goo blog サービス終了のお知らせ 

せせらぎせらせら

日々思うこと

グルーヴ実験と考察

2009-07-08 | ぎらぎら
■●▲★(等間隔に並ぶ四つの同一サイズの黒い図形というグルーヴ感)


■○▲★(等間隔に並ぶ四つの同一サイズの図形というグルーヴ感)

○▲(四つの図形というグルーヴ感)
(図形というグルーヴ感)



この実験的な表記も、このブログで見るからこそ違和感なく見れるかもしれないが、これが他の人のブログだったら、この記事自体に不自然さを感じると思う。

あるいは



とだけ書いた場合にこの「魚」という文字が一体どういうグルーヴに乗っているのかを探ることは容易ではない。
(実験という“場”または僕の実験的思考という“場”に着目すれば奇想天外な提示も比較的グルーヴィーに感じ易いかもしれないが)


(複合的なグルーヴ例)
この場合、色や漢字の種類が増えればさらにグルーヴは複雑になり全体に一つのグルーヴを見出すことがより困難になる。逆にすべて漢字であるという点ではシンプルなグルーヴ感とも言える。面倒くさく言うと色相環で120°ぐらいの範囲に収まる色の幅のグルーヴとも言える。
まぁ、だいたい物事はなんとでも言える。
だから言いようが大事なのだ。

人類の過剰な文明活動による環境破壊だって、火山の噴火や隕石の衝突と同等に天変地異として捉えればある種のグルーヴを感じることもできなくはない。
(ただし、それはあまり好ましくないグルーヴだと思う。)

もし、上記の図形パターンの四つの図形の後にもう一つ図形を足すとして、あなたならどういう図形を持ってくるか。
どういうグルーヴ(法則)を捉え、どういうグルーヴに乗るかは幸い、人が自分で決められる。

僕は人生の三大要素をBLT(バランス、ラック、タイミング)として、その中で唯一自分でどうにもできないラック(運)をどう克服するか常々考えていた。
そしてここに来て、グルーヴという概念を取り入れることで、ラックをも自分の意思で多少左右することが可能なのではないかと考え始めた。
(その意味では、運による要素が大きいと思っていた麻雀なども、やはり達人はグルーヴを感じ取ることで運をも引き寄せているのだろうと考えを改めた。)

支配する(自分勝手なグルーヴを作り出そうとする)のではなく、共存する(もともとそこにあるグルーヴに乗る)ことが人をグッドラックに近づけるのではないか。

本来、万物がどういう運動をしているか、そこにどういうグルーヴがあるのか、そういうことを感じ取る能力が、現代人には大幅に不足しているように思う。
そういうことを敏感に感じ取ろうとすると精神を病んでしまうような社会を僕らは築いてしまっている。
人間が自然を阻害するようなグルーヴを作ってしまったがばかりに、自然に属する人間は無情に弾かれてしまう。
そのことを僕は非常に残念に思う。

胡散臭い宗教っぽい表現をすると神との対話のような行為が、もうちょっとあってもいいんじゃないでしょうか、と。
そもそも、人はいつから人としか話さなくなったのだろうか。
人の作り出すグルーヴがすべてだと思ったら大間違いだぞ。
そういう風に見ると、先進国とかそれに追随しようとする発展途上国とか、浮かれててバカみたいだ。
社会的に発言力のある知識人は、もっともっと声を大にしてミニマリズムを唱えていいと思うのだけれど。
それも、ただミニマルというのではなく、そういう言葉があるかどうか知らないがプロパリズム(適正主義)とでもいうような主義を掲げて、既に蛇足的な発展だという警鐘を鳴らしてくれないだろうか。

文明社会もいい加減、目的に近づく行為と闇雲に先に進む行為が、いつも同じというわけではないことを推して知るべし。
そもそも、文明の発展に目的ってあるのだろうか。

・・・また、ずいぶん話が逸れた。汗


では、あなたの今日に心地好いグルーヴを・・・

すべるすべという語呂が気に入った

2009-07-08 | ぎらぎら
漱石風に目に映る全てを画、それも美しい画として捉えようとする場合には、やはりその場のグルーヴを捉えなければならないと思う。

おそらく、複数を一つとする場合に、グルーヴ以外にそれを統べる術はない。

一体感の秘訣はそこにあるに違いない。

偶然が必然と感じられるとき、人は無意識に場のグルーヴを感じて同調いるのかもしれない。

えもいはれないカクテールとは

2009-07-08 | ぎらぎら
一つのグルーヴに乗った物事はそれがどんなに異質なものであっても“えもいはれないカクテール”を生み出す。

草ばかり見ていても風の流れを感じなければ、草の動きの本質を知ることはできない。

場の全体を司る力に留意すること。

中原中也の場合、「冬の夜」という場に於いて、影と煙草と僕と犬にカクテールを見出した。
だが、それだけじゃない。
夜、静けさ、薬鑵の音、女、女の不在、苦労のなさ、えもいはれない弾力の空気のような空想に描かれた女、えもいはれない弾力の澄み亙った夜の沈黙、女の夢、深まる夜。
その方々から拾い集められた言葉(概念)のすべてがカクテールだった。

そこにはグルーヴがあった。

だからこそ、それがただの文章ではなく美しい詩になった。



季節外れですが、敬愛する中也の「冬の夜」を・・・


みなさん今夜は静かです
薬鑵(やかん)の音がしてゐます
僕は女を想つてる
僕には女がないのです

それで苦労もないのです
えもいはれない弾力の
空気のやうな空想に
女を描いてみてゐるのです

えもいはれない弾力の
澄み亙(わた)つたる夜(よ)の沈黙(しじま)
薬鑵の音を聞きながら
女を夢みてゐるのです

かくて夜は更け夜は深まつて
犬のみ覚めたる冬の夜は
影と煙草と僕と犬
えもいはれないカクテールです

   2

空気よりよいものはないのです
それも寒い夜の室内の空気よりもよいものはないのです
煙よりよいものはないのです
煙より 愉快なものもないのです
やがてはそれがお分りなのです
同感なさる時が 来るのです

空気よりよいものはないのです
寒い夜の痩せた年増女〈としま〉の手のやうな
その手の弾力のやうな やはらかい またかたい
かたいやうな その手の弾力のやうな
煙のやうな その女の情熱のやうな
炎〈(も)〉えるやうな 消えるやうな

冬の夜の室内の 空気よりよいものはないのです

思慮と分別

2009-07-08 | ぎらぎら
考えれば考えるほど、いろんなものの区別が付かなくなってきた。
過去と今
今と未来
単純に連続しているというよりは、むしろ重なっている部分がほとんどのように感じる。
自己と他者
正気と狂気
生と死
快楽と苦痛
現実と妄想


訓練

2009-07-06 | ぎらぎら
何かを見て、触って、体験して体感して、心に浮かんでくることをより明確に掘り起こす。ブラシで古代の痕跡を掘り起こす考古学者のような情熱で。その精緻で。
日々、小さな進化を。

ぼや

2009-07-06 | ぎらぎら
ドンドン、という音で目が覚めた。
覚醒の間際に聞こえていたざわめきが現実の音だと分かった。
この地域の人は何かにつけて週に二、三度は集まって昼から酒を呑む。今日も隣の公民館では何かしら催しに擬した吞み会が行われているのだろう。
夜に働いて昼に寝る、というのはあくまで僕の都合だから、昼のうちにドンチャンやるのは責める気もない。
しかしながら、酔った勢いでドンドンと窓を叩かれ眠りを妨げられるのはさすがに許し難い。
それでも、日頃、怒りを弱さと考える僕は、布団の中で苛立ちを抑えようと努めた。
またドンドンと音がする。
今度は玄関のドアが叩かれている。
一体なんだというのか。
染み付いた動作で枕元の時計に目をやるとまだ12時過ぎ。眠り始めてから三時間しか経っていない。
のっそりと体を起こし、梯子を下りて玄関に向かう。
またドンと扉が叩かれた。
「はいはいはい。今出ますよ、もう、なんなんすか一体」
「・・・いるぞ!」
「中に人がいる!」
僕の声に反応してドアの向こうから何人かの男の声が聞こえた。
状況が飲み込めないまま玄関を開けると、ドアの隙間から覗き込むように顔を男が見せた。
ギョッとした。
男は消防隊員の格好で、鋭くこう怒鳴る。
「この煙はどこから出てるんだ!」
「け、煙!?」
僕は何が何やら分からず振り返ると、部屋の中にもくもくと白く煙が立ち込めている。
キッチンを見ると、その煙はコンロの上の愛用はるみ鍋(お気に入りの栗原はるみさんデザインの行平鍋)から次から次へと立ちのぼっていた。その下にチロチロと火が見える。
はッ!そうだった!寝る前に何か食べようと思ってレトルトのごはんを火に掛けたんだった。それから出来上がるまでテレビを見ていたら眠くなって・・・。
急いで火を止めた。
男が後から部屋にドタドタ上がり込んで来て、鍋を取り、蛇口をひねって、そこに鍋を投げ込んだ。
ジュワッっと音がして、煙が湯気に変わった。湯気の中にレトルトごはんの変わり果てた姿が見えた。昔、バーベキューで使った豆炭によく似ていた。
部屋の中には(なぜさっきまで気が付かなかったのか不思議だが)煙が充満して、少し開けたロフトの窓から煙が外に流れ出ていた。
おそらく外のざわめきはそのためだった。
男が素早く部屋の中を見て回り、玄関に出て、状況をほかの隊員に伝える。
外では隊員の一人が無線でどこかに連絡をする声が聞こえる。
僕はそれを聞きながら、あちゃ~、これはかなり大ごとをやらかしてしまったと思った。
男たちがやりとりする声はいまだ緊迫していた。
が、僕はとりあえず火も消したし、煙だけなら換気扇をつけて窓を開けておけばそのうちに出て行くだろう、確かに危なかったがこれにて一件落着と思った。
と思った矢先、今度は警官の制服を着た男が入ってきて、
「あなた、名前は?」
と怒鳴りつけられた。
名前に始まり、住所、電話番号、仕事、と一通りの事情聴取を受け、僕は寝巻のまま聞かれるままに答えた。
それから消防隊員と警察ともう一人警察が代わる代わる戻ってきて、
「今度から気を付けないと駄目だよ」と言い、
僕は三度とも同じように、
「はい、すみません」
と答えた。
正直、三度目には軽く嫌気がさしていたが、そこは意識して悪びれてみせた。
土足の男たちが部屋を出ていってからも、まだ外のざわめきが収まらないので表に出てみて驚いた。
消防車数台に救急車、パトカーがそれぞれ一台ずつ、それを囲むように近隣住民たちが群がっていた。
やはりこの地域の人は騒ぐのが好きなのか。
いや、しかし、今回は完全に僕の失態によって近隣住民および関係者の方々に多大なご迷惑とご心配をかけてしまった、ここは一つ盛大に謝罪しておかねば。
「ご心配をおかけしてすみませんでした。以後、気をつけます!」
と、声を張り上げた。
部屋に戻り、椅子に腰かけて外の気配が散っていくのを待った。
辺りがいつもの昼どきの気配に戻ったのを確認して、煙草を一本吸った。
火をつける瞬間、ちょっと躊躇われた。
とは言っても、これから一生、火を使うことに後ろめたさを感じて生きるわけにもいかない。
吹かした程度で煙草を消し、また布団に潜り込んで目を瞑ると香ばしい匂いが僕を包んだ。
目が覚めたらこれが全部夢だったらいいのにな、と思った。


改善点

2009-07-06 | ぎらぎら
今、世の中が抱えている問題の多くはずいぶん昔から指摘されていた問題のはずなのだけれど、実際にそれが起こっているのはなぜだろう。
誰も警鐘に耳を貸さなかったわけでもないだろうに。
同じように、今、将来的に十分起こり得るであろうとされている問題の多くも、きっと避けられない問題なんだろうなぁ。
僕がやるべきことは、どう考えてもそうした方がいい、と自分で思えることは迷わずやろうということぐらいか。
取り急ぎ、面倒くさい、が嫌いな性格は改善を要するようだ。

閉じティブ

2009-07-06 | ぎらぎら
閉じティブって言葉があるらしい。
「生きてるんだから開いてなきゃ!」って人もいるけど、実際は開いてばかりで生きられるほど静かな世の中じゃない。
今の世、敏感に生きるにはちょっと五月蝿過ぎる。
(うるさい:五月蝿い 満員電車い 女三人い 国道自動車い など)
とにかく開いて生きるには刺激が強過ぎるんだと思う。
生まれついての繊細な精神の持ち主は特に、ヤバいと感じたら思い切って閉じる能力を身に着けた方がいい。
そんなとき、「俺、今、閉じティブなんだよね~」って言っとけば暗い感じもなくて使いやすいと思う。


恐怖

2009-07-06 | ぎらぎら
刹那主義者の中には今を愛し、未来が今のようであることを望むがゆえに、大きな変化を恐れる人がいる。
僕は逆に、小さな変化が気付かぬうちにじわじわと成長し、いよいよそれが目に見える大きさになって表れた瞬間に恐れを感じる。
久しぶりの知人の思考が若さを失っていたり、かつては決して見せなかった含みのある笑顔を見せたり、故郷の母の頭髪が白味を増してきたり、気丈な祖父が弱音をこぼしたり。
すべての運動が物体を不動の状態、すなわち死に到らしめることを恐れているわけではない。
ただ時間の流れによって、今という時間軸上の或る点から遠く離れてしまうことを恐れているように思う。
小さな変化によって巧みに上塗りされ、確実に姿を覆い隠されていく過去。
今年もセミが鳴いて、去年のセミは彼方に連れ去られてしまった。
そのことを心地好くさえ感じてしまう自分が怖い。
なぜなら、それは、今、最も強く愛しているものが時間によって奪い去られてしまう可能性をも示唆しているということだからだ。



積み重ね

2009-07-06 | ぎらぎら
確かにそうだ。
思い返してみても、劇的な瞬間なんて今までの人生には数えるほどしかない。
それなのに、人生はそれ以上に大きく変化している。
それは紛れもない事実だ。
きっと、これからもそうだろう。
それを考えると劇的な出来事は、案外、人生において大した意味を為さないのかもしれない。
日々の積み重ねのように、気にも留めないような小さな小さな変化が人生の中核を作るのだとすれば、日々を生きる気構えが時間をかけて大きな意味を為すのだ。


遺伝子とか 穴とか 造形とか 散文にしても散らかり放題だ

2009-07-03 | ぎらぎら
先頃、穴蔵の中で描くということについて漫画家Y氏と話した。

その一週間ほど前に町で偶然出くわした時、彼は力なく「担当さんから全ボツ食らった・・・」とこぼし、体を透かして町並みが見渡せるほど虚ろな存在になっていた。(実際、僕の隣を歩いていたはずのレイナはY氏とのencounterに気付かず、後になって、いつの間にY氏と会ったの?と言ったほどだ)

穴蔵の中のY氏は輪郭も定まって、すっかり漫画家の気迫を取り戻していた。
空白の一週間のどこかでワムウで言うところのスイッチング・ウィンバックをやってのけたに違いない。
ワムウのスイッチング・ウィンバック―、そう、Y氏は自他共に認めるJの遺伝子を持つ男。
僕が彼と仲良くなった経緯には荒木飛呂彦という偉大な漫画家の存在に拠るところが大きい。
同じくJの遺伝子を自負する僕に言わせてもらえば、(彼は決して認めないだろうが)Y氏が受け継いでいる形質は表面的で、そういう意味では精神的な部分限って言えば僕の方が伝承できるものは遥かに多い。
そのことでY氏とはよく口論になるのだけれど、それこそが、僕らがJをこよなく愛している揺るぎない証なのだ。

荒木飛呂彦さんが僕らの世代に与えた影響は計り知れない。僕らの世代は漫画から学ぶことが非常に多いように思う。(誤解のないよう、一応言っておくが、彼はまだ現役だ)
その穴の大きさはこれからもどんどん膨らんで、いつか彼が世を去るときに一つの決定的な輪郭が見えるだろう。それすらもその後さらに変化していくことになるのだが。
まだ未来の感傷に浸りつつ、一つ、詩的な表現をすると「きっと僕らは皆、穴を掘る者」なのである。

先週マイケル・ジャクソンが遺した穴はあまりに巨大過ぎて、いまだ全貌は誰も見極めていないだろう。
本人はどこか高いところから、腕組みして自分の開けた穴の形や大きさを見下ろして「hmm,not so bad.」と言うだろうか。
はたまたジョン・レノンの穴と比べ合って笑ったりするのだろうか。
ジミ・ヘンだったら穴に火をつけて話題になったりするのだろうか。
とか思いながら、僕はその翌晩、ミートソースパスタを食べた。
パスタが皿から僕の腹に移動し終えるころになって、ところで、立つ鳥跡を濁さず、という言葉もあるが、と僕は考えた。
最近、ますます足の調子がよくないと聞く祖父は、既に自身の終焉を近くに感じているようだが、腕組みしてそれを見下ろすとき、あの独特の笑い声で「ふぁふぁふぁ、慎ましい風合いの穴ができたな」と祖母に笑いかけるだろうか。
その輪郭の一部は僕が担うことになるのだ。
その役割を僕はしっかり果たさなければならないと思うと、少々、気分も締まる。
世の中は穴だらけだ。
僕の体は遺伝子だらけだ。

頭の中は思考だらけで、それをどういう形にこねていくか。
そういう作業は何かに追われていてはできない。
追われる者になっては生きながらえることしかできない。

突然、格言めいた言葉が沸く。
「人生は負うて、追われることなかれ」
人の一生は重荷を負うて遠き道を往くがごとしになぞらえて。
家康の遺訓であるとともに、僕にとっては祖母の遺伝子でもある。

ごちゃごちゃとした道をちょっとずつ片付けながら、ゆとりましょうじゃないの。
脳が疲れてよく寝た朝に書くことはとりとめもなく

むう形にしていく能力が極端に不足している。
そんなときこそ自分のぶち吐いたヘドを凝視することが大事。
見たくないものほど目を叛けてはならぬ。
甘いのは缶コーヒーとドーナツだけで十分だ。
精神を締め上げて悲鳴を上げさせてやれ。
人は誰かの悲鳴を聞いて安らぐもんだろう。
人間は恐ろしい生き物だ。
人間賛歌は狂気の賛歌!
ノミと同類よー!ツェペリさん。

概念記法

2009-06-27 | ぎらぎら
たった今、初めてゴットロープ・フレーゲという名を知る。
「概念記法」という著書、非常に・・・気になる。
記号論(Semiotics)、記号学(Semiology)あたりと絡みそうだなぁ。
結局、パースさんやエーコさんの話を聞かなければならないのかぁ。
ウィトゲンシュタインさんとか、聞いてもわかんなそうだもんなぁ。

自分なりの概念記法(用途が違うかも知れないが)を小説風にやってみたのが先日の、煙の擬人化という試みだが、結果は惨敗。
道程は果てしないのである。

しかし、難しいのは苦手やで~。
誰か、もっと噛み砕いて喰わせて下さいませんか。

もっと、身近に思想家とか哲学者とかいっぱいいて欲しい!
酒でも呑みながら、がなり合いたい!
言い聞かされたような陳腐な倫理観など易々と切り捨ててしまうくらいの大馬鹿者たちと、胸ぐら掴んで「てめぇ、コノヤロー!」とか言い合いたいぞッ!



サブジェクティヴな真実

2009-06-24 | ぎらぎら
「僕はね、普くすべての存在の無意味を嘆いているんじゃあないんだ。それよりもむしろ、人間が無意味の上に意味を見出すだけのイマジネーションを持っていることが嬉しい。ま、どっちにせよ、意味なんてものに捉われるのは人間だけだけど。僕の華やかさなんかからは程遠い、夢と現実、本音と建前の間で揺れ動いているようなごくありきたりな庶民の実物大の生活、その中に僕が思わず「That's it!」と叫んでしまうような真実が見い出せればそれでいい。誰かとそういう経験や感覚を酒でも呑みながら語り合えればさらにイイね。深夜に穴の中で交わされるような蚊のまつげが落ちる程度のヒソヒソ声でね。そういう真実には、天啓のようなある種の偶然性も必要だけれど、何よりもまず、それを手に入れようとする貪欲さが必要なんだ。下らない嘘で塗り固められた心ってのは、鍵穴をコンクリートで塞いでしまったみたいに真実がはまる隙間もないってわけよ。何かを失って、その欠如が再び満たされる時に、ああ、これだ、これなんだっていう感覚があるよね?その感じがまさに僕の求めるもの。それが僕の生きている意味なんだ」

煙の形を擬人化する

2009-06-21 | ぎらぎら
色彩のない町を歩きながら2人で観察したことを発展させようということになった。
「1年を均等に91分割してみようと思うんだ」と彼は指を折りながら言った。
なるほど、確かに生命体ではないから、どういう形に分解しても死ぬことはないだろうな、と僕は思った。
加えて彼は、そうすると、この町はもっと美しくなるはずなんだ、と断言した。
今日の彼の髪型は冴えないが(もちろん彼には内緒だが)、言うことは一々もっともだ、と僕は感心した。
「どうだい、今度は川づたいに海の方まで歩いてみないか?」と僕が提言してみた。
彼はにやりと笑って「なるほど、海と川の境に線を引こうってわけだな」と言った。
深々と頷きながら、僕はいつだったか、あなたは何でも勝ち負けで判断するのね、そういうのって、きっと女には解らない性(さが)なんだわ、と言って冷笑を見せた女のことを思い出していた。
結局、女と僕は相対的にしか形容できない関係だが、彼と僕とは本当の意味で仲間なのだ。
夕方、僕らは海に辿り着いて、予定通り、境界のところに滑らかな線を引いた。
それは沖の方に向かって優雅に膨らむ曲線だった。
彼の提案で、近くのコンビニでビールを買ってきた僕らは、少しずつ変化していく曲線を眺めながら、したり顔で乾杯したのだった。