玄文講

日記

神に祈れば手がふさがる

2005-09-18 18:53:49 | 人の話
息子が分裂病になった人の記録がネットにあった。

愛する者が発病したことに対する絶望と、回復の兆しに希望を持ち、悪化の兆しに不安を覚える気持ちの揺れ具合が痛ましくもあり、励ましたくもある。

また家族の発病は精神的な問題だけではすまないことになっている。
治療費にかかる費用は、保健が適用されるようになった今でも重いものだ。
介護には人の手、母親や兄弟の協力が必要だ。そして介護者はそのために自分の時間を失わないといけない。それがストレスになり、家族内に新しい争いが生まれる。
治療の便利のために父親は病院の近くへ引越し、仕事も変えないといけなかった。
家族一人の病気は家族全員の人生に影響を与える。

負担する側はいつまで、それに耐えられるだろうか?
負担をかけた側は、回復した後に、その事実に耐えられるのだろうか?

そんなことを考えながら、そのサイトの掲示板を見たとき、私は嫌悪感で胸が満たされるのを感じた。

根本的な問題解決のためには、創造主なる神であるイエス・キリストに「この問題を解決してください」と祈ることをお勧めします。イエス・キリストは、私たちの罪をすべて担い、私たちの身代わりとなって十字架上で血を流して死んでくださいました。しかし、イエス・キリストご自身は神の御子であり、まったく罪がなかったので、3日目に復活しました。イエス・キリストは、今も生きておられます。そして、「私を信じるものは永遠の命を持つ」という約束をたずさえて、あなたの心をノックしています。あなたも、神に愛されているのです。ぜひ、次のように祈ってみてください。そうすれば、イエス様は必ずあなたの祈りに答えてくださり、あなたの人生を変えてくださいます。「イエス様、今、私はあなたを救い主として私の心にお迎えします。私のすべての罪をゆるしてください。そして、私の心に入って、私の人生を導いてください。」お時間があれば、お近くの教会に足を運んで、いろいろと牧師に相談してみてください。創造者なる神は、あなたを心から愛しておられます。

こういうことを、するから!

こういうことを、する奴がいるから!

こういうことを!こういうことを!

神に祈り、人を貶める愚劣なる悪魔のような羊。

神のために人を傷つけて、それに痛みを覚えない鈍感なるしもべ。

地獄への道を善意で敷き詰める知性もなく、品性もない人間。

こんなことを、するから!

こんなことを、する奴がいるから!


日常生活を営んでいる人に対して信仰を勧めるのならばいい。
しかし、心の病を治す最良の手段として信仰を勧める人間はただの詐欺師である。
いや、「ただの」ではなく最低の詐欺師だ。

信仰は、漢方薬や健康食品と一緒だ。
健常者にそれを勧めるならば、それは最悪の場合でも風変わりな習慣で済む。

しかし癌患者などに対して「治療の最良の手段」として漢方薬や健康食品を薦めるのならば、それは最悪の結果を招く。

なぜなら彼らは医学をバカにしているため患者を正規の治療から遠ざけさせて、癌を手遅れなまでに進行させてしまうからだ。

これも同じことだ。
信仰は治療の最良の手段ではない。
もし信仰に逃げて、治療を怠ったのならば、全ては破滅へ向けて加速を始める。

人は誰しも狂いうる。多かれ少なかれ狂気は万人の中にある。
しかしほとんどの人は、狂気を抱えながら日常生活を営むことができる。
ここでも、私はそういうことについて言及している。)

だが中には社会生活ができない状態になってしまう人がいる。
その場合、一刻も早い治療が必要だ。
放置すれば確実に人格の後退と、退化した状態での固定化を招く。
軟禁し、薬を投与し、環境を変えないと、その人の社会人としての人生は終わる。

そんなときに信仰を強制するなんて。
しかも心身ともに疲れた人間の弱みに付け込んで、自分の信念を他人に押し付けようとするなんて。
もしこの父親が彼らの忠告に従い神に祈ったとき、その息子の心は死に向かって転がり出すのだ。
これを最悪と言わないのならば、何を最悪と言おうか。


*************

私は昔のことを思い出す。

私が通う学校はカソリック系の小学校だった。

私の通った幼稚園は仏教系だったのに、うちの親は何を考えていたのだろうか。
答えは簡単だ。何も考えていなかったのである。本人に確認済みである。
おかげで私の机の引き出しには、今でも数珠とロザリオが入っているわけである。

(話は変わるが、どうやら最近の一部の界隈では、神に祈りをささげるためのロザリオは義兄弟のちぎりを交わすための道具であり、迷える羊を見守るのは神やイエスではなく聖母マリアであるらしい。)


しかし私に限らず、そこに通う生徒やその親は必ずしも熱心な信者たちではなった。
中には不動明王のお守りを肌身離さず持っている生徒もいて、しかしシスターや教師はそれを叱りはしなかった。

神父様やシスターは私たちにこうおっしゃられた。

「キリスト者ではなくても、神を信じていなくても、その生活が私たちよりも真のキリスト者に近い者がいる。」と


彼らは自分たちのほうが日本の中では異端であることを知っていたのだ。
そんな中では他人への寛容を示すことが、自分たちも寛容な扱いを受けるために必要なことであった。

だから進化論も教わったし、感想文に堂々と初詣や祖父の兄の為に靖国神社へ参拝したことを書いたし、信仰を強要されることもなかった。

私は中世の不寛容の歴史を持つ宗教から寛容を教わり、俗世と宗教を共存させるバランス感覚を身につけた。
その私から見れば

根本的な問題解決のためには、創造主なる神であるイエス・キリストに「この問題を解決してください」と祈ることをお勧めします。

これは軽蔑と反感と嫌悪と呪詛を招くだけの放言である。

しかしいつの世にも、この放言を信じてしまう人が必ずいることを私は知っている。
そしてその当然の帰結として破滅した彼らを救ってくれる神がいないことも私は知っている。

******

天にまします、我らが神よ

願わくば御名の尊とまれんことを (ゆえに御名を貶めるこの輩に罰を!)

御国の来たらんことを (ゆえに御国を遠ざけるこの輩に罰を!)

御旨の天に行われる如く地にも行われんことを (ゆえに御旨にかなわぬこの輩に罰を!)

我らに日用の糧を与えたまえ (ゆえに我らから糧を奪うこの輩に罰を!)

我らを試みにひきたまわされ 我らを悪より救いたまえ (ゆえに我らをこの悪から救い給え!)

我らが人を許す如く 天も我らを許したまえ (許しますとも 彼らが罰を受けた後ならば!)

アメン

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