絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

講釈が多すぎる

2007年01月15日 14時32分22秒 | 一絃琴
一絃琴について言えば、その伝説的要素や寓話的要素
(琴として神話などに登場する)が拡大解釈されて
現実に演奏されるものとの距離がありすぎる気がします。
たった3年でなにがわかるといわれればそれまでですが
どんなに講釈をたれても、実際の演奏が聞く人にそうだと思われる
ような質の良いものでなければ、
自分たちだけで悦に入っていると言われても致し方ないですね。
そこのところ、指導者の先生方はなにも思われないのかしら?
まあ、趣味でやってるだけで特にどうということもないのでしょうね。
こんなふうに考える人間のほうが珍しい、珍種であるということかも


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ある意味で同感ですが・・・ (幽意一絃琴/高橋通)
2007-07-16 22:47:02
講釈が多すぎるという点では同感です。何故かを考えてみたらいかがでしょうか。どんな講釈を垂れようと、何も言わなかろうが、良い演奏をすれば良いのではないでしょうか。
一絃琴音楽に対する考え方の違いもあるように思います。何を求めているか、御自身に忠実であることが大事ではないでしょうか。
私の先生は、ひたすら良い音を追求していました。そのための楽器の改良にも力をいれていました。一方で、亡びるものの美しさのあることを感じていらっしゃいました。私は必ずしも同感ではありませんが、良い音楽、一絃琴らしい音楽、を追い求めています。いろいろ講釈も垂れています。もし、私の講釈と実行している音楽がかけ離れているならば、それはまだ未熟なだけだと思っています。残念なことは、どのくらいかけ離れているかと言うことを伝えてくれる人が少ないことです。
返信する
おっしゃるとおりです (琴音)
2007-07-17 12:17:05
コメントいただきありがとうございます。
そうですね、おっしゃるとおりだと思います。
何かしら伝われば、解説があろうがなかろうが
かまわないですね。

聴いている人が何かを感じ
それがどこから来るものなのか
『一弦琴』とはどんなものなのだろう?と
興味をもったときはじめてこの琴のいわれを
知るのが、なにか望ましい感じがしますが
それは私の個人的な願望にすぎません。

冬場から事情によりお稽古を休んでいます。
一弦琴についていろいろと考えるところはありますが
お稽古再開ののちは
「人に聞いてもらえる」レベルを目指した練習をするつもりではいます、、、
でも、どうなりますことやら。
自分がいろいろとブログに書いてきたことが
自分のレベルの低さを考えると
恥ずかしい限りで…

そんなことを自覚させてくれた(他の邦楽の先生に)
感謝する次第ではあります。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。