
去る11月21日の日曜日、好天に恵まれ、気温も20度と絶好の行楽日和、家にくすぼっているのも勿体ないので、談山神社に紅葉狩りに行くことにした。
近鉄の大和桜井駅で下車、駅前から談山神社行きバスが出ている。
しかしこの日はみな思うことは同じで談山神社へ向かう車で物凄い渋滞、なかなか前に進まない。
平日なら20分で行けるところ、結局1時間かかっても到着せず、談山神社までまだかなり時間がかかるということで1キロも手前でバスを降ろされ歩く事になってしまった。
しかもかなりの山道を登る事に、ハイキングの用意も服装もしていないので最悪の事態になったが40分ほど歩いてなんとか神社に着くことが出来た、参った、参った。
紅葉の真っ盛りで来た甲斐はあった、土産物店も、神域もかなりの賑わいでごったがえしていた。
140段の石段を登ると十三重塔があり紅葉とのコンビネーションが美しい。本殿は平成の大修理中で参拝できない野が残念。
帰りのバスの乗り場に行くと次たら次に観光バスが入ってくる、聞いてみると、2時間かかってやっとたどり着いたらしい。
大和多武峰鎮座 談山神社
御祭神 藤原鎌足公
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舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。
この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。
たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、
聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、
西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。
後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。
天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、
大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。
藤原の姓はここに始まります。
鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。
大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。
以上、談山神社HPより。