春 夏 秋 冬

めぐり来る 春夏秋 麗しき 大和し護れ 民草いとえ 
          

失業しない為には、悪いと分っていてもせざるを得なかった?

2009年10月19日 17時10分11秒 | 国内情報

郵政民営化見直し:亀井担当相、見直し通告 西川社長に進退判断促す 
亀井静香金融・郵政担当相は19日の記者会見で、日本郵政の西川善文社長と13日に会い、郵政民営化を抜本的に見直す方針を伝えたことを明らかにした。西川社長の進退については話さなかったというが、亀井氏はこれまで会見などで「10月中に経営陣を一新する」と述べており、タイムリミットが迫る中、面談することで事実上、西川社長に進退の判断を促した。

 亀井氏によると、13日午後、西川社長と2人で約1時間会談。亀井氏は、日本郵政グループ株式の売却を凍結する法案の臨時国会への提出など「見直しの方向性がほぼ確定したのでお伝えした」と説明。西川社長は「(政府の方針は)分かりました」と述べたという。

 亀井氏は10月中に西川社長ら経営陣を刷新する考えを示しているが、辞任への直接の言及は避けていた。

 この日の会見でも「出処進退を西川社長がどう判断されるか、そこまで私が踏み込む必要はない」と強調した。【中井正裕】


銀行の貸し剥がしを防ぐ為の貸し付け条件の変更の為の法案作りも、一段落して、
とうとう亀井郵政民営化見直し担当大臣本命の、郵政民営化見直しの作業に入られたようである。

それにしても西川社長は、未だに職に留まっておられたのかと、その粘り強さには脱帽ものである。
此れくらいの人でなかったら、近頃の銀行の厳しい環境の中で生き残る事など、とても出来はしなかったのかもしれないが・・・・・

昔は銀行員と言えば、几帳面で生真面目な人の代名詞のように言われていたものだったが、
最近はかなり違うものになってしまっているのだろう。

私は昭和37年に高校を卒業するとすぐに、銀行(信託銀行)に就職して4年余り勤めた経験がある。
信託銀行は銀行の中でも、特にのんびりした社風であるとの噂であったから、尚更だったのかもしれないけれど、
当時の銀行員は本当に世間の評価通りに、真面目で几帳面で、親切な人が多かったような気がする。

月末には収支が1円でも合わなかったら、男性社員(女性は労基法で先に返してもらえたが)は、徹夜してでも合うまで調べるのが当然の事として行われていた。

上役はとても親切な人が多くかった。
福岡で就職して半年程経った時家の都合で大阪に引っ越す事になったので、
転勤させてもらえないか頼んでみたら、すぐに大阪支店に転勤させて下さった。

大阪支店でも係りの先輩や同僚の人たちが親切な人ばかりで、すぐに仲良くしてくださり、
大阪と大阪の人が大好きになったものだった。

当時毎年春になったらジェネストと呼ばれる、交通機関のストライキがあった。
ジェネストの時は帰りの車を会社が用意して、
同じ方向の者が乗り合わせて帰る様に手配してくれていたのだけれど、
たまたまその年のストライキの当日、銀行の同僚(夫婦とも同僚)が結婚式で、私も招かれていたので休暇を貰って結婚式に出席していた。
私は休暇中だったので、帰りの車に乗せてもらえるとは思っていなかったのだが、
忘れ物を取りに銀行に立ち寄ったら、偶然出会った課長が
「早くしなさいこれから豊中方面の車が出るから急いで・・・・」と慌てた様子で、声をかけてくださった。
同じ会社の人の結婚式だったので、気にして下さったものらしい。
後日課の友人が、『「足立さん(課長の名前)西本さんはどうした・・・・・・」と慌てて探し回ってはったんで~』と言っておられたのを聞いて、本当に驚いたものだった。
40歳代半ばの実直で温厚な感じの課長さんだったが・・・・・

そのようなタイプの親切で優しく、几帳面な銀行員らしい銀行員だった人たちは、
禿たかファンドの代理人のようなものに変身してしまった銀行では、さぞかし生きにくくなっておられた事だろうと思われる。

そこで生き残って出世する為には、西川社長もどんなにか心を殺して、頑張ってこられたのだろう。

日本人の中には同胞を苦しめる為に、どんなに頑張らされてきた人が多数あるのだろう?
原発を造る手代をやっている、電力会社の人たちもどんなにか自分を殺して、
疑問を禁じえない仕事を遂行しておられるのかもしれない。
そのうち自分の子孫達が、汚染された郷土に苦しめられると分っていながら・・・・・

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