介護はイヤだ

両親への積極的な介護をしていなかった(両親は平成24年度に相次いで死亡)、ダメな子供の戯言を書いています。

家系図(その2) 『よね』叔母

2015-05-24 16:24:21 | 日記
会った記憶は勿論、その存在もチャンとは聞いた事がないと思うが、母方の改製原戸籍に『よね』という叔母が登場する。

この『よね』に関する戸籍記載事項を読み解いていたら、波瀾万丈な人生を想像してしまいました。

以下、私の勝手な想像を交えた『よね』の半生を書きます。
  ☆年月日は実際の記載通りですが、一部は届け出の日付になります☆
  ★住所・氏・名の一部は実際の記載の通りです★
〇明治28(西暦1895)年1月6日【零歳】
 現在の千葉県習志野市谷津付近に住む戸主「椎名治平衛」と妻「わか」との間の二女として誕生する。

〇明治30(西暦1897)年【二歳】
 ・11月9日 家計が苦しく口減らしの為に、近くに住む戸主「織田倫太郎」と「ふみ」の養女に出される。改製原戸籍には、後に織田家の戸主となる「織田おりよ」の『妹』として続柄が記載される。

〇大正5(西暦1916)年【二十一歳】
 ・戸主「織田倫太郎」死亡。姉の「おりよ」が新たな戸主となる。

〇大正7(西暦1918)年【二十三歳】
 ・「おりよ」が2人目の婿養子「慶次郎」を迎える。

〇年月不明
 ・織田家へ「芋がら」を卸しに来る『茨城県真壁郡大田村大字西方1373番地』に在をもつ農家「佐藤家」の「巳之助」が気になる。
   ⇒母に聞いたところ、織田家では色々な物(芋がら、炭、ガラス板、鮮魚、ブリキ玩具)の卸店みたいなことを行っていた。後の出来事から「芋がら」が適切だと思った次第です。
 
〇大正10(西暦1921)年【二十六歳】
 ・ナニをしてお月様が来なくなってしまった事がバレる。問い詰められ、頬を赤らめて畳に『の』の字を書きながら「巳之助さん」と呟く
 ・「慶次郎」に問い質された「巳之助」は「よね」との事を認める。
 ・分籍せずに横浜に居を構えた
 ・12月24日 この頃の習わしで、当人の戸籍に生きている両親を載せるために、「慶次郎」と「おりよ」の養女となる。
  ⇒私から見て「曾祖母の娘」(大叔母)が「祖父母の娘」(叔母)になってしまった。

〇大正11(西暦1922)年【二十七歳】
 ・1月14日 お腹の仔の父親である「巳之助」を婿養子に迎え婚姻の届け出をする。
 ・1月27日 横浜市神奈川区新町で長女「ソヨ」を出産
 ・4月11日 東京都杉並区高円寺の病院で「ソヨ」が死亡

〇大正12(西暦1923)年【二十八歳】
 ・2月13日 姪「きよみ」(五歳)を養女に迎える。
   ⇒「きよみ」は名古屋市中区南辰巳町の池田家に嫁いだ「とよ」【「とよ」は「倫太郎」の三女なので、戸籍上の妹。同時に、養母「おりよ」の妹なので伯母に当たる】の長女

〇大正14(西暦1925)年【三十歳/きよみ七歳】
 ・養母であり、姉でもある「おりよ」が死亡

〇大正15(西暦1926)年【三十一歳/きよみ八歳】
 ・8月18日 夫「巳之助」が死亡

〇昭和3(西暦1928)年【三十三歳/きよみ十一歳】
 ・7月6日 織田家の近くに転居し分家として届け出て戸主となる。
  ⇒手元の改製原戸籍ではこの事を以て「よね」と「きよみ」は『除籍』となっている。
 ・10月29日 最初の養母「ふみ」を自分の戸籍に入れる。

以降の事は不明です。

家系図を作成してみよ~っと

2015-05-22 21:08:59 | 日記
数日前、銀行の担当者から「司法書士の先生から不動産の登記が済んだとの連絡が入りました。21日に書類をお渡しいたしますので銀行の〇〇階までご来店願えませんか」との案内が有った。

言われた時刻に訪れ、登記が済んだ土地および建物の権利書を受け取る。
その際、『改製原戸籍』等も帰ってきたので、司法書士の先生の勧めもあり、今回入手した改製原戸籍から読み取れる範囲内で家系図モドキを作ることにしました。

今、母の系統を読み解いていますが・・・母から聞いたあやふやな話が実際にはどうだったのかが推測できて面白い。

例えば、母がしてくれた話しによると・・・祖父と祖母は再婚同士。それぞれに連れ子がいて、A伯父さんは祖父の子供、B伯母さんは祖母の子供[話してくれる時によっては、両名の間に生まれた子供]。

〔改製原戸籍からの読み取れる歴史〕
 えぇ~と・・・どこから書けばいいのかな?
   ☆読んでいれば判りますが、家名[氏]は仮称です☆
   ★名の方も変更しました(2015/5/24)★
 ・明治三七年
   織田家『倫太郎』の長女『おりよ』は「家女」なので、武田家の『寅吉』を婿養子に迎え、婚姻した。
 ・明治四五年
   だが、何かあったようで、『寅吉』と養子離縁・離婚している。
   尚、この戸籍には2人の間に出来たとする子の記載が無かった事から、種無しの婿さんを追い出したのかもしれない。
 ・大正五年
   『おりよ』は、前戸主である『倫太郎』が死亡したことで、戸主となる
 ・大正七年
   戸主『おりよ』は、前田家『利家』の三男『慶次郎』を婿養子に迎え、婚姻した。
   婚姻と同時に戸主は『慶次郎』に変更されている
 ・大正十年
   戸主『慶次郎』と『おりよ』は、『おりよ』の妹『よね』を二人の養女として届け出ている。
    ⇒尚『よね』についても面白いことが分かったので、日を改めて書くつもりです
 ・大正十四年
   『おりよ』が死亡。
 ・昭和二年
   戸主『慶次郎』は近所に住む日野家『橋蔵』の妹『たえ』と結婚した。
   尚、『たえ』には大正九年に生まれた男児Aと大正十二年に生まれた女児Bがおり、婚姻の翌月に戸主『慶次郎』の戸籍に入籍。両名の父の欄は空白であり、「原戸籍から情報が読み取れなかったから云々」の文言は記されていない。
   
つまり
(1)私の祖父「慶次郎」と、私の祖母である「たえ」とは再婚同士であることはホホ確実。
 ⇒婿養子の「慶次郎」は、家女であった「おりよ」が死亡したので再婚した。
 ⇒「たえ」は二人の子を連れて結婚しているから、再婚と思われる。
(2)だけど連れ子については、母の話しは間違いだとおもう。
 ⇒A伯父も、B伯母も、祖母の連れ子である
 ⇒祖父が近所に住んでいた祖母との間に作った子供だとすると、「おりよ」は生存中のなので、祖母は「お妾さん」?

  今生きている叔母にそんなこと尋ねたら烈火のごとく怒られてしまうから聞けません。