Re:SALOON & VBA

「決め・分け論55」縄文時代への憧れ

ほぼ、日記のような、日々の雑感、雑文を書いているが、
「決め・分け論」のカテゴリにしているのは、「決めたい」「分かりたい」の分類で
物事をついつい考えてしまうので、それをベースにした方が、書き易いということだけであって、
何か、大層な理論を展開しようと言うことではないので、悪しからず。

「悪しからず」というか、「決め・分け論」の下敷きが無いと、
読んでも理解不能だと思うので、読まない方がいいですよという警告なのかも・・・
と言っても、それを乗り越えて、読んで理解してくれる人を求めたいという微かな期待が少しあるのは否定できないけど・・・

さて、
この四月から、引退、無職となった身で、平日、何もノルマがない
そして、張り合いがないので、こういう文章を書いてみようかと、いうところなのだが・・・
言い訳が、多くて誠に申し訳ない。<m(__)m>

退職する前までは、仕事があるので、本来したいことがあっても出来ない
という言い訳を常々していた。
僕の場合、したいことというのは、何を隠そう「分かりたい」になる。
だが、「仕事」は、「決めたい」「決める」系の活動だと思うのである。
なので、成果、結果を出すということはそういうこと。それで、オマンマが頂ける。
だから、何としても「決め」なければならないので、それに直結しない「分かりたい」ということは後回しになる。

だが、しかし、「分かりたい」系の傾向過多の僕にとって、
「仕事」が常に、仕方なしにしている苦役だったかというと、あながちそうでもない。
結構、楽しいときもあった。しぃ
「決め」なければならない、中でも、
業務をこなしている内に、「分かって」来ることがある。
幸いにも、僕が従事したIT(情報処理)技術者というもの
仕組みを作り上げるという側面があり、
そこで「分かって」来る、関係性がみえるという側面があり、そういうところは興味深いものであった。

但し、ITの仕事にも、「開発」と「運用保守」の二側面があり、
最後の二年間、仕組みが「分からない」まま、従事した「運用保守」系の業務は、「決める」でしかなく苦痛、苦役であった。

で、
念願の・・・
退職、引退がようやく叶って、
「決めな」ければならないから、解放されて、
今や、「分かりたい」三昧かというと・・・
・・・
残念ながら、「分かりたい」を後回しにする癖が抜けず、
何もしないで、ぼーっとYouTubeを観て過ごす・・・という怠惰極まりない毎日である。
情けない限りである。肥満も進んだと思う、体重計はコワイ。

まあ、それが、何とかならないかと・・・これを書いているのだけど・・・

さて、
前回引用させてもらった、
「知ること」と「決めること」はわけて考えよう
https://note.com/shinu/n/n371b6fc86a58
データ分析とインテリジェンス 2023年3月10日 07:55
だけど、
そこで、前回は、「知る」=「分かる」と考えて、
「分かること」と「決めること」はわけて考えよう
のように、捉えていけど、
そもそも、「知る」と「分かる」は、違うなと、
その後、思った。それで、今日も、続きを書こうかと・・・

ネットで、「知る」「わかる」を検索すると、以下のサイトがHITした。
どうやら、認識論、哲学的解釈のようだが・・・

Quora 「知る」と「わかる」の間には意味の隔たりがあるように感じますが、哲学では両者の区別はなく、どちらも「認識」として論じられるのでしょうか?

僕なりの解釈をすると
「知る」は、情報の認知 そこにその対象が存在することを知覚する。他と区別する。
「分かる」は、その認知したものを、自己の認識体系に関係付けて、取り入れる。体系に組み込む。

「知る」は、選択(選別・差別)つまり、「決める」の前段階かも知れないし、
「分かる」(理解)の前段階かも知れない。

だから、僕のこの「決め分け論」は、つまり
「分かること」と「決めること」はわけて考えよう
をずっと言っているのかも知れないなぁ~と思った という次第。

ちなみに
人生のターム(区切り・期間)みたいなものを考えた時
仕事期間を真ん中にして、
学習期、就業期、隠退期・・・命名は妥当でない気がするが・・・
を考えている。
で、
学習期・・・「知りたい」就職するので・・・後半、受験等で、「決め」させられるけれども・・・
就業期・・・「決めたい」
隠退期・・・「分かりたい」・・・「知った」ことと、「決めた」ことの意味付けをしていく???
を、当て嵌めて考えているのだが、どう?思う と問いたいけど・・・なぁ(結局は自問自答)

隠退して、「分かりたい」三昧になれる筈なのに
まだ、「決めなければ」ならないから、逃げ続けていて、
何も出来ないでいる気がしているのだ。
やっぱり、「分かりたい」にも、成果を求めてしまう姿勢が出てしまう
というか・・・
永年続けてきた(人生の半分以上)姿勢は、そうそう、変えられない。と

で、話を、大振りさせて
暇をつぶして(つぶれていないかも知れない、持て余してだなきっと)、もっぱら観ているYouTube
テレビは、番組による押し付け感(放送という制約、時間も内容も)があるが、
YouTubeは、オンデマンド、興味により、選択・・・そして、推奨(こういう動画がお好みなのでは?)
の結果、
最近、出て来るのは「縄文時代」。これに、嵌っている。沼っている。

そこで、またまた、分類を取り出すと
縄文時代・・・「分かりたい」
弥生時代以降・・・「決めたい」
なのじゃないかと、最近、考え始めている。

弥生時代が、約1000年(年代としては紀元前10世紀から紀元後3世紀中頃とWikipedia)
と言われるのに比して
縄文時代は、一万数千年と・・・なんとも、永いではないか、いやぁ永過ぎる期間
弥生時代以降でも、まだ、3000年なのに、
その間、人口の急増もなく、戦乱等の人間同士の殺し合い(選択、選別)もなく
飢餓や、自然災害の脅威はあるものの、平和な成熟した人間社会の日常があったのだと

弥生時代になり、水稲、農耕の始まりにより、食料の備蓄が可能となり
人口も増加、そして、身分格差の発生と、
選別、「決めたい」に移行してしまったと・・・

縄文自体にも、農耕、稲作はあったらしいが、
どうも、水田で大量に生産するというところまで至らなかったというのが、
ターニングポイントなのだという
縄文時代の末期、寒冷化による不作により、水田耕作の方が収穫量が圧倒的ということに気付いたらしい

縄文時代の平和が、「分かりたい」なのは、
「決める」余裕がなかったからなのだが、
既に、「知っている」ことで、新たに、知ることはない、
じっくり、一生をかけて、「分かって」いけばいい、
同じ環境で、同じ場所で、同じものを季節の変化に応じて、食べて行けば生きて行ける。
まさに、じっくり、一生をかけて、「分かって」いけばいいだけだったろう
そして、少しの工夫、試行錯誤で、少しずつ、生活の質は向上して行く。
奪い合うことはない、すでに「決まっている」のだから

で、変化・進歩のない、1万年の平和がよかったのか
進歩は有るけれども、「決める」ことに追われる、弥生時代、古墳時代・・・以降の現代にまで繋がる
選ばれ、淘汰される、競争原理社会がいいのか・・・
なのであるが・・・

その「決めたい」タームも、行き詰まり
更に、それを踏まえて、サスティナブルな、「分かりたい」未来が来るのだろうか・・・

なので、人生のタームと、
時代のタームを、比べて、
「分かりたい」なあ・・・と思い始めている、今日この頃ということで、

次に続く・・・、だといいけども(それは、分からない)

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