「遺伝子的成功に役立ったからだ」と言っている。
そして人間の時間の概念を説明できるのは、物理的な時間の概念と自然選択の生物学的原理の両方を理解し、それを一つにまとめることができる若くて優秀な生物学者であるにちがいない、と断言する。

私は優秀でもなく、生物学者でもないが、その成果を追いかけるくらいのことはしたいものである。
(続く)