Re:SALOON & VBA

「らんまん」的・・・「決め・分け論」51

この「決め・分け論」というテーマ(くくり)で、投稿してきて、50本を超えた。
あと少しで、最初の投稿から2年になるのだけど、
この考え方は、その前、一年以上前から考えていて(ひょつとしてコロナ禍期と被るかも?)
自分的には、いい尺度だと思うけれども、他者、世の中的には、到底、理解されないとは思うものの
自分的にはが、膨らんで、誰にも分かっては貰えないとしても、
この尺度で文章を書くのが、自分的には、自然の様になり(なしで表現が難しい)、書き出したという経緯。
案の定、誰にも読まれないという状態は、続いているけれども・・・、まあ、仕方ないやね。

勿論、50回も続けるみたいな構想を、抱いていた訳ではないけれども、
今のところ、これ以上の便利な尺度が自分には見いだせていないということだろうと思う。

この「決め・分け論」の「決めたい人」と「分かりたい人」の僕の中での分類は、
今になっても、かなり有効で、自分を納得させるに重宝している。

さて、話は、すっと変わるけど、
テレビ「ドラマ」などを見るときも、このドラマは、どっち指向のドラマだろうかと思う。
一番の、秀作ドラマは、「決めたい人」も「分かりたい人」もどっちも面白いと思わせるドラマなのは
間違いないのだけど、そういうのは、滅多にない気がして、
作者の傾向に従っていると思うけど、どちらかの指向が、色が、出て来る。

「水戸黄門」「ドクターX」「半沢直樹」・・・
大人気ドラマだけど、ああ「決めたい人」系だなと思って、ある種先入観を持ってしまうと、
もう、観れなくなってしまう。本当は、「分かりたい人」系なのかも知れないけども・・・

逆に、「知りたい人」系のドラマで、思い入れをもって観ていても、
そっち傾向が、強すぎると、秀作だけど、視聴率が伸びないなどと言われたりする。

やっぱり、カタルシスというか、スカッと、したい、悪者をギャプンと言わせたい、懲らしめたい
というのは、ドラマの要素なので、仕方ないよねと思ったりする。
中国ドラマ、韓国ドラマの人気も、「決めたい人」系の要素がある気がする。

そういう意味で、ずっと、見比べているドラマが、僕の場合、朝ドラになる。
「ちむどんどん」は、「決めたい人」系の失敗作だった気がする。
「決めたい」にしても、強引だと、「決めたい人」でも、カタルシスを満足させられないとなるのかも知れないと思う。

ドラマではないけれども、「博士ちゃん」という芦田愛菜さんとサンドイッチマンのMCの人気番組がある。
「博士ちゃん」は、勿論、バリバリの「分かりたい」系の子供達だと思う。
学校では、浮いているだろうなと思う。
僕自身は、学校で、そういう自分の「分かりたい」系の要素を出せるとそもそも、思っていなくて、
周りに合わせていた、そして、やはり、少し、合わせきれない部分が、落ち着きとか、ちょっと変とか、見抜かれていた部分もあったかも知れない(大抵の学友には、印象にも残らない空気のような存在だったけど・・・)
「博士ちゃん」達は、その部分を前面に出しているのは、スゴイと思う。(今は、受け入れる余地が周りにあるのだろうなと思うけど)
「分かりたい」が、深化すると他者との共有化が難しくなる。
「分かりたい」の広がりは、拡散するので、「分かりたい」傾向の人同士でも、
立場・境遇は自分と類似だと、理解・共感できても、興味分野が違うと、やっぱ「へぇ~」そうなのとしか言えなくなってしまう。接点がない。やっぱり、孤独。

翻って僕も、自分の興味が、往々にして深化してしまうので、自分の興味のある分野で、
誰かと、会話するということが、あったような気がしない。というか、話題にすらしない。表現しようかと意識にもならない。
この「決め・分け論」が最たるもので、ここで、こうして投稿する以外のことは、全くない。

話は、逸れたけど、
朝ドラに話を戻すと、そういう「分かりたい人」の深化を
今やっている「らんまん」が、上手く表現していると思う。
かろうじて、「雑草という草はない」を敷衍して、それぞれの人の個性、人生に拡げて描いていると思うけど、
今の東京編の東京大学の権威主義(決めたい人)との、軋轢が、主人公の小学校中退でも、
「知りたい人」系の博識度合い、専門性、意欲との軋轢が、物凄く面白い展開になっていると観ている。

ヒロインも、「南総里見八犬伝」好きのオタクという描かれ方をしているし、
「決めたい人」と「分かりたい人」の軋轢を描くドラマとして、今後展開していくのだろうなと
愉しみに観ている。

続きを書けたら書きたい。

コメント一覧

frontflug
ドラマで最初に「決めたい」系か、「分かりたい」系かを判断して、観ないでおくと
書いたけど、否や、どこまで「決めたい」系の要素で書かれているか、逆に、見てやろう
みたいな「分かりたい」意欲が出て来て、観てしまうこともないではない。
この文章を書いたので、「サイボーグ009 超銀河伝説」という、これはもう、タイトルからして
「決めたい」系だろうなというアニメ映画、1980年制作とある。をテレビでやっていたので、
観た。ずっと観ていた訳ではないが、ところどころ観たので、感想を書こうと思う。ちなみに、幼少期、サイボーグ009は、好きな漫画でした。アニメは、あんまり観ていないかも・・・

009(島村ジョー)が言わずと知れた主人公なのだが、彼が使う能力「加速装置」は、どこにも描かれなくて
なんだが、リーダー的役回りになっていて、立ち位置そのものが、もう「決めたい」系、「スター主義」?を感じる。

悪役の背景、意図が描かれない。「世界征服」を、悪人の前提として成り立つという価値観。

悪役も、これから「征服します」と宣言で始まる。宣言の必要ある?

そして、前に征服された星人の支援により、戦いに向かうことになるけれども、
そこでの行く、行かないの逡巡、行かないの意見には、理由がない、危険とか、怖いとかの感情論。

その逡巡で、感傷的になった003フランソワーズを慰めている間に、002を含む地球の頭脳が連れ去られてしまう。
私の所為だという003、そんなことはないと否定する全員という構図。
救出するという行かなければならない理由が追加されるが、この設定、要るかなぁ~

そして、出発。出発シーンの間延び、感傷的に描かれる。

中国人キャラのアルヨ口調、食いしん坊キャラ等、ステレオタイプなキャラ設定。
他のキャラも、出身国のイメージを背負い過ぎ。

お約束のスターゲートというワープトンネルを潜ることになるけれども、
入口の遊星機雷、出口の待ち伏せする敵の軍団とこれも、どこかで観た展開。
回避方法も、避ける、戦って撃退すると、ひねりは全然ない。

スターゲート通過中の、身体的苦痛の説明なし、苦しむ必要あり?

出口で敵と戦った為、宇宙船が損傷して修理・燃料補給で立ち寄った惑星の一連の物語
池に潜む巨大生物、未開人の襲撃、捉われた姫の救出、未開人は征服された星の市民だったというオチ
姫の救出で、すべてが解決するという安易さ、それなら、市民はそれまで何もしなかったの?
姫の救出のひねりの無=サイボーグ戦士の戦闘で敵サーボーク巨人を倒す
姫に対する市民たちの個人崇拝(スター主義とその他名もないエキストラ)

で、敵の本拠地に潜入後の、スターウォーズとそっくりの展開。
ここからも、このシーン要るの展開ばかりなのだけど・・・

最後の敵キャラの自滅、やっつけに来るというこの物語の目的そのものが、そもそも「来なくてもよかったのかも」と思ってしまう。

で、この映画の描きたかったことって、そもそも何?

でも、40年前は、これで十分、面白かったんだろうなぁ・・・
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