患って3,4日の死で突然と言えばそうだが、85歳の年齢を考えれば自然なのかと変に納得したりする。
今巷では映画「おくりびと」が内外で話題になっていて、僕も公開と同時に観に行ったものだ。
そこで描かれているものは今では普通に見られる日本のしきたりの様なものだった。
僕も20代のころ叔父さんの葬儀で初めて納棺夫の鮮やかなそれでいて厳かな手つきに魅了された一人である。
僕らの同年代位か少し上のスラッとした今で言うイケメンの納棺夫のその動作の一つ一つに職業としての技を感じ固唾を呑んで眺めていた記憶がある。
それまでは割りと年配の方がおやりになり、化粧などは施さなかったし動作も如何にも物体に衣服を着せるといったものだったから驚きであり美しいとさへ感じた。
変わったと言えば今日も葬儀にお参りし周りの方々とも話していたことだが、ここ6~7年で亡くなった方への家族の想いが変わってきたなぁと思うところがある。
それは遺影だ。 正面に置かれた遺影の大きさが芸能人か著名人のように大きくなったのはもちろんだが、普段着の姿が殆んどになったことだ。
これまでは僕らの田舎では生前に紋付を着て撮っておいたか、そうでもなければ普段着の写真の首から下に写真屋さんがわざわざ紋付を施し飾ったものだ。
それは9年前に亡くなった家の爺ちゃんもそうだった。 死んだ人に恥ずかしい思いをさせられないのと、世間体を気にした残された家族の想いが大きかったからに他ならない。
したがって仏壇のある部屋の長押に掛かった写真は曾爺ちゃんから現代までみんな同じ顔が並ぶ。
ところが今は皆さん亡くなってもズーット一緒に居続けたいという想いが強く、今でもそこにいるような決して飾らない普段着の姿の写真を好んで使われる様になった。
そう言えば今日の友人のお母さんは花柄のブラウス姿で実に笑顔が可愛く輝いていて、今にもお声が聞けるような想いがした。
これまでのどちらかと言うと無表情で堅苦しい写真よりはこちらの方が兎角暗く悲しみに走りがちな死を長い短いに拘らず人生を全うした故人の明の部分も照らし出して、お参りした僕らも救われるような気持ちになる。
そう考えると日々残しておきたい写真を考えカメラの前に立つようにしなくちゃならないなぁ・・
まぁ、それだって死んだ後のことは分からないもの、気に入った写真で〆くくってもらえるかどうかは生きてる時の残された家族への貢献度かな(笑。