縄文時代への最近の興味、関心を、「決め・分け論」的な視点で見ていると
前々回の「『決め・分け論55』縄文時代への憧れ」で書いたけど、
同様な興味、関心で、NHK「光る君へ」を見ている。
「源氏物語」は、現代語訳で、読んだかなぁ~、はっきりとは憶えていないが、
特に、惹かれるということはないにしろ、あの長編を読んだ記憶があるのは、
まあ、僕は、どちらかというと紫式部寄りなんだろうな・・・
「枕草子」には、何んも惹かれないし・・・
えっ、何?
どっち寄りって、
「紫式部」VS「清少納言」
・・・
を「決めたい」と「分かりたい」で、分けて考えている???
「清少納言」を、外向的陽キャ
「紫式部」を内向的陰キャ
と分析する向き、趣きもあるみたいだけど・・・
「紫式部」の「清少納言」への批判を見ると、
「決めたい」派への「分かりたい」派の当て擦りに、読めなくもないなぁ~
と みている。
「枕草子」の決めつけ随筆をみると、「清少納言」の「決めたい」系なのは、
まあ、言えるかと思うけど・・・
果たして、「源氏物語」が、「分かりたい」系文学かどうか・・・
光源氏は、思いっきりINSIDERだしね。OUTSIDER要素はないね。
※決め・分け・・・どちらかというと絶対的方向性
INSIDER・OUTSIDER・・・世の中との関係性なのでどちらかというと相対的方向性
のつもりで書いてます。
で、ここで僕が思うのは(意見を聞いてみたいと思うのは)
「源氏物語」の主人公は、光源氏だろうかと・・・
確かに、光源氏を主要登場人物として、物語は、展開するが・・・
モテモテ、ハンサムイケメンのこういう男が、居たとして、
全然、感情移入できない、寧ろ、僕なんかだと、反感しか湧かない。
光源氏は、「決まって」「極まって」いる人物、
「分かりたい」と思うような、深みなどない。
まあ、その真反対の非モテ男の僻みなのだけど・・・
でも、数々の女性登場人物達の方を、主人公だとすると
(複数人の登場人物を主人公というのはそもそもおかしいというのはおいておいて)
それを、紫式部の、「存在のあわれ」を具現化するためのキャラクターとして
みるならば、「分かりたい」系文学とみることも可能なんじゃなかろうか
と思ったり、みたりする。
果たして、光源氏は、紫式部の憧れの男性像、理想像なんだろうか?
どうでもいいけど、
吉高由里子(敬称略)が、「紫式部」を演じているが、
僕のイメージだと、高畑充希と、配役逆にした方が、いいような気がするなぁ~
あのドラマの「まひる」は、OUTSIDER要素はあるかなぁ~
ということで、今回は、大した分析ではないけれども、
後半のNHK「光る君へ」の展開を楽しみ(決め分け論視点で)にしているということで・・・