玄文講

日記

春日武彦 「ロマンティックな狂気は存在するか」

2005-01-19 13:34:12 | 
この本の著者は精神科医である。そして彼は静かに怒っている。

彼は世間が彼等の仕事を誤解していることに対して怒っている。

彼は狂気が過大に評価され、過剰に畏怖され、安易に使い回されていることに対して怒っている。

彼は「それこそ狂気も正気も分からなくなるくらいにぶん殴ってやる必要のある薄馬鹿たち」に対して怒っている。

狂気をドラマチックに、しかし臨床的にはデタラメに用いて物語を作る安易な作家。
自分は病気ではないのに精神科医に薬漬けにされキチガイ扱いを受けて心身ともに傷ついたと被害者意識丸出しの逆恨みをする元患者。
精神医療の実態をよく調べもせずに、先入観だけで小賢しい批判をする文化人。
狂気をロマンティックで詩的な言葉としてあいまいに使う軽薄な気取り屋。

ある人たちは言う。
精神病は本当に病気なのか?
正常と異常に境界なんてあるのか?
しょせん精神病とは文明社会が、それになじめなかった人を排除する為の詭弁だ。
その人物が正常か異常かなんていったい誰に判断する権利や能力があると言うのだ。

彼等はこう考える。

狂気とは、、、
魂の叫びだ、純粋な人間の証だ、ある種の天才だ、丘の上の聖人だ、文明社会の被害者だ、ヤブ医者がねつ造した病気ではない病気だ。等々

しかし彼等が何と言おうとも、狂気(ここで著者の言う狂気とは分裂病のことである。)はある種の病気であり、治すことができるのである。

狂人は天才的なひらめきや独創的なイメージを持っている?
とんでもない。
確かに白痴の人の中には、記憶力や単純な計算力が異様に高い人がいる。
しかし精神病患者は違う。彼らは常に陳腐だ。妄想にはいくつかのパターンがあって、彼らは誰も彼もが似たようなことを考えている。
彼らは深遠に考慮することなしに「あまりにも安易に発見」し、それに固執する。

魂の叫び?
そんなことを言う奴は「狂気を記号的に使い、そのくせ他人の偏見をあげつらうような小ざかしい態度をとる」薄馬鹿たちである。

狂気が文学的?
確かに多重人格などの派手な狂気もどきも存在する。
しかし春日氏は言う。

「もどき」の持つ「分かりやすい」派手さと・面白さと、狂気の抱える重さを無知ゆえに混同するのは、やはり不謹慎であり恥ずかしいことではないだろうか。

往々にして、狂気は、因果関係に基づいた陳腐な解釈や、安っぽい物語性などを寄せ付けないだけの素っ気なさを持つ。



確かに正常と異常に明確な違いはない。誰でもどこかがおかしいものである。
著者は言う。

一応は「正常」の領域に生きているとされる我々であっても、心の中にひっそりと狂気を飼っている。

そんなことは当たり前の話で、それをことさら大変なことのように感じる者はアホである。

狂気はただの代謝物である。
狂気とは精神における新陳代謝の一過程を示す代謝産物である。したがって、状況に応じて量が増減したり若干の変質を示すことはあっても、存在して当然なのが狂気なのである。
狂気だけを抽出すれば有害なものかもしれなくても、それが代謝過程に組み込まれている分には構わないのである。


ただし明確におかしい人間は存在する。
つまり「日常における行動に狂気がにじみ出てきた」社会生活を行うのが困難な人たちである。
しかも彼らは放っておくと人格崩壊が進み無気力で無感動な人間になってしまうので、早期発見、早期投薬が大事である。

一方で社会生活を普通に過ごしている狂人なんていくらでもいる。
春日氏は別の本でこう言っている。

かなりの程度に精神が狂っていようとも、日常生活レベルではほとんどそれを感じさせないように振る舞えるのが、大多数の人間なのである。

むしろ、相当に問題を抱えていようともそれに見合っただけの異常さを漏れ出させずに生きていける能力が人間には基本的に備わっているところに私は恐ろしさを感じてしまう。

だから、心の病に苦しんだあげく私の前に患者としてあらわれる人たちと接していると、内面のトラブルをあっさりと露呈させてしまった彼らの脆弱さや無防備さに、むしろ深い同情と共感を覚えてしまうのである


つまり精神科医の仕事は日常生活を過ごすことのできない脆弱な弱者を助けることである。
すべからく治療すべきなのは弱者なのであり、それは他分野の医者と同じことなのである。

(追記)
ところで後書きに、雑誌の取材で特に異常もないのにわざと精神科医にかかり、詐病を見抜けるかという取材に来た「志の低い」女性記者の話が出てきた。

この手の嘘患者の実験は洋の東西を問わず昔からよく行われる。
しかし、この種の実験に意味があるとは私には思えない。

ところで「痛み」は非科学的な感覚だということを皆さんはご存知だろうか?
他人の感じている痛みを観測し、数値化する手段を人は持たない。
「痛み」とは常に主観的なものであり、同じ原因に対し人々がどのような痛みを感じるかは全くの未知である。

もしあなたが医者で、腕の傷に対して激しい痛みを訴える患者が来たらどうするだろうか?
傷の消毒の他に痛み止めを与えたりするだろう。
痛みとは主観的なものだ。「そんな傷が痛いはずはない」とは言えない。

しかし後でその患者が「実は私は全く痛くなかった。医者が私の嘘を見抜けるか試した。そしてあの医者は私の嘘を見抜けなかったヤブ医者だ」と言ったらどうするだろうか?
そんなのは言いがかりである。
「痛み」などという主観的な感覚に対して医者は患者を信用するしかない。

そもそも科学とは観察対象が嘘をつかないという前提でしか成立しない。
医者は警察でも探偵でもないのである。
患者の錯覚を指摘することはあっても、あからさまな嘘を見抜けるわけがない。

精神科医のもとに訪れる人のほぼ全てが「主観的な痛み」を訴えに来る人たちである。
まさかそんな中に小賢しい社会正義に燃えブン屋がいるとは誰が予想できるだろうか。
精神科医はそんな嘘つきを相手にする義務はないのである。

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