せせらぎせらせら

日々思うこと

形あるものみな

2007-12-30 | せらせら
現段階で、【穴】とはズバリ【存在の欠如】だと言い切ってしまっていいと思っている。

まんまやんけ。(←なんで出だしから関西弁やねん!?)

そう、まんま。

“まんま”なのだ。




人の脳は、存在をまず外観から受ける第一印象で物事を認識する。

しばらく見つめ続け、より深く識っていく過程で次々と新しい認識が生まれ、その度に古い認識が壊れていく。

そうやって、認識は徐々に表面的なところから内面的なところへと変遷してゆく。(そこで引き返すことを薦める人もいるが、それはその先は基本的には実生活に必要無いし、場合によっては支障をきたすこともあるからという老婆心によるのだろう。)

最終段階に入ると完全に非物理的に物理的存在を見つめることになる。(芸術家肌と称される人たちが得意とする認識方法)

その結果もたらされる形而上学的理解をさらに深め、なおも新たなる認識を模索していくと、

不思議なことに、暗く深い土の中に掘り当てた石櫃に入っているのは最古の認識に他ならない。

最初に見た“まんま”そのもの。

ただし、その「最古の認識」を認識することは最古の認識とは似て全く非なるもの。



如何に人間が生まれながらにして知ることを欲する生き物であろうとも、

その認識を全幅の歓びで迎えられる人はいないと断言する。

(経験がある人になら言うまでもなく理由が解かると思うし、経験の無い人には言うこと自体に意味がないだろうから敢えて書かない。しかもその行為は俺の中では無粋なマネだし。)


話がそれた。(←某哲学者の口癖)


要するに、大切なものを失うということは「ドーナツの穴を残してドーナツを食べる」ことに非常によく似ている。


完全に「要するに」の使い方間違ってるな・・・。

そういや、ぜんぜん逆じゃないのに「逆に」と言うのが口癖の人がいるが、あれと同じだ。


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