思いつき日記

思ったことをかいてみよ

通信速度とコンテンツ

2006年02月28日 | Weblog
昨今の通信世界の速度向上は目覚しい。
今年は地上デジタル放送が始まり、携帯電話でテレビを見ることもできるようになるらしい。
NintendoDSでも専用ソフトとカートリッジで地デジに対応するらしい。

これらはすなわち、通信速度の向上があったからである。文章より画像の方が必要な情報量が多いため、画像を送るには通信速度の向上が不可欠。
通信速度が大きくなれば、画像や動画を送ることができるわけだが、これにより、携帯電話向けのコンテンツ事業が大幅にかわる。これには通信速度の向上とともに、携帯電話の画面が大きくなることも関わってくることではある。
今までは主に文章によるコンテンツであったのが、動画主体になる。
いうなればPCで見ているコンテンツがそのまま携帯電話でも見られるようになるということだ。

ケータイ電話だけの映画配信とかあるかもしれない。


曲の終わり

2006年02月21日 | 音楽に関する事柄
録音技術がでてきてから生まれた曲の終わり方だと思うのが、フェード・アウトである。

具体的に初めてフェードアウトを使った曲が何なのか、とか云われると困るし、ちゃんとした根拠がないのだけれど、クラシックの曲にフェードアウトする曲はなさそうだ。フェードアウトは、レコードによる音楽流通方式が始まってからの作曲技法に思える。

しかし技法としていかがなものか、とも思う。リフレインを延々と繰り返し、単に音量を小さくすることで音楽を終わらせる。
私には曲がきちんと終わっているようには感じない。
音楽は時間芸術であって、始まりと終わりがあることで音楽のある時間と無い時間を区切ら無ければならないのでは、と思う。
単に音量を減らすだけであり、曲の構成として何も終わりの無いフェードアウトという技法は、作曲家が曲の終わり方を放棄しているようにも思う。

まぁ、いやらしいほどに続くリフレインによって何かしらの永遠性みたいなものを表現したいとも云えるので、フェードアウトが絶対に悪い、とまでは言わないが。

まぁ、終わりがはっきりしている方が気分がいいというだけの問題かもしれないけどね。




くすりのCMはどうにかならないものか

2006年02月09日 | Weblog
『「わかる」とは何か』長尾真著 岩波新書

という本がある。私は子供の頃、「どうして?」とよく訊いていた。
すると訊かれた人はわかる範囲ではあるが答えてくれる。たとえば、
「鳥はどうして飛べるの?」「羽根があるからさ」
「羽根があるとどうして飛べるの?」「え~っと・・・」
というように、いつまでも「どうして?」と訊いていく。
どこかで答えていた人は「わからない」となる。

この本では理解について、科学的理解ということを扱っている。
演繹による理解だ。既存の知識から演繹されて導かれる説明である。
複数の知識からある事象を説明することだ。この本で上げている例だと、
「水は100℃で水蒸気になる」ことの説明を
(a)「水は100℃で沸騰する」
(b)「沸騰すると水蒸気になる」
として説明している。
これらはひとつの事象を複数の事象にわけ、それぞれの事象を既存の知識であれば理解できる。ということである。
実際には理解していないのはさらに「どうして」と訊けばわかる。
上の(a)にどうして?と訊かれて答えられる人は少ないだろう。
科学の勉強をした人ならわかるだろうけども、それにしてもさらにどうして?
と訊かれていくと、わからないところに行き着く。
その根源的な部分を研究するのが基礎学問といわれるものであろう。

さて、理解するとはなにか? ということについてはこんな感じとしておいて、
くすりのCMである。
「塩化リゾチームが入っているので風邪にききます」
はっきりいって、何の説明にもなっていない。
何秒間かのCMで一般人の知らない薬効成分を羅列したところで説明になりはしない。
くすりのCMでは「効く」ことを前面に出したいから、科学的説明のようなCMをしているが、実際には全く説明になっていない。

臨床結果であれば少しは信頼性もあがるのだが、実際の臨床結果を公表したら
売れなくなるだろう。

であれば説明的CMではなく、イメージ戦略に努めるべきではないだろうか?
「有効成分××を100ミリグラム配合」等の情報は必要だが。



1月に読んだ本。「ラッセルのパラドクス」

2006年02月07日 | 漫画や書籍関連
ラッセルという人は聞いたことが無かったと思うが、哲学やパラドクスを扱う本は面白かったことがまま在ったので、買ってみた本。

ラッセルのパラドクスというのは集合についてのパラドクスなのだが、分かりやすい例だと次のようなものか(本文にあった)
「ある村の床屋の主人は、自分でひげを剃らない村人全ての人のひげを剃る。
 この床屋の主人は村人なのだが、はたしてこの主人は自分のひげを剃るか否か?」

現実では当然ながら前提自体がおかしいわけだが、論理として考えたら、この床屋の主人は存在自体が矛盾する。

普通に(?)考えると、「AはBである」というような場合、真か偽しかないと思われそうだが、そうではなく、「真でも偽でもない状態がある」ことをこの本で気が付く。

新しい視点を気づかせてくれるからこの手の本が好きなんだな。