インサイダー・アウトサイダーの二項対立を表題(テーマ括り)としているけど
内実は、「決め・分け論」の派生、各論のようになっているのは、申し訳ない。
「決めたい」側は、選択・選別・択一なので、イン・アウトの傾向が、
割とはっきり表れるが、「分かりたい」側は、分解、理解なので、
深まれば、イン・アウトの両方を含むため、差が見分けられにくいと思う。
斯く言う、僕は、「分かりたい・アウトサイダー」を自認するが、
アウトサイダーの部分は、他者との関りが薄いので、
結局、「分かりたい・インサイダー」に、紛れて生きている格好だ。
二項対立が、あるとき、
その対立のどちら側に自分が位置するか、指示するかというとき
僕は、「弁証法」を考える。
「弁証法」について、僕が解説するよりも、ネットで検索すれば、
山ほど解説が出て来る筈なので、僕の言葉で解説することは、
(ここまで、読んでこられた方は、「ちょっと何言っているか分からない」と言いたくなるくらい説明が下手なのは、気付かれたと思うので)しないが、
そもそもの「分かりたい」が、正・反・合なので、このマトリクスは分かり難い。
正:決め・インサイド
反:決め・アウトサイド または、分かりたい・インサイド または、分かりたい全体
合:分かりたい・アウトサイド または、マトリクス全体
と、なるだろうか・・・
反を正のどの部分・性質のアンチテーゼとするかで、合の在り様は変わって来る。
ますます、意味不明? 申し訳ない
「弁証法」に親近感を持たれている方向けに以下を書くことにする。(意味不明を続けます。)
高校の倫理社会の授業で、ヘーゲルに出会い
魅せられた僕は、大学は哲学専攻しなかったが、ヘーゲルの講義(ドイツ語)は、選択した、残念ながら、「弁証法」部分には触れられなかった気がするが・・・憶えていない。)
で、僕にとって、「弁証法」は、比較的馴染みのある概念だったが、
「弁証法」という用語を使わなくても、「考える」ときに、「弁証法」的思考法は、
自然と執っているところがあると思うが・・・
ところが、この「弁証法」的思考法
その用語は、多分、皆さん、ご存知なのかも知れないが、
少し、否や多分に真意が伝わらない。もどかしさを感じる。
「アウトサイダー」という用語自体がそうなのだが、
そういう用語を捻出したとしても、
自己が気付いたもの、表現したいもの、伝えたいものが、
上手く(真意が)伝えられないことに、
諦めのようなものをずっと感じてきた人生だった。
そういう生き方をして来たように思う、個人的感想(主観)で申し訳ないが。
小説家、表現者、芸術家・・・多くのクリエーター達もあるいは、きっとそうなのだと思う。
彼らは、それに挑んである程度、成果を出した人たちなのであって
勿論、僕は(諦めてしまった方なので)、そういう人達の仲間ではないが・・・
一例を挙げるなら、僕の場合、ヘーゲルの弁証法で
ああ、「これ、(一般的には)理解し難い概念」なんだなと心底思ったことがある。
AかB(正・反)、の二者択一の思考回路を持っている人には、
AもBも、と言われると(つまり、合を求められても)
結論、AもBも選ばないになってしまうということ、
AもBも、満足させるCがあるのだ、そこに止揚があるのだということ
それが、理解できない(そういう考え方をしたことがない)
もし、それを何んとか、
理解した(と言った)としても、
AもBも(正)か、C(反)かの二者択一にやはりなってしまう
そこに、僕は、限界を感じてしまう。
二者択一の思考回路の呪縛の強さ・・・
それが、実感させられたときの諦観を思い出してしまった。
AとB(正・反)とで、対立が生じたとき、
無意味な対立として、ウンザリしてしまうのかもしれないが
僕にとっては、これは、止揚先のC(合)探しのワクワクの旅が始まる
そのドラの音が聞こえる、
「アウトサイダー」も、その一つのC(止揚してみつけた用語)なのだが、
そこに、違い、対立があるということは、
その違いを満足させる、それを超えた何かがある。
いやあ、面白いなぁ(ある種の快感、気付き)・・・これは・・・となるのだけど、
多くの人には、混乱、不安、不快になるということ・・・
物理学の統一理論とか、プラネットナインとか、
解明されないCがあることに、僕は、ワクワクするのだけど
そう考える人は、残念なことに、少数派で、
どっちが正しいへと、言えないなら、どっちも捨ててしまえ・・・
と、普通は考えてしまうものらしい・・・と
何んと、勿体ないことだろう
例えば、天皇制、原発、レイシズム・・・
そういう賛否両論ある問題には、
僕なりに、止揚のし甲斐があるのだけど・・・
まあ、別項でまた、論じられたらと思う。(課題とします)
硬くて咀嚼できないものを、いつまでも噛み続けるのではなくて、
硬いまま飲みこんでしまうのか、あるいは、吐き出してしまうのか、
いつまでも噛み続けることをよしとすることが
「アウトサイダー」という部外者、変わり者になってしまう。
これ、面白いなぁ~と思っている僕がまた、「アウトサイダー」変人という、
止揚に止揚を重ねる・・・、無限ループ
「トコトン信じるが整合性がみられなかった時は、捨てる」
が、勿体ないなあ~ と感じてしまう。
そこでこそ、止揚のCへの旅への出発点があるのに・・・、
振り返れば、乗客は、誰も乗っていない車両のような・・・
淋しさ・・・
まあ、仕方ないなぁ~
以前、
「自己の夢を懐疑的に語る」という言葉を引き合いに出した時、
「懐疑う」を「不信」として、捉えられ(真意が伝わらない。もどかしさ)
ああ、懐疑が不信になってしまう
ことへの限界、説明するへのの諦観を感じてしまったことがある。
あのときから、相手の理解度を見てからしか、話ができなくなり、
呑み会では、聞き手、話題提供者の位置にいるようになったのかも知れない。
韓国の歴史は、ファンタジー
中国の歴史は、プロパガンダと言われる。
都合の悪いことを隠して、自慢話を拡大するファンタジー
元からないこと虚偽を、喧伝するプロパガンダ
実証主義で科学的・・・ですらない・・・ことが
どちらかといえば、普通、日本はまだいい方で・・・
何が言いたいという文章になっているけど・・・
これは、言いたいことなのか、話題提供に過ぎないのか・・・
は、難しいところ・・・
バタフライエフェクトは、アウトサイドへの入り口
躊躇があるとすれば、きっと、インサイドからの出口
なので、インサイダーへ
こっちに(アウトサイドへ)おいでよとは、言えない。
ライ麦畑から、落ちてしまうかもだけど、支えられないし、
戻しても、あげられない。
歯切れの悪い文章になっているは、おっかなびっくりもあるけど、
「伝えるのが」下手が、根本なので・・・申し訳ないとは思いつつ
何となく言いたいことが、分かると言う方、
あなたは、もしかすると(きっとと言いたいけど)、アウトサイダーなのかも・・・