だ・こーじの「いま、思い、考えること」

「目に見え心に思ふこと」をホンネのごとくフィクションとして綴ります。

たとえば、根回しなんか……9/9(火)

2014年09月09日 | 日記
物事を進める時に「根回し」が事前に必要であり、これは社会では当たり前のことだ、と言ったとしたらこの「根回し」というコトバはどう受け止められるのだろうか。

シロとクロをはっきり決める勧善懲悪などは文学の世界では写実主義に、またこれはこれで自然主義や反自然主義に展開されていった、などとザックリ中学や高校の国語あたりでは教わるのかもしれないが、いずれにしても、コトバ(「根回し」)は、発せられた人の個を抱えながら相手に投げられ、受け取る側は自分の個によってこれを捉え直す作業が必然と、時に漫然と行われている限り、過度に言えば「コトバは届きはしても通じない」。

抽象なり象徴なるコトバをやりとりしていることをもっと自覚的に理解しておかないと、どこか自他ともに生きづらさを増長させていくことになりかねない。

そうなると、文字に示されたコトバは限りなく無機質にも見えてしまうことが起こらないとも限らない。
さらに言えば、文字が一人歩きすることの「怖さ」を知り、謙虚たれ、と自戒をこめて思う。

そんな社会だからこそ、余計に緩衝材のごとき「根回し」は有効なのかもしれないが、こんなことが必要だと、いつ、だれに学んだのだろう。

シロとクロではないグレー。

ここを伝える役務はオトナにはあるように思う。