風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

風雅の意味

風雅とは、自然の中に趣や味わいを感じること・さま。
風雅を目指し、自宅を風雅庵、ダイニングを風雅亭と呼ぶことにしました。

御成小学校

2011-10-09 14:35:21 | 湘南鎌倉
鎌倉御用邸の跡地に建てられた御成小学校、
市民運動会ということで、市民の皆さんに混じらせていただきました。
御成門の門札は、高浜虚子の書だそうです


正面玄関、旧木造校舎の玄関イメージの再現だそうです
校章は57の桐が恐れ多く、55の桐になってます


裏山の御成山に続く運動場、広々としています
向こうの方にはケヤキの巨木が景色を作ってます

この校庭には今小路西遺跡が埋まっています。
733年(天平5)の木簡が出ています
「糒(ほしい)五斗 天平五年7月十四日」「郷長 丸子□□」
鎌倉郡衙と推定される施設跡も発掘されました。

校舎の移築計画については、いろいろあったようですね


旧講堂、1933年(昭和8)の開校時からのものです
よく残ったものです、余裕があってのことでしょう


図書室、美しい建築です。
古い歴史とうまく調和して、さすがに羨ましいです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大仏切通し

2011-10-09 11:47:04 | 湘南鎌倉
大仏坂が気になってハイキングコースへ登りますと、大仏切通への標識です。


いつの間にかコースが整備されてたんですね。知りませんでした。


中間の一向堂公園口、昔に比べて安全な道になったものです


いよいよ道が狭まって来ました


見事に切通してます


いい感じの切通しです

4ヶ国語(日英中韓)の標識がありました。日本語だけ抜粋
国指定史跡 大仏切通 昭和52年8月10日指定
 大仏切通はいわゆる鎌倉七口の一つに数えられ、梶原・山崎を経て武蔵・京都方面へ通じる道路です。記録がないため正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条氏常盤亭の存在や、朝比奈切通や巨福呂坂の整備時期との関係から、仁治2年(1241)から建長2年(1250)ごろに
整備されたと考えられています。
 元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでは、上野国(現在の群馬県)から南下した軍勢が洲崎(現在の深沢・山崎)方面から攻め寄せ、激戦となったことが「太平記」にみえていることから、この地も戦場になった可能性があります。
 大仏切通は、江戸時代に経路が変更され、現在の県道鎌倉藤沢線ができたため大規模な破壊を免れ、付近に造られた平場や、ここに開口する「やぐら」と呼ばれる岩窟、そして切岸などと共に、かつての鎌倉の幹線道路のあり方を、今によく伝えています。
平成20年3月 鎌倉市教育委員会



「火の見下」側にある平場のやぐらです
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉大仏

2011-10-09 11:22:01 | 鎌倉33観音
第23番 大異山・高徳院・清浄泉寺(浄土宗)【聖観音】 
高徳院の本尊、銅造阿弥陀如来坐像、像高11.2m、重量121t、国宝です。


風土記稿が伝える「清浄泉寺建立序次之記」によると、
ここは、真言宗の浄泉寺の跡とのこと。
聖武天皇は、天平9年3月に浄泉寺を開基、東国の総国分寺としたようです。
開山は行基、時忠が取り仕切って大般若経を寄付したようです。

時忠とは良弁の父親、藤原鎌足の子孫、関東の総追捕使、
由比の長者とも呼ばれる染谷時忠のことでしょう。
国分寺や東大寺を作った聖武天皇、行基、良弁と複雑に絡んでます


現在の大仏は鎌倉時代に作られたものですが、開基・開山や完成年は不明です。

源頼朝と政子が、再建された奈良の大仏を見て発願し、
浄土宗の念仏僧、浄光が勧進して作ったらしいです。年表をあげておきます
1238年:深沢の里の大仏堂の事始(吾妻鏡)
1238年:深沢の里の大仏の御頭を挙げ奉る、周八丈なり(吾妻鏡)
1239年:寄付の下知を出すよう、浄光が幕府に上申
1241年:深沢の大仏殿、上棟の儀有りと<云々>(吾妻鏡)
1243年:八丈余の阿弥陀像を安じ、今日供養を展ぶ(吾妻鏡)
1252年:金銅にて八丈の釈迦如来の像を鋳始め奉る(吾妻鏡)
1262年:叡尊が来鎌、吾妻鏡(弘長2年)欠如
1264年:吾妻鏡(文永元年)欠如
1264年:鋳物師の丹治久友が「新大仏寺大工」と自称

仏像の高さは、髪の生え際までの高さで言うそうで、実物は9.6mです。
立った場合に8丈で、坐像だと4丈、丈は尺の10倍です。
周尺は唐尺(30cmくらい)の3/4で22.5cmとして、4丈=9mです。
実測と合うと言ってるそうですが、いいかげんなものです

完成年については、1262年説(馬淵和雄)が有力みたいです。
叡尊・忍性の律宗教団は、朝廷の支配下だった技術者を引き抜いて組織したり、
先行して勧進や土木事業を行っていた念仏僧を、官僧によらず律宗僧が
受戒する仕組みを作って取り込みました。北条得宗家は、専修念仏を追放したり、
経済的な権限を与えて支援する代わりに、律宗教団の資金や技術を利用しました。

また、吾妻鏡が北条氏や律宗の関与の記述を避けてることも謎ですが、
堕落した律宗組織との裏の関係の隠蔽、時頼の政治的陰謀の隠蔽、
地元民の安達氏の活躍の隠蔽、とかいろいろあるようです


奈良の大仏は盧舎那仏ですが、鎌倉の大仏は阿弥陀仏です。
親指と人差指で作る円がポイントで、上生の上品、阿弥陀の定印です。
円を取ると釈迦の定印に簡単に改造できそうです。
律宗教団は釈迦信仰があったので、金銅仏は釈迦如来で作り、
江戸時代に阿弥陀に戻したという説もあるようです

与謝野晶子の「鎌倉や み仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」、
阿弥陀仏と釈迦を間違って詠んでますが、間違うのも無理ないですね


札所本尊の聖観音は観月堂に安置されてます。
2代将軍、徳川秀忠が寄進したとのことです
大仏が大きすぎて注目されず、もったいないですね


いただいた御朱印です
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする