Re:SALOON & VBA

決め分け論的進化論㉟

「決めたい」と「分かりたい」の方向性の違いを
明確に考えるのが、この「決め・分け論」の肝要だと思うが、
世の中的には、勿論、そんな線引きはないので、
どっち付かずで論じされている気がする。

SEKAI NO OWARI「Habit」というMVがネット検索で引っかかる
「君たちったら何でもかんでも
 分類、区別、ジャンル分けしたがる
 ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか・・・」
という歌詞に、僕は引っかかる。
歌詞の意図かどうか「分からない」が、「分類」を良くないこと
といている気がする。

僕的には、
「区別」と「差別」は違う。
AとBは、違うというのが「区別」
Aは、よくて、Bはダメと、一方を選んで他方を排除しようとするのが「差別」
言われるときは、結構、Bを排除する方に比重がかかっている。
この、「区別」と「差別」も、メタ化しやすく、
「区別」と「差別」は違うというのは、「区別」
「区別」はよくて「差別」は、よくないというと、「差別」を「差別」していることになる
と、ああ、頭がこんがらがる。

「分類」するだけでは悪くない、
「分類」した結果を、「選別・排除」してしまうから、様々な問題が生じる。

常々、思っているが(ここにも何回か朧気に書いたように思う)、
「決め・分け論」の2極、「決めたい」と「分かりたい」の根底の原理には、
「進化」があると思う。
「適者生存」の原理。最も、優れた個体が生き残り、遺伝子を残して行く。
環境に最も、適した個体を選び出す為に、
「突然変異」を起こして、可能性を拡げる。
拡張と収縮の二つの、相反する方向性の往復、揺り戻しで、
最も、環境に適した性質が生き残り、次世代に「種」を伝えて行く。

個体の中でも、受精という、精子と卵子結合にいたるまでの競争がある。
魚類、両生類の多産、そして、生存競争というのもある。
多くが生まれるが、次世代を生み出すまでに、多くの命が淘汰される。
最も、環境に適したものを「選別」するために、種の採用している「進化」の方法だ。

ここに、二つの方向性がある。
可能性を拡げる為に、分化していく、
そして、その中で、どれが次世代に命を繋げるか、選別され、不適格者は淘汰される。
この繰り返しの延長線上に、今の人類(ホモサピエンス)がいる。

現在の最適者が次世代においても、最適者とは限らない。
最適者のクローンだけにした種は、環境の変化で、不適格となり、全滅ということになる。
なので、不適格者も常に、存在していなくてはならない。
ちょっと、論理がズレたが・・・

最初に戻って
「ヒトはなぜか分類したがる習性がある」は、
ヒトは、分類しそして選別したがる修正がある
のだと思う。
現実問題として、いろんな選択肢を考えて(可能性を検討して)
そのどれかを選ばないと、行動には移せない。
あれも食べたい、これも食べたいでは、今夜の献立は決まらない。
多くのしなけれはせならないことを一度には出来ないので、
優先順位を付けて、実行して行かざるを得ない。
「決めたい」「分かりたい」のどちらかではなく、
どちらも、必要なことなのだと思う。

で、「進化」には「適者生存」「生存競争」「淘汰」が必要と
いうことだが、・・・
ここに来て、それは、今後もそうなのか?という
命題が、立ち上がって来ている気がする。

実は、もう、人類は「進化」しないのではないかという問題。

「進化」の為には、一夫多妻か、ないしは、一妻多夫の方がよろしかろう。
でも、それを今は、「道義的」「倫理的」には許されない制度になっている。
本能で逆らって、スキャンダルを起こしている芸能人はいるが・・・
「勿論」一夫多妻がいいなんて言うつもりは毛頭ない。
弾かれる方の、その他大勢の一人として、そうでない世の中であってくれてよかったという方だし・・・

また、一夫多妻にしたところで、そのモテ男が、果たして「適者」なのかと
というと非常に疑わしい。
また、次世代を出産するまでの平均20数年で、
それ以前の期間で、世の中が変わってしまい、「適者」が「適者」でなくなってしまう。
一説には、縄文・弥生の時代から、種としての人類は、「進化」していないとも聞いたことがある気がする。

つまり、「進化」が、文明に比して、圧倒的に遅すぎる(時間が掛かる)のだ。

これは、ホモサピエンスが、集団で種を護り、情報を外部(媒体)に保存し操作し、
情報の方を、「進化」させるようになった為、
すでに「進化」しない「種」となってしまっているのではないか
ということ。

そして、その情報は、科学という形をとれば、
究極の兵器、水素爆弾となって、
プーチンや、金正恩、習近平という危険な「決めたい」暴君を生み出してしまっている。
人類滅亡という「決めたい」最後へのスイッチが彼らの手に握られている。

「決めたい」は、原動力として必要不可欠だが、
「分かりたい」が、「決めたい」の暴走をコントロールしないといけない。
それも「決めたい」を「決める」ではなくて、という難問に、
現代は、直面しているのではないかと思う。

歴史は、「決めたい」が、動かして来た。
ここからは、「分かりたい」が、歴史を「決めて行く」という自己背反的課題に
挑んでいくことになるのではないかという・・・

支離滅裂のまま(ジレンマは深まる)

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