■●▲★(等間隔に並ぶ四つの同一サイズの黒い図形というグルーヴ感)
■○▲★(等間隔に並ぶ四つの同一サイズの図形というグルーヴ感)
□○▲★(四つの図形というグルーヴ感)
□▲★(図形というグルーヴ感)
この実験的な表記も、このブログで見るからこそ違和感なく見れるかもしれないが、これが他の人のブログだったら、この記事自体に不自然さを感じると思う。
あるいは
魚
とだけ書いた場合にこの「魚」という文字が一体どういうグルーヴに乗っているのかを探ることは容易ではない。
(実験という“場”または僕の実験的思考という“場”に着目すれば奇想天外な提示も比較的グルーヴィーに感じ易いかもしれないが)
魚魚漁肴魚魚魚角
(複合的なグルーヴ例)
この場合、色や漢字の種類が増えればさらにグルーヴは複雑になり全体に一つのグルーヴを見出すことがより困難になる。逆にすべて漢字であるという点ではシンプルなグルーヴ感とも言える。面倒くさく言うと色相環で120°ぐらいの範囲に収まる色の幅のグルーヴとも言える。
まぁ、だいたい物事はなんとでも言える。
だから言いようが大事なのだ。
人類の過剰な文明活動による環境破壊だって、火山の噴火や隕石の衝突と同等に天変地異として捉えればある種のグルーヴを感じることもできなくはない。
(ただし、それはあまり好ましくないグルーヴだと思う。)
もし、上記の図形パターンの四つの図形の後にもう一つ図形を足すとして、あなたならどういう図形を持ってくるか。
どういうグルーヴ(法則)を捉え、どういうグルーヴに乗るかは幸い、人が自分で決められる。
僕は人生の三大要素をBLT(バランス、ラック、タイミング)として、その中で唯一自分でどうにもできないラック(運)をどう克服するか常々考えていた。
そしてここに来て、グルーヴという概念を取り入れることで、ラックをも自分の意思で多少左右することが可能なのではないかと考え始めた。
(その意味では、運による要素が大きいと思っていた麻雀なども、やはり達人はグルーヴを感じ取ることで運をも引き寄せているのだろうと考えを改めた。)
支配する(自分勝手なグルーヴを作り出そうとする)のではなく、共存する(もともとそこにあるグルーヴに乗る)ことが人をグッドラックに近づけるのではないか。
本来、万物がどういう運動をしているか、そこにどういうグルーヴがあるのか、そういうことを感じ取る能力が、現代人には大幅に不足しているように思う。
そういうことを敏感に感じ取ろうとすると精神を病んでしまうような社会を僕らは築いてしまっている。
人間が自然を阻害するようなグルーヴを作ってしまったがばかりに、自然に属する人間は無情に弾かれてしまう。
そのことを僕は非常に残念に思う。
胡散臭い宗教っぽい表現をすると神との対話のような行為が、もうちょっとあってもいいんじゃないでしょうか、と。
そもそも、人はいつから人としか話さなくなったのだろうか。
人の作り出すグルーヴがすべてだと思ったら大間違いだぞ。
そういう風に見ると、先進国とかそれに追随しようとする発展途上国とか、浮かれててバカみたいだ。
社会的に発言力のある知識人は、もっともっと声を大にしてミニマリズムを唱えていいと思うのだけれど。
それも、ただミニマルというのではなく、そういう言葉があるかどうか知らないがプロパリズム(適正主義)とでもいうような主義を掲げて、既に蛇足的な発展だという警鐘を鳴らしてくれないだろうか。
文明社会もいい加減、目的に近づく行為と闇雲に先に進む行為が、いつも同じというわけではないことを推して知るべし。
そもそも、文明の発展に目的ってあるのだろうか。
・・・また、ずいぶん話が逸れた。汗
では、あなたの今日に心地好いグルーヴを・・・
■○▲★(等間隔に並ぶ四つの同一サイズの図形というグルーヴ感)
□○▲★(四つの図形というグルーヴ感)
□▲★(図形というグルーヴ感)
この実験的な表記も、このブログで見るからこそ違和感なく見れるかもしれないが、これが他の人のブログだったら、この記事自体に不自然さを感じると思う。
あるいは
魚
とだけ書いた場合にこの「魚」という文字が一体どういうグルーヴに乗っているのかを探ることは容易ではない。
(実験という“場”または僕の実験的思考という“場”に着目すれば奇想天外な提示も比較的グルーヴィーに感じ易いかもしれないが)
魚魚漁肴魚魚魚角
(複合的なグルーヴ例)
この場合、色や漢字の種類が増えればさらにグルーヴは複雑になり全体に一つのグルーヴを見出すことがより困難になる。逆にすべて漢字であるという点ではシンプルなグルーヴ感とも言える。面倒くさく言うと色相環で120°ぐらいの範囲に収まる色の幅のグルーヴとも言える。
まぁ、だいたい物事はなんとでも言える。
だから言いようが大事なのだ。
人類の過剰な文明活動による環境破壊だって、火山の噴火や隕石の衝突と同等に天変地異として捉えればある種のグルーヴを感じることもできなくはない。
(ただし、それはあまり好ましくないグルーヴだと思う。)
もし、上記の図形パターンの四つの図形の後にもう一つ図形を足すとして、あなたならどういう図形を持ってくるか。
どういうグルーヴ(法則)を捉え、どういうグルーヴに乗るかは幸い、人が自分で決められる。
僕は人生の三大要素をBLT(バランス、ラック、タイミング)として、その中で唯一自分でどうにもできないラック(運)をどう克服するか常々考えていた。
そしてここに来て、グルーヴという概念を取り入れることで、ラックをも自分の意思で多少左右することが可能なのではないかと考え始めた。
(その意味では、運による要素が大きいと思っていた麻雀なども、やはり達人はグルーヴを感じ取ることで運をも引き寄せているのだろうと考えを改めた。)
支配する(自分勝手なグルーヴを作り出そうとする)のではなく、共存する(もともとそこにあるグルーヴに乗る)ことが人をグッドラックに近づけるのではないか。
本来、万物がどういう運動をしているか、そこにどういうグルーヴがあるのか、そういうことを感じ取る能力が、現代人には大幅に不足しているように思う。
そういうことを敏感に感じ取ろうとすると精神を病んでしまうような社会を僕らは築いてしまっている。
人間が自然を阻害するようなグルーヴを作ってしまったがばかりに、自然に属する人間は無情に弾かれてしまう。
そのことを僕は非常に残念に思う。
胡散臭い宗教っぽい表現をすると神との対話のような行為が、もうちょっとあってもいいんじゃないでしょうか、と。
そもそも、人はいつから人としか話さなくなったのだろうか。
人の作り出すグルーヴがすべてだと思ったら大間違いだぞ。
そういう風に見ると、先進国とかそれに追随しようとする発展途上国とか、浮かれててバカみたいだ。
社会的に発言力のある知識人は、もっともっと声を大にしてミニマリズムを唱えていいと思うのだけれど。
それも、ただミニマルというのではなく、そういう言葉があるかどうか知らないがプロパリズム(適正主義)とでもいうような主義を掲げて、既に蛇足的な発展だという警鐘を鳴らしてくれないだろうか。
文明社会もいい加減、目的に近づく行為と闇雲に先に進む行為が、いつも同じというわけではないことを推して知るべし。
そもそも、文明の発展に目的ってあるのだろうか。
・・・また、ずいぶん話が逸れた。汗
では、あなたの今日に心地好いグルーヴを・・・