相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

聖徳太子(連載―387)

2022年04月09日 | 経験・体験
世の中は、年齢に関係なく
ろくでなしの集まりだ。もちろん、私もその代表だ。

歴史は諸説があろうから歴史学者にまかせよう。

今から、1400年前の若き聖徳太子という方が冠位十二階、とか十七条憲法をつくって我が国、すなわち古代倭国(日本)の基礎をつくった。

アジアの端っこの小国で彼の言っていることは今の私をも感動させてくれた。なぜか、涙がでる。
当たり前のことなんだが背筋が伸びる。

人間って1400年過ぎても欲は同じことのようだ。

現代人は30歳はおじいさんになる、という。若くないそうだ。

恐れ入りますが、私の場合34歳からものごとが両サイドから見ることができ、一番、エネルギッシュだった。

もう、30歳は過ぎているのかある若者の考え方をかっていたのだが、ある物事の見方に今の見方しか見てない考えをした。こんなこともあり得るんだろうと思ったが、
別の若者がそれを修正した。

彼の見方は、ある国のリーダーがサングラスをして紺のスーツで登場した時の流行遅れとコメントが笑っていた。

流行遅れを言いたいのだがその国の国民にとっては流行は止まっている。

人はズレをいかにとらえられるかによって理解される。

古いも新しいも無いとその時知った。
古いと言われれば新しい変化をしろうとしない。
新しいといわれれば、過ぎ去ったことを知らない。

人は変化を嫌う。ぼんぷなのだろうか。私は「ぼんくら」だ。

589年に隋が中国大陸を統一した。
あの暴君の煬帝(ようだい)は万里の長城を修復したり,黄河と長江を南北を結ぶ大運河の事業で有名だが、朝鮮の高句麗に遠征し勢力下に置こうとしたが失敗に終わった。

600年の第一回遣隋使派遣は
散々な目に合い馬鹿にされたが

若き聖徳太子が奮起して、先進国、隋を参考に冠位十二階、とか十七条憲法を制定して対外的に国家として恥ずかしくないものにした。

607年 第二回は、『日本書紀』に記載されており、小野妹子(男)が国書を持って派遣されたと記されている。(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。

それを受け取った煬帝は、天子は煬帝一人と怒った。
高句麗への遠征もあり日本との争いをさけた。

聖徳太子も十七条憲法の制定。冠位十二階の制定にしろ、「改革」と言えば反対も起きるが
国書のことにしてもタイミングを見ていたのだろう。
聖徳太子のしたたかさを垣間見える。
聖徳太子は49歳で亡くなられたが私より31歳も若いとは信じがたい。私とは比較にならないだろうに。

国を治めるには天皇の言うことを聞いて
役人は賄賂に惑わされることもなく朝は早く、夕は遅くまで国民のために仕事をする。

冠位は縁故とかに左右されなく適材適所に能力によって配置されるべきと定めた。

後に、煬帝の国書をもって、日本に派遣された者が日本の礼にならって4回礼をみせ、日本が先進国の仲間にはいったこととなった。
よく煬帝も認めてくれた。
十七条憲法は貴族や官僚など政治に関わる人々に道徳や心がけを説いたものです。

「話せばわかる」「問答無用と」と暗殺された事件が起きたが、どんな話があったのだろうと聞きたいものだ。

後に、明治政府の基本的な政策を示した五箇条の御誓文は

「政治を行う際に多くの意見を求めること、政治に関して、全てのことを会議で話し合って決めていくこと和を以って貴しと爲し忤ふこと無きを宗と爲す……。

十七条憲法の第一条を参考に第一条、和を以って貴しと爲し忤ふこと無きを宗と爲す……。
「やわらぎをもってたうとしとなしさがふことなきをむねとなす……。」

訳文「和を大切にし人といさかいをせぬようにせよ。
人にはそれぞれつきあいというものがあるが、この世に理想的な人格者というのは少ないものだ。
それゆえ、とかく君主や父に従わなかったり、身近の人々と仲たがいを起こしたりする。

しかし、上司と下僚がにこやかに仲むつまじく論じ合えれば、おのずから事は筋道にかない、どんな事でも成就するであろう。」

とても世界に類のないすばらしいことを謳っているが、

相手に話さなくてもわかっているだろうというのはもう通用しないかもしれない。
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