風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

風雅の意味

風雅とは、自然の中に趣や味わいを感じること・さま。
風雅を目指し、自宅を風雅庵、ダイニングを風雅亭と呼ぶことにしました。

鎌倉大仏

2011-10-09 11:22:01 | 鎌倉33観音
第23番 大異山・高徳院・清浄泉寺(浄土宗)【聖観音】 
高徳院の本尊、銅造阿弥陀如来坐像、像高11.2m、重量121t、国宝です。


風土記稿が伝える「清浄泉寺建立序次之記」によると、
ここは、真言宗の浄泉寺の跡とのこと。
聖武天皇は、天平9年3月に浄泉寺を開基、東国の総国分寺としたようです。
開山は行基、時忠が取り仕切って大般若経を寄付したようです。

時忠とは良弁の父親、藤原鎌足の子孫、関東の総追捕使、
由比の長者とも呼ばれる染谷時忠のことでしょう。
国分寺や東大寺を作った聖武天皇、行基、良弁と複雑に絡んでます


現在の大仏は鎌倉時代に作られたものですが、開基・開山や完成年は不明です。

源頼朝と政子が、再建された奈良の大仏を見て発願し、
浄土宗の念仏僧、浄光が勧進して作ったらしいです。年表をあげておきます
1238年:深沢の里の大仏堂の事始(吾妻鏡)
1238年:深沢の里の大仏の御頭を挙げ奉る、周八丈なり(吾妻鏡)
1239年:寄付の下知を出すよう、浄光が幕府に上申
1241年:深沢の大仏殿、上棟の儀有りと<云々>(吾妻鏡)
1243年:八丈余の阿弥陀像を安じ、今日供養を展ぶ(吾妻鏡)
1252年:金銅にて八丈の釈迦如来の像を鋳始め奉る(吾妻鏡)
1262年:叡尊が来鎌、吾妻鏡(弘長2年)欠如
1264年:吾妻鏡(文永元年)欠如
1264年:鋳物師の丹治久友が「新大仏寺大工」と自称

仏像の高さは、髪の生え際までの高さで言うそうで、実物は9.6mです。
立った場合に8丈で、坐像だと4丈、丈は尺の10倍です。
周尺は唐尺(30cmくらい)の3/4で22.5cmとして、4丈=9mです。
実測と合うと言ってるそうですが、いいかげんなものです

完成年については、1262年説(馬淵和雄)が有力みたいです。
叡尊・忍性の律宗教団は、朝廷の支配下だった技術者を引き抜いて組織したり、
先行して勧進や土木事業を行っていた念仏僧を、官僧によらず律宗僧が
受戒する仕組みを作って取り込みました。北条得宗家は、専修念仏を追放したり、
経済的な権限を与えて支援する代わりに、律宗教団の資金や技術を利用しました。

また、吾妻鏡が北条氏や律宗の関与の記述を避けてることも謎ですが、
堕落した律宗組織との裏の関係の隠蔽、時頼の政治的陰謀の隠蔽、
地元民の安達氏の活躍の隠蔽、とかいろいろあるようです


奈良の大仏は盧舎那仏ですが、鎌倉の大仏は阿弥陀仏です。
親指と人差指で作る円がポイントで、上生の上品、阿弥陀の定印です。
円を取ると釈迦の定印に簡単に改造できそうです。
律宗教団は釈迦信仰があったので、金銅仏は釈迦如来で作り、
江戸時代に阿弥陀に戻したという説もあるようです

与謝野晶子の「鎌倉や み仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」、
阿弥陀仏と釈迦を間違って詠んでますが、間違うのも無理ないですね


札所本尊の聖観音は観月堂に安置されてます。
2代将軍、徳川秀忠が寄進したとのことです
大仏が大きすぎて注目されず、もったいないですね


いただいた御朱印です

仏法寺跡

2011-10-01 15:43:13 | 湘南鎌倉
極楽寺駅の前の墓場から霊仙山に登ってみます。
極楽寺絵図によると、極楽寺の支院の仏法寺があり、
請雨池では忍性が雨乞いの祈祷をしたといいます


お墓の裏から尾根に取り付きます


尾根道をひたすら進みますが、予想より道は長いです。
水色のテープがメインの道でした、同じ色で少し細いテープもあり区別が必要


登り切ったところ、 左右に道があります。
五合枡遺跡と思いますが、藪状態で遺構は分かりませんでした


右の道を少し行くと、コッホ石碑移転の石碑がありました。
コッホは北里柴三郎と夏を鎌倉で過ごし、
この霊仙山上からの眺めが特に気に入ったそうです。
撰:沢寿郎、書:小島寅雄、昭和58年11月、鎌倉市医師会とあります


倒木をくぐり抜け、海の方へ続く道を進み、斜面を降りると
大きな平場に出ます。ここが仏法寺跡の遺跡です。
請雨池跡や五輪の塔があるはずですが、葛が茂って分かりませんでした。


材木座の光明寺が見えます。
ここから由比ヶ浜や和賀江島を監視したのでしょう


帰り道、五合枡遺跡の地点から少し下ったところに
脇道があり、ホースを張った道がありました


石で補強した土塁の遺構のように見えます。
新田義貞の攻撃に対する鎌倉幕府の防衛遺構かもね?


東洋平和発祥之地の石碑がありました。
インド独立運動を起すや、志士ボースがこの地で独立旗を掲揚、
日支印三国提携の秋にして東洋永遠の平和を期すという碑です
昭和8年2月11日、鎌倉稲村ヶ崎 義烈荘に於いて、題と撰:頭山満

この先民家のため立入禁止とありました。
通れそうな感じでしたが、おとなしく元の道を登って戻りました。
帰り道が分かりにくかった、お勧めはできない道です。

極楽寺

2011-10-01 14:51:59 | 鎌倉33観音
成就院から極楽寺の方へ歩きますと、
左手の路地の奥に上杉憲方の墓がありました。
七層の石塔が墓と言いますが、明月院にもお墓があるようです


桜橋を渡って右手の地蔵堂、導き地蔵さん。
このお地蔵様の睨みが効く範囲では悪いことはできない感じです



第22番 霊鷲山・感応院・極楽律寺(真言律宗)【如意輪観音】
写真もスケッチも一切禁止とありましたが、
仏像以外なら撮っても良いと許可をいただきましたので
周りの目を気にしながら少しだけ撮らせていただきました


本堂には北条氏の家紋がついてます。
開基は北条重時、極楽寺殿と称され、極楽寺流の祖となった人です。
開山は良観房・忍性菩薩、叡尊の弟子で真言律宗の最盛期を作りました。

ところで極楽寺は、最初は念仏系のお寺だったようです。
元のお寺の場所は不詳ですが、藤沢の遊行寺が極楽寺の
廃寺跡地にできた(1325年)とか、院号が同じ感応院というお寺が
大鋸にあったりするので、藤沢という噂もあるようです。

1255年(建長7)には、年号入の仏具に「極楽律寺」とあり、既に律宗化?
1259年(正元元)、このころ極楽寺は深沢(大仏のある所?)
にあったと言いますが、忍性の推薦で現在地に移転します
1261年(弘長元)には重時が死去、その子の長時、業時が極楽寺を整備
1262年(弘長二)、叡尊が来鎌、多くの念仏衆が真言律宗に改宗
1267年(文永4)には忍性が極楽寺に入山、極楽寺の黄金期です


製薬鉢と千服茶臼
律宗は戒律(釈迦の定めたという規範)を重視する教団です。
戒律護持がバリアとなると信じ、穢れに触れることを恐れず、
貧者や病者に対する施しや救済活動ができました


極楽寺境内絵図より、
かつては7堂伽藍に49の支院を持つ壮大な寺院だったといいます。

忍性は慈善救済事業と戒律護持などにより、鎌倉幕府の支持を受け、
道路や橋などの土木事業、漁業権の管理、港湾(和賀江島)の管理、
葬式、への施し、などの利権を一手に得ました。
幕府や院からの依頼で、異国調伏や祈雨を祈願したりもしています。


山門前を掘り起こしたときに発見されたという極楽寺の井


太師堂
札所本尊の如意輪観音さまを拝めました。
小さいながら、金色の像でした。細部は見えず、
ネットを探しても見つからずでした。


文殊菩薩、忍性さんは文殊信仰があったようです。
文殊の生まれ変わりと言われる行基を信仰し、後継者として活動しました。

また、聖徳太子が四天王寺に四箇院(敬田院、施薬院、療病院、悲田院)を
作ったのに深く感銘、聖徳太子信仰もあったとのこと


清涼寺式の木造釈迦如来立像、生前の釈迦の姿です


転法輪印をむすぶ釈迦如来坐像
釈迦が説法したときの印相、
釈迦への回帰をめざした真言律宗のシンボルです

花祭りの4月7~9日には本尊や忍性塔が公開されます。
本物を見てみたいものです

成就院

2011-10-01 14:13:40 | 鎌倉33観音
第21番 普明山・法立寺・成就院(真言宗大覚寺派)【聖観音】

忍性が極楽寺への切通しを作るまで、極楽寺坂は鬱蒼と木が茂り、
昼間でも夜のように暗く、このあたりは「星月夜」と呼ばれてました。
坂の上り口には「星の井」という井戸が残ってます。

井戸の近くには虚空蔵堂があります。
成就院の境外仏堂で、明鏡山・円満院・星の井寺と称します


聖武天皇の時代、行基が諸国行脚中、明星の光が宿ると地元民がうわさする
「星月夜の井」をのぞき、現れた虚空蔵菩薩の姿を仏像に彫ってお堂を建てました。
その数100年後、源頼朝はこの菩薩を尊崇し、行基の菩薩像を秘仏とし、
仏師運慶に前立の虚空蔵菩薩を作らせたとか

でも、正・5・9月13日に公開される本尊は江戸時代の作みたい、
昔、子供の13参りに京都嵐山の法輪寺まで行ったものですが、
行基の作った虚空蔵菩薩ならここで13参りできるのにね


境内には「舟守地蔵」も安置され、近在の人々に祟敬されてます


さて、成就院へ向かう極楽寺坂から、由比ヶ浜の眺めです。
現在の極楽寺の切通しは大正時代に掘り下げたらしく、
忍性が作った切通しは成就院のある高さだったと思われます。


鎌倉33観音の札所の成就院です。
空海(弘法大師)が江ノ島を訪れた際、この地で護摩供を修しました。

空海というと、山岳修行中に授かった「虚空蔵求聞持法」を修し、
一度読んだら理解し暗記できるという秘法を身につけました。
遣唐使として入唐、たった2年で密教の正統後継者となる
伝法灌頂を授戒し、帰国して真言宗の開祖となった人、
行基ゆかりの虚空蔵菩薩と聞いたら放っておけないでしょうね。

行基、空海の霊跡のこの地に、北条泰時が1219年(承久元)に僧辰斎を招き、
不動明王を本尊として成就院を建立、鎌倉の守りと北条氏の繁栄を祈ったという


不動明王のレプリカ


文覚上人荒行像のレプリカ

いろんなレプリカが置いてありますが、
札所本尊の観音さまはどこにも見えずでした


いただいた御朱印、次の極楽寺といっしょです