「六本木 竹やぶ」のつゆは濃すぎた。
つゆが濃すぎるのは問題である。それは、蕎麦で「命」と言える程大切な香りを消し去ってしまうからである。蕎麦を食べるということは、蕎麦そのものを頂くのである。その時のつゆの役割はいわば「脇役」である。脇役たるつゆは、蕎麦そのものの引き立て役である。だから、自己主張してはならない。濃すぎるつゆは、蕎麦の香りを邪魔し、自己主張をしてしまう。どちらかと言えば、つゆはうすめの方が良いし、鰹の出しも、イノシン酸の旨味はたっぷりありながら、その匂いは控えめの方が良い。
「竹やぶ」のつゆを、「ミシュラン」は「上品な味わいのせいろはコクのあるつゆと相性が良い。」と評価しているが、果たして「コクのあるつゆ」と評すのが適切か、あるいは蕎麦のつゆとしてふさわしいものか。上記の理由で私には疑問に思われる。
以前にここで書いたように、私は日本料理のつゆの作り方から学んだ方法で、蕎麦のつゆ作っている。
ところで、「竹やぶ」の蕎麦には肝心な香りがなかった。
最後に、この香りについて少し触れておきたい。私は、何度も書いたが、蕎麦は「香り」と「いいコシ」につきると考えている。とりわけ、香りは大切で香りのしない蕎麦など意味がないと思っている。この香りについて、「竹やぶ」の総師、阿部孝雄氏は自身の著書・『竹やぶの蕎麦』の中で次のように述べている。
「そばの香りを強く出そうと思えば、玄そばの挽き方によって簡単にできます。いまのそば粉でも、ちょっと粗挽きにすると『ああ、こんなに香りの良いそば・・・』と言ってもらえます。それはテクニックとして簡単です。」
蕎麦の香りを出すことが、こんなに簡単なことなのだろうか。私にはとても理解しがたい。蕎麦の香りは、玄ソバの品質によって大きく変わるだろうし、玄ソバの保管方法によって大いに変わってくるだろう。だから、阿部氏も黒姫高原でソバの委託栽培をし、厳格に保管をしているのではないのだろうか。
蕎麦の香りの問題は、単なる石臼の挽き方で全てが決まるような問題ではないと、私は考える。
「古拙」を訪問した日に、ピカソ展をみて、この店に立ち寄った。こちらも「ミシュラン」で星を獲得している。私は、今年の5月に、「箱根 竹やぶ」を訪問したのでそこでのエピソードから始めたい。
箱根の「竹やぶ」には、私を含め4人で食べに出かけた。せいろを中心に、単品でいくつかを注文した。単品が来た後、せいろが3枚来た。私は、客人と家内に譲って待つことにした。しばらく、もう1枚が来なかったので、家内のせいろに箸を伸ばした。「めん」には問題があった(のちに記述)が、5月にしては、蕎麦の香りがありまずまずの蕎麦であった。食べに来た甲斐があったと思った。
その後、残りの1枚が来た。それは、全く香りのない蕎麦であった。どのような事情があったのかは知らないが、香りの点で天と地ほどの違いがあった。私は、長らく待たされたことに目くじらを立てて問題にしようとは思わないが、蕎麦の質(香り)が全く違う蕎麦を同じ連れに提供するのは、理解できなかった。
六本木の「竹やぶ」の蕎麦はどうであったか。
「めん」が太すぎ、硬すぎた。私はこのような「硬い」蕎麦を「引き締った蕎麦」ということにしている。これは、一般に「この蕎麦はコシがある」と言われるときの「コシ」ではない。噛んでソフトでありながらいい弾力がある理想的な蕎麦の対極にある蕎麦である。この「引き締った蕎麦」は、蕎麦粉のみ(十割)で、水回しも捏ねも大きく行き過ぎた時に生じる。私が、このような蕎麦を打てば、周りの人達は「失敗作」だと判断し認めてくれない。
箱根の「竹やぶ」でも「引き締った」感じがしたが、六本木の蕎麦の方が強く感じられた。
私は、小鉢が2つ付いた「蕎麦膳」を頂いた。結論を言ってしまえば、とても落胆する蕎麦であった。以前と同じ細切りの蕎麦なのだが、細すぎる。太すぎる蕎麦ほど、どうしょうもないものはないのだが、細すぎるのも問題だ。
私は、蕎麦を細くしていくとbestの状態があり、それを超えると問題点が露呈してくると考えている。そして、そのbestの細さ、さらに限界点は、蕎麦を打つ人の技量によって異なると思う。おそらく、片倉康雄氏のような名人は相当細切ってもいい蕎麦であったに違いない。
「古拙」の蕎麦は、細さの限界を少しばかり越えていたのだと思う。ただし、細いながらも、いい「コシ」の片鱗は感じられたので、それは、ほんのわずかなことだ。
では、限界点を超えるとどのようになるのか。そこを超えると、「めん」の1本1本が生きてこなくなる。「めん」が「1人」では独立できず、数本でお互いに寄り添ってしまう。この「寄り添い」現象は、私の食べたそばにもみられたし、「ミシュラン」(09年版)の「古拙」の蕎麦の写真を見ても、一目瞭然である。
この「めん」の細さ(太さ)については、それだけの単独の問題ではなく「切りべら」、「延しべら」という問題にも密接に関係しているので総合的に考えなければならない。私は、以前にこの点については「蕎麦打ち」の項で論じておいた。
また、「古拙」の蕎麦は、ざるへ厚くあるいは高く盛りつけられていた。私は、ざるに蕎麦を盛る際、盛り上げてはいけないと思う。薄く広げるように盛るのである。盛り上げると、中心部の蕎麦の水が切れず蕎麦の香りが立たない。水が蕎麦の1本1本を覆ってしまい香りを封じ込めてしまうからである。私は、ざるに蕎麦が盛り上げられているのを見ただけで、その蕎麦店の力量を疑ってしまう。
「古拙」のつゆは、秀逸であった。
それにしても、なぜ「いし井」の蕎麦からこれほど変わってしまったのか。それとも、私の味への感性がただ単に変わっただけなのか。
最近発行された「ミシュラン」の09年版では蕎麦店の最高位は星1つで、その星1つに、「翁」、「古拙」、「六本木 竹やぶ」、「ほそ川」の4店が選ばれている。その中の「古拙」にはとりわけ興味深いことがあり、昨日食べに出かけた。
このブログで書いたことなのだが、しばらく以前、神田の2つの老舗蕎麦店のすぐ近くに「いし井」という蕎麦店があった。私はその店で1回だけ蕎麦を食べた。再訪を考えているうちにその店はなくなってしまった。
その「いし井」の蕎麦は東京の数ある蕎麦店の中で、別格の蕎麦であった。細打ちで香りが際立っていた。ある有名な蕎麦店の御主人がこの「いし井」の蕎麦を高く評価しているのを聞いて訪れたのだ。だから、私だけでなく、蕎麦の専門家もこの店の蕎麦に驚嘆していたのである。
私は、「いし井」のご主人が蕎麦を茹で上げた後、鋭く蕎麦の水を振り切っているのを見て、水きりの重要性を気づくに至ったのである。その後、私は水きりの方法を様々試みた。めんの1本1本に絡んでいる水がとれると、蕎麦の香りが引き立ってくるようになり、私の蕎麦は少なくとも1歩前進した。
遅ればせながら、今度知ったのだが、「いし井」の御主人は、その後修善寺で店を開き、さらに05年に銀座に「古拙」なる店を開設したとのことである。石井氏の店が「ミシュラン」で星を得ていることも感慨深く、今回楽しみに訪問したのである。
一方、鱚と穴子は揚げ時間が長すぎた。「衣」を少なくして揚げ時間を短くした方が良いと感じた。海老に関して、揚げ時間を長くと書いたが、それはもう微妙な範囲である。こちらの鱚と穴子の方が問題である。
「衣」は中に熱を伝えることと中の水分を抜くことの両方の役割を果たさなければならない。それゆえ粘り気のない「衣」にするなど工夫を凝らすのだが、これが理想的になっているならば、後は、つける「衣」の量と揚げ時間が問題なのである。私が食べた時の「楽亭」の鱚と穴子はころもの量を減らし揚げ時間を、もっと短くすればよいと感じた。
これに反して、烏賊は私には完璧だと感じられた。
私は、天麩羅は素材と揚げ時間ではないかと書いた。もちろん、素材の下処理、「衣」の問題、油の質など全てが理想的にできていることを前提にした上で、上記の2つだと言っているのである。とりわけ今回、揚げ時間は極めて大切に感じられた。それゆえ、油の種類よりも揚げ時間が大切なのかもしれないと感じられたので、サラダ油を使う(世評で「楽亭」に肉薄していると評価の高い)「はやし」(日本橋)でも食べてみたい。
私は天麩羅については門外漢であり、この項の(1)で述べたように私の天麩羅体験は貧弱である。天麩羅の世界で神的存在の石倉氏に相当勘違いな発言をしているかもしれない。もちろん、私も石倉氏の天麩羅の完成度の高さを十全に認めるものであり、彼のような方は「日本の宝」であるとさえ考える。さらに、天麩羅を食べこんでから石倉氏の天麩羅を再度味わいたい。
まず、石倉氏の海老の揚げ時間が恐ろしく短いのに驚嘆した。あまりにも短いので思わずカウントをしてしまった。(私は、蕎麦を茹でる際、時計がないとこうするのだ。)ゆっくりとカウントして60であった。もちろん、石倉氏は箸で海老に触れながら揚げ時を狙っているだけなのだが・・・。
いつか、早乙女哲哉氏が、テレビで「素材をより美味くしなければ天麩羅にする意味がない。」という主旨の発言をされているのを耳にした。天麩羅にすることは、素材に「衣」をかけて、油の中で熱をかけ、適度に水分を取り去り、旨みを凝縮する行為といえると思う。
私は、相当以前のことなのだが、ある高級料理店に招待されたことがある。コースの中で、料理人が活きた車海老をその場で殻をむき、生のままで提供してくれた。その時、とびっきり高級の車海老だというのに、うまいとも何とも思わなかった。それ以来、海老とは、生のままでは、旨いものではなく、加熱して旨みを引き出す素材と考えるようになった。
だから、天麩羅の素材として好適なのである。さらに、鮨屋でも、ほとんどのネタは生のままで食べるのに、最高の車海老を加熱してネタにしているのである。
私は、海老についてはこのような考えを持っているがゆえに、石倉氏の海老の揚げ時間があまりにも短いのに、とりわけ驚いたのである。実際に食べてみても、私には、「楽亭」の海老は揚げ時間が少し不足してように思われる。もう少し長くすることによって海老の旨みは倍増するように思われたのである。もちろん、揚げた後にバツトに置き熱の伝わるのを考慮しているのだが、熱の不足は否めない。私は給仕されてから若干時間をおいてもみたのだがそれでももう少しと感じた。
「楽亭」は赤坂のTBS、「赤坂サカス」から緩やかな上り坂を歩いて5分程である。小さなマンションの地上階にある。喧騒極まりない「サカス」から僅かな距離なのだが、うって変って閑静な地にある。さらに、店内は明るさも抑えられ静けさはさらに増す。
「山の上ホテル」から転身して30数年になるあるじの石倉楫士氏が天麩羅をあげ、弟子が一人、女将さんが接客をしているのみである。メニューも、シンプルで天麩羅が2コースと刺身があるのみである。天麩羅の2コースは魚の数だけが異なり、同じ素材を使う。さらに、昼も夜も同一のメニューで価格設定も同じである。
ご主人は、揚げ始めるとそれだけに集中し絶えず金属製の箸で揚げものに触れており、絶妙のタイミングを狙っている。その氏が揚げるのは、銀杏、海老、鱚、烏賊、茄子、海老の頭、生姜、穴子、最後にかき揚げを小天丼にするか天茶にするかである(訪問時)。
今回、天麩羅を食べて、基本のことかもしれないが、美味しい天麩羅の条件は、最後は素材の良さと揚げ時なのだと思った。「楽亭」は、いい素材を使っていた。天麩羅の前に頂いた刺身、付け出しの鰈から素材の良さから明白であり、天麩羅の素材の良さは言うまでもない。
もう1つの揚げ時という観点については次回に考えてみたい。
先日「楽亭」で天麩羅を食べてきた。
拙著『蕎麦彷徨』の出版を記念して、蕎麦の仲間の人達が、出版祝賀会を開催してくださった。私にとってはそれだけで身に余ることなのだが、記念にと「食事券」をいただいた。どこか好きな所で、食事をしてきたらという主旨であった。いい思い出になると思われたので、長く実現できなかった「楽亭」に行くことにしたのである。
天麩羅は、好きな食べ物なので今までにも比較的よく食べてきた。学生時代、神田の本屋に行く時には、「いもや」(この店は田中康夫氏の『いまどき真っ当な料理店』のとんかつの部で小さく載っている。)で天麩羅を食べた。「いもや」はとんかつと天麩羅の店が併設されており、友達たちがとんかつの店に行こうとも、私は天麩羅を選んだ。年を重ね神田の本屋街に行くことも少なくなると、天麩羅界の理論家といわれる早乙女哲哉氏の「みかわ」(茅場町)でランチを食べることが多くなった。今は知らないが、ランチが1200円なのでコストパフォーマンスが日本一と決め込んで、東京に出た際には少し足を延ばしても「みかわ」に寄った。
本格的な天麩羅と言えば、蕎麦仲間のNBさんと「てん茂」(日本橋)に食べに行った。これをきっかけに、「てん茂」で3回ほど食事をした。胡麻油を使うので胃にもたれるのだがあの特有の匂いが、私は気にいった。風向きによっては、店の50,60m先から胡麻油の匂いがする。ここから楽しめ、「てん茂」の天麩羅に充分満足した。
蕎麦が美味しい季節は、米も美味しい季節である。
しばらくの間、山形の高畠町の米を食べている。この町の上和田有機米生産組合は、「全国食味鑑定コンクール」で5年連続金賞を受賞している、名の知られた米の生産組合である。
この組合の米が美味しいのは、おそらく優れた専門家が熟慮を重ね栽培基準を設け、それを組合員の方が厳格に尊守し栽培を続けているからであると思われる。
私は、使用している肥料に興味がある。その組合のホームページによれば、堆肥の投入を基本に、組合独自の有機質肥料、ミネラル補給肥料、「純正卵殻粉」を用いているという。こうした肥料が美味しい米を作り出している1つ理由ではないかと考えられる。ところで、この有機質肥料の中には、「動物かす粉末類(蒸製毛類)」というものが含まれている。これは何を目的にした配合原料であるのか興味がある。
この高畠町は、南に米沢市、北に南陽市が含まれる大きな盆地のほぼ中央の東に位置している。私はこの夏この町を車で走って、その地形を見てきた。
ところで、この組合が「食味コンクール」で5回連続の金賞を受賞したうちの過去3回は組合員のEさんの米であるという。このEさんの居住する佐沢地区は高畠町の南東に位置し山に隣接する地域である。
「やはり」と思った。山から流れ出した水は、まず山の近くの地域にたくさんの栄養分を落としていく。すなわち、Eさんの地域はいい場所に位置しているだ。
その上に、Eさんは独自の栽培方法を実践していると思われる。このEさんは話しても「うちの米は他の米とそんなに違わないと思いますよ」という程度であまり語らない。ソバの栽培に参考となることもあるかも知れないのでいずれお話が伺えたらと考えている。
Eさんのお米は本当に美味しい。
私の家の炊飯器は、内釜が少し厚い程度でごく一般的なものである。普通の新米をこの炊飯器で炊くには、今、米は水に浸しておく必要はない。米を洗ったらすぐに炊く。これでちょうどよい。しかし、Eさんの米は、30分程水に浸しておく必要がある。おそらく一粒一粒がしっかりした米粒であるからに違いない。炊きあがるときらきらとした光沢があり、粘り気が申し分なく、コクがある感じで、噛んでいると甘味がある。毎日、食べるのが楽しみである。
昨日は、埼玉県熊谷市にある「藍」で蕎麦を食べた。これでこの店では4回食べたことになる。前回は、1時前に行ったのに蕎麦が売り切れて、うどんしかないとのことで食べずに帰った。
この店の「めん」がとてもいい。1本1本の「めん」が生きていて完成度が実に高い。
昨日は2つの産地が味わえる「せいろ」を注文した。1つ目は、北海道産の新蕎麦であった。残念ながら、色は良くなく少し黒っぽかった。少ないながら香りはあった。コシは練りすぎからくる硬質さが若干感じられた。2つ目は、福井産の前年度の蕎麦であった。こちらの方がソフトな中にいいコシが感じられ「藍」の持ち味がよく出ていた。さすがに、香りは、かすかにしか感じられなかった。前回訪問した時も福井産のものであったのだが、その時の蕎麦の方が遙かに良かった。今はやむをえないが。
この「藍」は私が今最も高く評価する蕎麦店の1つである。どこの店でも同じだが、蕎麦打ち技術がある高みまで来たらそこから先は、製粉と玄ソバの問題である。この「藍」もここから進化させるには、石臼の質の向上といいソバの入手しかないだろう。もう「藍」はその「域」まで来ている。今の「丸抜き」で仕入れる方式では、ソバの質は他人任せになってしまう。先に進むにはここをどうするかである。
私は、1年に1、2度でもいいから定期的にこの店を訪れたい。ご主人は埼玉・秩父の名店「手打ち蕎麦 こいけ」のお弟子さんとのことである。小池重雄さんのもとからいいそば職人が育っている。