長崎県北西部に位置するこの島は、日本史において戦国期より度々登場するのだが、それまで九州北西部に割拠した下「松浦党」の覇者、平戸松浦氏の本拠地である。
平戸には数々の歴史上の史実が残されているが、この写真にあるように、海外との関わりも大変多い。
最も関係があったのは今の中国かもしれないが、記念聖堂がある聖フランシスコ・ザビエルの滞在やスペイン人宣教師聖ペトロ・バプチスタは二十六聖人の殉教者の一人であり、またポルトガル人やスペイン人が貿易を求めて来航し、後にはオランダやイギリスも商館を設置している。
スペイン船の来航は1584年のことだが、当時の平戸の様子はどうだったのであろう。
平戸松浦氏は鎌倉時代、室町時代と今福松浦家を宗家とする「松浦四十八党」の一家であったが、戦国期までにはその中で確固たる地位を築き、徳川幕府が開かれると、大名となって現在の長崎県北部一帯を統括した。スペイン船が来航したのはちょうどその頃である。
廃藩置県の時には一時「県」にもなったところであるが現在は過疎化が進み、周辺の島々を併せた合併後の推計人口は現在36,150人程となっている。
数々の歴史が残る地域だけに、何とか頑張ってその文化を後世に伝えて欲しいと願っている。
mm
まさき設計
平戸には数々の歴史上の史実が残されているが、この写真にあるように、海外との関わりも大変多い。
最も関係があったのは今の中国かもしれないが、記念聖堂がある聖フランシスコ・ザビエルの滞在やスペイン人宣教師聖ペトロ・バプチスタは二十六聖人の殉教者の一人であり、またポルトガル人やスペイン人が貿易を求めて来航し、後にはオランダやイギリスも商館を設置している。
スペイン船の来航は1584年のことだが、当時の平戸の様子はどうだったのであろう。
平戸松浦氏は鎌倉時代、室町時代と今福松浦家を宗家とする「松浦四十八党」の一家であったが、戦国期までにはその中で確固たる地位を築き、徳川幕府が開かれると、大名となって現在の長崎県北部一帯を統括した。スペイン船が来航したのはちょうどその頃である。
廃藩置県の時には一時「県」にもなったところであるが現在は過疎化が進み、周辺の島々を併せた合併後の推計人口は現在36,150人程となっている。
数々の歴史が残る地域だけに、何とか頑張ってその文化を後世に伝えて欲しいと願っている。
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