頭部もしくは大脳を破壊し脊髄のみを残した生物が、通常の生物と同じように刺激に反応し、環境の変化に適応していく。
そういう驚くべき実験を前回は紹介した。
このことから私たちは様々な疑問を抱くことだろう。生命の定義とは?意識とは?この話は人間にも適用されるのか?脳死は本当に生命の死となるのか?等々、、、
今日はそういう問題をまとめ、何が分からないのかを明確にしたい。
今日の話の目的は「分からないことが何かを考える」ことであり、「分からないことに解答を与える」ことではない。
何故ならこのような大問題に対して答えられるほど私たちの科学は成熟していないからである。
まず脳のある生物とない生物の違いは何だろうか?
そして下等な動物と高等な動物の違いは何だろうか?
脳のない生物が「意識」を持たないことは確実であると思われる。
それでは「意識」とは何か?それは認知活動であり、自発的行動である。そして世界における自分という存在を認識することでもある。
つまり「自分探し」が意識の目的である。
それでは自発的行動とは何か?
見る。聞く。話す。匂いをかぐ。歩く。飛ぶ。動きたいように動く。
何かをする前に、まず「何かをしたい」という意志が働く。
つまり「行動」よりも「自覚」が先に来るのが自発的行動の特徴である。
「自覚」つまりそれが先ほど言った「自分探し」ということでもある。
そしてこの「自覚」を可能にするのが、世界において自分がどう存在しているのか知ることである。
例えば鳥は視覚情報から自分の高度と速度を知り、自らの意志で羽の動きを調整している。
つまり鳥は「世界における自分の位置」を自覚することで、自発的行動を可能にしているのである。
ちなみに下等な動物は「3次元の空間的な世界」の中にだけでしか自分を見つけられない。
今の鳥の例では、鳥は「高さ」という位置についての自覚しか持たない。
鳥の「自分探し」は簡単だ。
世界において自分はどこにいる!?
それは高度400メートルだ!
これにて鳥の「自分探し」は終了である。インドに行く必要も、イラクで首を切られる必要もない。
一方、人間や一部の類人猿は「時間と空間の4次元世界」の中で自分を認識している。
自分がどこにいるかを知るだけでなく、過去と未来を知ることで過去を反省し、未来を予測し、死を知る。
時間概念は「死の概念」も生んだ。そして「死の概念」は「自我」「今、現在」という概念をも生んだ。
別の所でも書いたことがあるが、「自覚」に「時間概念」を足すと「自我」が生まれるのである。
動物が死を恐怖しないのは時間を知らず、未来を知らず、死を知らず、自我を知らないからである。
例えば工学者にしてミステリー作家である森博嗣 氏は、犬の時間感覚についてこう述べている。
(3/27) 昨夜遅くに大阪のスバル氏の実家に到着です。一緒に来たのはトーマ(犬の名前)だけ。スバル氏の実家には、以前に3匹の猫がいましたが、老衰で次々に死んで今はいません。
ところがトーマは小さい頃のことを覚えていて、大阪に来ると家中を走り回って猫を探すんです。炬燵の中とかにもぐり込むんです。これがとても可笑しい。
犬って、昨日の記憶と何年もまえの記憶が同列なんです。時間の概念をもった人間だけが、記憶を一列に並べるんですね。だから、忠犬ハチ公とか、ビクターの犬とか、とくに偉くないのです。
他にも象が昔に自分を叩いた人間を見た時、あたかも今叩かれたのごとく怒り、その人物を踏もうとするという話を聞いたことがある。
このように時間感覚は人間独自のものなのである。
もっとも先の鳥の例において、速度は時間に関係する概念だが、鳥の場合は「空間の横軸における位置の変化」を身体的に感じ取っているだけで、過去や未来という時間概念を知っているわけではないと思われる。
(「思われる」と書いたのは実際に鳥がなにを感じているかを知るのは困難だからである。
しかし人間でも原始的生活をする部族は時間概念を持たないと言われている。
彼らからインタビューを取れば、彼らにとっての速度の概念が時間概念なしにどのようにして成立しているかを知ることができるだろう。)
今までの話をまとめよう。
「意識」とは「自覚」である。
「自覚」とは「自分探し」である。
動物は「位置座標」という形でしか自分を自覚できない。
人間は「位置と時間」という形で自分を自覚する。
それゆえ人は死を知り、自我を知ったのである。
それでは次回は「無意識」とは何かについて考えてみたいと思う。
そういう驚くべき実験を前回は紹介した。
このことから私たちは様々な疑問を抱くことだろう。生命の定義とは?意識とは?この話は人間にも適用されるのか?脳死は本当に生命の死となるのか?等々、、、
今日はそういう問題をまとめ、何が分からないのかを明確にしたい。
今日の話の目的は「分からないことが何かを考える」ことであり、「分からないことに解答を与える」ことではない。
何故ならこのような大問題に対して答えられるほど私たちの科学は成熟していないからである。
まず脳のある生物とない生物の違いは何だろうか?
そして下等な動物と高等な動物の違いは何だろうか?
脳のない生物が「意識」を持たないことは確実であると思われる。
それでは「意識」とは何か?それは認知活動であり、自発的行動である。そして世界における自分という存在を認識することでもある。
つまり「自分探し」が意識の目的である。
それでは自発的行動とは何か?
見る。聞く。話す。匂いをかぐ。歩く。飛ぶ。動きたいように動く。
何かをする前に、まず「何かをしたい」という意志が働く。
つまり「行動」よりも「自覚」が先に来るのが自発的行動の特徴である。
「自覚」つまりそれが先ほど言った「自分探し」ということでもある。
そしてこの「自覚」を可能にするのが、世界において自分がどう存在しているのか知ることである。
例えば鳥は視覚情報から自分の高度と速度を知り、自らの意志で羽の動きを調整している。
つまり鳥は「世界における自分の位置」を自覚することで、自発的行動を可能にしているのである。
ちなみに下等な動物は「3次元の空間的な世界」の中にだけでしか自分を見つけられない。
今の鳥の例では、鳥は「高さ」という位置についての自覚しか持たない。
鳥の「自分探し」は簡単だ。
世界において自分はどこにいる!?
それは高度400メートルだ!
これにて鳥の「自分探し」は終了である。インドに行く必要も、イラクで首を切られる必要もない。
一方、人間や一部の類人猿は「時間と空間の4次元世界」の中で自分を認識している。
自分がどこにいるかを知るだけでなく、過去と未来を知ることで過去を反省し、未来を予測し、死を知る。
時間概念は「死の概念」も生んだ。そして「死の概念」は「自我」「今、現在」という概念をも生んだ。
別の所でも書いたことがあるが、「自覚」に「時間概念」を足すと「自我」が生まれるのである。
動物が死を恐怖しないのは時間を知らず、未来を知らず、死を知らず、自我を知らないからである。
例えば工学者にしてミステリー作家である森博嗣 氏は、犬の時間感覚についてこう述べている。
(3/27) 昨夜遅くに大阪のスバル氏の実家に到着です。一緒に来たのはトーマ(犬の名前)だけ。スバル氏の実家には、以前に3匹の猫がいましたが、老衰で次々に死んで今はいません。
ところがトーマは小さい頃のことを覚えていて、大阪に来ると家中を走り回って猫を探すんです。炬燵の中とかにもぐり込むんです。これがとても可笑しい。
犬って、昨日の記憶と何年もまえの記憶が同列なんです。時間の概念をもった人間だけが、記憶を一列に並べるんですね。だから、忠犬ハチ公とか、ビクターの犬とか、とくに偉くないのです。
他にも象が昔に自分を叩いた人間を見た時、あたかも今叩かれたのごとく怒り、その人物を踏もうとするという話を聞いたことがある。
このように時間感覚は人間独自のものなのである。
もっとも先の鳥の例において、速度は時間に関係する概念だが、鳥の場合は「空間の横軸における位置の変化」を身体的に感じ取っているだけで、過去や未来という時間概念を知っているわけではないと思われる。
(「思われる」と書いたのは実際に鳥がなにを感じているかを知るのは困難だからである。
しかし人間でも原始的生活をする部族は時間概念を持たないと言われている。
彼らからインタビューを取れば、彼らにとっての速度の概念が時間概念なしにどのようにして成立しているかを知ることができるだろう。)
今までの話をまとめよう。
「意識」とは「自覚」である。
「自覚」とは「自分探し」である。
動物は「位置座標」という形でしか自分を自覚できない。
人間は「位置と時間」という形で自分を自覚する。
それゆえ人は死を知り、自我を知ったのである。
それでは次回は「無意識」とは何かについて考えてみたいと思う。
正解は
「下等な動物と高等な動物の違いは何だろうか?」
と問われるならば、
「先生がが前者であり、それ以外が後者である」
です。
これだけで全ての現象が「生物3種説」を採用せずとも明確に説明できます。
先生に時間感覚がないのは、先生が下等生物であるからです。
むしろ今回の先生のご体験は、私どもの「生物2種説」の正しさを補強してくれるものであります。
私どもは前々から約束の時間に30分遅刻しておいて
「時間通り来てんじゃねーよ、このバカ!」
などとのたまう先生は、時間感覚のない下等生物だと確信しておりました。
仮説が実験で立証されるというのは気持ちのいいものです。
「下等な動物と高等な動物の違いは何だろうか?」
と問われるならば、
「私が後者であり、それ以外が前者である」
と即答する準備のある男であった。
今日までは。
ところで、一身上の例で恐縮ではあるが、私には時間感覚につき、かかる体験がある。
寒さ厳しき折の、ある日のことである。
十分な睡眠を貪った私は、部屋の中の思わぬ明るさに驚き、鋭く舌打すると、布団から飛び出した。
時計の針は10時半を指している。
確か今日は、朝9時から、御徒町で新しい仕事の研修がある。大遅刻である。
ともあれ、空気を入れ替え、一刻も早く現実性と論理性に富んだ遅刻の理由を捏造せねばならない。
カーテンを開けた私は、慄然とした。
何だこの夜のような暗さは。
天変地異か。
それとも私は不覚にも丸一日寝込んでしまったのか。
スケールの未曾有に大きい想像から、一身上の笑い話に過ぎない想像まで、恐慌に陥る私が事態の全てを把握するのに、5分ほどの時間を要した。もっとも、把握した事態のスケールは至って小さいものであった。
怠惰にも夕食後に仮眠をとった私が、気分良く寝込んでしまっただけだったのだ。
ちなみに、仕事の研修は明後日でもある。仮に丸一日寝込んだとしても、何ら問題はない。
再び舌打ちをした私は、とりあえずメールチェックでもしようかとパソコンの前に座ったのであった。そう、ある日とは今日、つい先刻のことである。
しかしパソコンの前で私は、三度目の舌打ちをすることとなった。
玄文講1月5日分によれば、時間概念のない私は下等な動物、場合によっては「脳のない生物」となってしまうではないか。
①書き込み冒頭の命題
②動物は「位置座標」という形でしか自分を自覚できない。
人間は「位置と時間」という形で自分を自覚する。
という大前提に本日の体験談をあてはめ、些か折衷的ながら、以下のような回答を導くこととした。
現在、人間のように高等な動物は存在しない。
そして私は下等な動物であり、それ以外は動物でない何かである。