玄文講

日記

人生について

2004-10-15 18:04:30 | 個人的記録
日々を無為に過ごす虚無感と脱力感のために、私はいたずらに文章を書き連ねている。
そして自尊心のためか、自虐のためかサービス精神なのかは自分でも分からないが、とにかく私はそれらを公開することにした。

しばらくは他人のページを借りて文章をアップしていたのだが、プロバイダーのシステム変更のために他人である私が気軽に文章をアップすることができなくなった。それで私はここに引っ越すことにした。まぁ、こんなことはどうでもいい話である。本題に移ろう。

人生とは何だろうか?

我ながらいきなり大きく出たものである。
人生とか世界とかやたらと大きなテーマを使った話ばかりをしたがるのは、その人物がバカであることの証である。
大局をもってしか小局、自分や自分の身の回りのことを語れない人間は現実逃避しているだけの人間なのであるから。
たとえば息子をバットで殴り殺したある父親は、かつて自分が勤めていた会社を辞めた理由を「ベルリンの壁が崩壊したから」と発言した。(詳しくは与那原 恵「もろびと こぞりて」届かなかった叫び を参照)
自分の経験を自分の五感で実感できないというのは惨めなことである。

それで このように言っておきながら私は性懲りもなく、今から人生について語ろうと思っている。

最初に私の結論を述べると、人生はあんまりなものである。

これは別に「僕の人生はあんまりにも酷くて、そんな運命にほんろうされる僕はなんてあわれな被害者だ」という意味ではない。

私は職もなく、学もなく、器量も良くなければ、体力もない。
借金は300万円を超え、旅行先では台風にあいパンツの中までびしょ濡れになり、誕生日にはバスにはねられた。

あんまりである。

しかしあんまりだと思うと、何故か おかしくなって笑ってしまう。
私の人生がさんざんなものだというのは本当だが、人生が楽しいというのも私にとっては本当のことである。

そういうニュアンスで「人生はあんまり」なのである。

思えば人生や運命は古今東西の人々により様々な言葉で表現されている。

「ニヒリズム」

「諸行無常」

「黄金因果律」

「神の御心」

以上のように書くと人生は何かかっこうのいいもののようだ。しかし私としては

「ちんげ教」(鈴木みそ)


「電気菩薩」「豚小屋発犬小屋行き」(根元 敬)


という言葉のほうがしっくりとくる。
人生を表現するのに、もう少しだけ上品な言葉を選ぶとしたら

「歴史的、喜劇的、悲劇的」(マキアヴェリ)

が適当であろう。

人生は間抜けと不条理でできている。いや人類の歴史そのものが間抜けと不条理でできている。悲劇と喜劇はいつでも同居していて、実に間の抜けたやり方でやって来る。
何というか人生は安っぽくて気楽なB級映画のようなものだ。

スペインの詩人ロルカはこう言っている。

「そして人生は高貴なものでも、素晴らしいものでも、神聖なものでもない」

この詩人の生きた時代に起きたスペインとアメリカの戦争も新聞王ハーストが捏造記事を書いてアメリカ世論を扇動したために起きたものであった。

これは小さな間抜けが喜劇的な過程を経て、大勢の死者を出す悲劇につながった実例である。

もっと卑近な例では、私の祖母の知り合いに風水に従って縁起の良い場所に引っ越して、元の家から新しい家に行く途中に車にはねられて死亡した方がいらっしゃる。
まさに喜劇的であり、悲劇的である。

つまり人生とはあんまりなのである。


現在の私は特に働きもせず、毎日本を読んでは惰眠をむさぼるだけの生活をしている。
世間様との交流はほとんどない。めったに遠出をすることもない。
私の家にはテレビも新聞もない。私は現実に興味がないのかもしれない。
私は携帯電話もカメラも持っていない。私は交流や思い出に興味がないのかもしれない。
私には友だちも恋人もいない。それでいてそのことを特に寂しくも思ってはいない。
いやいや、別に私はニヒルや孤高を気どろうとしているわけではない。私には既に数人の信頼できる同僚と愛すべき家族がいるので、それ以上を望んではいないというだけのことなのだ。つまり私は多くの他人と接するのを面倒くさがっているだけの怠け者なのである。

やはり私は大局で小局を語り、現実逃避しているのかもしれない。

しかし私はやがて現実に戻らないといけない。
天才や資産家ならば浮き世の理に縛られずに生きることも可能だろうが、私はそんなたいそうな存在ではない。
私は生きて、死んで、忘れさられるだけの大多数の人間の一人である。
余談だが統計学を用いて人類の歴史上に存在していた人間の総数を計算すると1000億人程度になるらしい。つまり私は無名の1000億分の1の存在である。
そんな私は生きていくために生産活動に従事しなくてはいけない。いつまでもこんな暮らしをするわけにはいかないのである。

この記録は私が現実に復帰するまでの課程を書く予定である。この記録が止まれば、それは私が社会復帰したということになる。
その前に飽きて止めたり、いつまでも復帰せずに記録が続く可能性もあるが、とりあえず前向きに検討しつつ善処していこう。

つまりこの記録は私が自分の人生に対してどのような処置を下すかを追いかけるべく記述される、ひどく内省的な記録なのである。

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