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いつの間にかコースが整備されてたんですね。知りませんでした。
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中間の一向堂公園口、昔に比べて安全な道になったものです
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いよいよ道が狭まって来ました
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見事に切通してます
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いい感じの切通しです
4ヶ国語(日英中韓)の標識がありました。日本語だけ抜粋
国指定史跡 大仏切通 昭和52年8月10日指定 大仏切通はいわゆる鎌倉七口の一つに数えられ、梶原・山崎を経て武蔵・京都方面へ通じる道路です。記録がないため正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条氏常盤亭の存在や、朝比奈切通や巨福呂坂の整備時期との関係から、仁治2年(1241)から建長2年(1250)ごろに整備されたと考えられています。 元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでは、上野国(現在の群馬県)から南下した軍勢が洲崎(現在の深沢・山崎)方面から攻め寄せ、激戦となったことが「太平記」にみえていることから、この地も戦場になった可能性があります。 大仏切通は、江戸時代に経路が変更され、現在の県道鎌倉藤沢線ができたため大規模な破壊を免れ、付近に造られた平場や、ここに開口する「やぐら」と呼ばれる岩窟、そして切岸などと共に、かつての鎌倉の幹線道路のあり方を、今によく伝えています。 平成20年3月 鎌倉市教育委員会 |
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「火の見下」側にある平場のやぐらです
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