「アメリカでは●●しているのに、日本では●●していません。」
アメリカに限らず自説の正当性を示すのにやたらと「外国ではやっているのに、日本ではやっていない」と言う人は多い。
しかし「それを外国がしている」ことと「それが正しいか否か」は別問題である。
私が昔読んだ本では、死刑制度を批判している大学の先生が、その根拠として示した唯一の説明が
「先進諸国の中で死刑制度を採用している遅れている国は日本だけです」
であった。
死刑制度の是非は置くとして、この発言は説得力ゼロである。
もし逆の立場、日本では死刑禁止で、先進国は死刑推進だったとしたら、この先生は
「先進諸国の中で死刑制度を採用していない遅れている国は日本だけです」
とでも言うのだろうか?
死刑制度、移民制度、選挙制度、法制度、政治形態。それぞれが、それぞれの国の内状に合わせて異なるのは当然のことである。
諸外国の例は参考にはなるが、それを自説を正当化させるための根拠にするとバカみたいに見えてしまう。
それは単なる日和見(ひよりみ)主義でしかないのである。
「私の友達にも●●人がいますが、●●人は悪い奴です」
こういうセリフは根拠のない偏見を述べる時に、おもに使われる。
しかしこの話し方を使う人は「私の発言は単なる人種差別的な偏見から来たものではなく、理性の産物なんですよ」ということを強調でもしたいのだろう。
類型として「私の友達にも●●人がいますが、彼も●●人は悪い奴だと言っています」というのがある。
例)
「私の友達にもユダヤ人がいますが、ユダヤ人の虐殺ホロコーストはなかったという事実に変わりはありません」
「AをBにたとえます。Bで●●する人はいません。だからAで●●するのはいけないことです」
これは三段論法の一種であり、自説を説明するのに一から十まで比喩(ひゆ)を用いて話す人のことである。
あからさまに間違っている例を1つ挙げよう。
例)「子供はかわいいものです。ここで子供を犬にたとえます。何故なら犬もかわいいからです。そして主人に逆らう犬はいません。だから子供が親に逆らうのはいけないことです」
これはまず「かわいい」という共通点で「子供」を「犬」にたとえた。
ここまでは、子供を畜生にたとえるというヘタクソな比喩ではあるが、何の問題もない。
しかし次の議論では「かわいい」という共通点でしか結ばれていなかったはずの「犬」と「子供」を同じもの「犬」=「子供」として扱い無茶な結論を出している。
比喩というのは便利なものである。
分かりにくい話を相手に分かりやすく伝え、話を印象深いものにしてくれる。
しかし比喩はしょせんは比喩。事実の代わりにはならない。
たとえ話だけを使って自説を根拠付けるのは意味のないことである。
上の例にあるように比喩はいつの間にか議論の本質をごまかしてしまうからである。
人生を川にたとえ、銃を女にたとえ、国を家庭にたとえても、人生は川ではなく、銃は女ではなく、国は家庭ではないのである。
そして比喩に比喩で反応するのはとんち合戦でしかなく議論と呼べるものではなくなってしまう。
そして何よりも話の中身がダメならいくら上手な比喩を使ってもムダなのである。
「先生に●●を見せたところ、こんなバカがいるとは信じられないとおっしゃられた」
自説を補強するのに他人の考え方ではなく、他人の権威を利用しようという発言である。
こんなベタなことをする人は、まだ意外とたくさんいるのである。
「私は毒舌家です」
実は単に文章が下手なだけだったりします。
「性格は優しいとよく言われます」
その割りには些細なことですぐに怒ったりします。
アメリカに限らず自説の正当性を示すのにやたらと「外国ではやっているのに、日本ではやっていない」と言う人は多い。
しかし「それを外国がしている」ことと「それが正しいか否か」は別問題である。
私が昔読んだ本では、死刑制度を批判している大学の先生が、その根拠として示した唯一の説明が
「先進諸国の中で死刑制度を採用している遅れている国は日本だけです」
であった。
死刑制度の是非は置くとして、この発言は説得力ゼロである。
もし逆の立場、日本では死刑禁止で、先進国は死刑推進だったとしたら、この先生は
「先進諸国の中で死刑制度を採用していない遅れている国は日本だけです」
とでも言うのだろうか?
死刑制度、移民制度、選挙制度、法制度、政治形態。それぞれが、それぞれの国の内状に合わせて異なるのは当然のことである。
諸外国の例は参考にはなるが、それを自説を正当化させるための根拠にするとバカみたいに見えてしまう。
それは単なる日和見(ひよりみ)主義でしかないのである。
「私の友達にも●●人がいますが、●●人は悪い奴です」
こういうセリフは根拠のない偏見を述べる時に、おもに使われる。
しかしこの話し方を使う人は「私の発言は単なる人種差別的な偏見から来たものではなく、理性の産物なんですよ」ということを強調でもしたいのだろう。
類型として「私の友達にも●●人がいますが、彼も●●人は悪い奴だと言っています」というのがある。
例)
「私の友達にもユダヤ人がいますが、ユダヤ人の虐殺ホロコーストはなかったという事実に変わりはありません」
「AをBにたとえます。Bで●●する人はいません。だからAで●●するのはいけないことです」
これは三段論法の一種であり、自説を説明するのに一から十まで比喩(ひゆ)を用いて話す人のことである。
あからさまに間違っている例を1つ挙げよう。
例)「子供はかわいいものです。ここで子供を犬にたとえます。何故なら犬もかわいいからです。そして主人に逆らう犬はいません。だから子供が親に逆らうのはいけないことです」
これはまず「かわいい」という共通点で「子供」を「犬」にたとえた。
ここまでは、子供を畜生にたとえるというヘタクソな比喩ではあるが、何の問題もない。
しかし次の議論では「かわいい」という共通点でしか結ばれていなかったはずの「犬」と「子供」を同じもの「犬」=「子供」として扱い無茶な結論を出している。
比喩というのは便利なものである。
分かりにくい話を相手に分かりやすく伝え、話を印象深いものにしてくれる。
しかし比喩はしょせんは比喩。事実の代わりにはならない。
たとえ話だけを使って自説を根拠付けるのは意味のないことである。
上の例にあるように比喩はいつの間にか議論の本質をごまかしてしまうからである。
人生を川にたとえ、銃を女にたとえ、国を家庭にたとえても、人生は川ではなく、銃は女ではなく、国は家庭ではないのである。
そして比喩に比喩で反応するのはとんち合戦でしかなく議論と呼べるものではなくなってしまう。
そして何よりも話の中身がダメならいくら上手な比喩を使ってもムダなのである。
「先生に●●を見せたところ、こんなバカがいるとは信じられないとおっしゃられた」
自説を補強するのに他人の考え方ではなく、他人の権威を利用しようという発言である。
こんなベタなことをする人は、まだ意外とたくさんいるのである。
「私は毒舌家です」
実は単に文章が下手なだけだったりします。
「性格は優しいとよく言われます」
その割りには些細なことですぐに怒ったりします。