なんで人は失ってからじゃないとその意味を知ることができないのだろうと考えた。
事象を否定も肯定もできて初めて真に理解したと言えるなら、言い換えれば、裏も表も知ってこその理解であるのならば、その事象に関する全てを心身で味わい尽くすには、それを失うということも知らなければならない。(さらに言うと、それを知らないということも知らなければならない)
当然ながら、手に入れ、そして失い、その意味を十分に知るときにはそれはもう手元にはない。
その理屈でいくと、自分自身とは本来、自らには知りえない存在ということになる。
残念というか、皮肉というか、不思議というか。
詭弁というか。笑
事象を否定も肯定もできて初めて真に理解したと言えるなら、言い換えれば、裏も表も知ってこその理解であるのならば、その事象に関する全てを心身で味わい尽くすには、それを失うということも知らなければならない。(さらに言うと、それを知らないということも知らなければならない)
当然ながら、手に入れ、そして失い、その意味を十分に知るときにはそれはもう手元にはない。
その理屈でいくと、自分自身とは本来、自らには知りえない存在ということになる。
残念というか、皮肉というか、不思議というか。
詭弁というか。笑
失ってからのことを本気想像で失う前に味わえたら、その意味はもっと早く知ることができるのかな?
レモンをかじる想像したら唾液が出て来た!みたいな感じで。笑
なんてね。
前世の記憶があるとか言う人がいるけど、前世と現世の間の記憶があるって話は聞いたことがないし。
何の話かよく分からんなってきたけど、まあ経験則と思えば、やはり失った経験の多い人(憂いを知る人)ほど感謝の気持ちや優しさを持っているのも頷ける。
せっかくの秋だから憂いは愁いと綴るべきか。
長く生きるなら顔に刻まれた深い皺から優しさが滲み出すような爺さんになりたい。
今はかなり態度のでかい俺の中にいつか何かが実って自ずと頭を垂れるようになる日は来るのか!?
頑固ではなく、自分の中に確かな尺度を持つことが大事なんだってさ。
振り返るつもりが随分先走った内容に。笑
ある種の向き合いですね~★