相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

へ~え❣ (連載―395)

2022年05月27日 | 経験・体験
山奥の村から東京に出てくる運命だったのか何も考えずに汽車に揺られて大都会東京に来た。

銀座は海を埋めたてて作った町と聞いているが昔に生まれていないから諸説がある。

歴史によりますと徳川家康は豊臣秀吉に領地換えをさせられ静岡の駿府から葦(アシ)の生えた辺ぴな江戸に来た。

 家康は怒った素振りを見せず一から江戸の町を作った。今は東京の街も大都会だが、
 町は水の確保から人を住ませるようにそれはそれは大変だったようだ。

 江戸城も作らなければならないし家康は貧しい漁村であったところを大そう気に入っていた。

 海の沿岸には日比谷の入江もあった。船が航行できるように海を深く掘り、材木を運んで築城したようだ。

江戸の町を東京湾や房総半島を縮小した地図を描けば意外と分かり易い。

日比谷の入江も神田(駿河台)の山の土を埋め立て、銀座も突き出た半島を京都の町のように網の目のように区画整備した。

佃島、月島、石川島、晴海などと島があり海が広がっていたと想像する。

神田川、墨田川が東京湾に注がれている。浅草橋、京橋、新橋、数寄屋橋、赤羽橋などと橋が多い。

浜松町も砂浜に松の木が生えていてのんびりした村だったのだろう。

江戸時代に伊豆の下田にペリー来航してきて開国を迫られたが一年後には開国できるようにするからと約束でペリーを沖縄に引き返させた。

さあー大変だ。東京湾に3つの島を作り大砲で外国船を蹴散らせようと、
高輪の山を削って東京湾に砲台を作った。
7ヶ月後には沖縄からハリーが来て、通商条約を取り交わした。

砲台は、7ヶ後には重機もなく東京湾によく作った。

お台場は今もしっかと残っている。

私も姉と40年銀座で過ごしてきた。脳梗塞と脳溢血にもなり、こんな筈じゃないのに銀座から去った。

銀座の路地裏のおかみさんを見て育てられた。長野県の塩尻から来たおかみさん、新橋で芸者も経験したようだ。

近くに芸者の置屋もまだ、残っていた。人力車で膝に布を被せ粋な姉さんのお出ましだあ。

生きていれば120歳くらいだろう。きびしかったが笑顔がすてきだった。

下町の銀座、路地裏の銀座は、
田舎者の私には合っていた。

 鴨長明の「方丈記」がいい。こんな筈じゃなかったのに、高齢者からやっと始まり、はじまり。
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