私は、西の国から来た。いい臭いのする煙に誘われウナギを炭で焼いていた。階段をのぼってテーブルに通された。かば焼き下さい。
東の国では、ウナギを蒸して焼くそうだが初体験でウナギの蒲焼を食べた。 歯にはとてもやさしく、ごはんとタレが絡んでおいしかった。
西の国では、うなぎを串に差して
タレにつけ炭で焼いていた。蒸さない。
蒸すのは、川魚の臭みとウナギの弾力の歯ごたえをなくするのだろうか、東の国のウナギの蒲焼きを知った。
ウナギは海で産卵、ふ化して川に上ってくる。川育ちの私は、夜、電灯を持って川に潜りに行った。ウナギは夜になると岩場の外に出てきて寝ている、そこを捕えた。
調べますと、日本では奈良時代の『万葉集』に「武奈伎(むなぎ)」として見えるのが初出で、これがウナギの古称である。
ところで、うなぎ屋さんに源内は相談されたようだが夏場にお客様をいれるアイデァを平賀源内に相談した。
ウナギは、冬場が旬だから、平賀源内はうなぎ屋の店の前に「土用の丑の日にうなぎ」と張り出したら客で
満席になった。
それで夏場の土用の丑の日に、
うなぎを食べるようになった。これ平賀源内のアイディアなのだ。
江戸時代に土用の丑の日に「う」の付くものを食べると健康にいいと言う。古くは瓜(うり)、うめぼし、うどんが食べられていた。
確かに、夏場の暑い時期を乗り切るために栄養価の高いウナギを食べることは、いい。ウナギの肝もうまい。
ふと思い出した、平賀源内の子孫らしい友人の平賀さん、あの方の先祖は平賀源内だ。
1728年、平賀源内は、讃岐の国(さぬきのくに・香川県)に生まれ、父は高松藩の米蔵に務める足軽(あしがる・足軽くよく走る兵の意、ふだんは雑役を務め、戦時には歩兵となる者)でした。
父は、白石茂左衛門と名乗っていたが、平賀源内の時に白石から平賀に改名した。
1776年(江戸時代)、源内は壊れたエレキテルを修理して復元することに成功した。
エレキテルは静電気発生装置で、木箱に外についたハンドルをまわせば、金箔との摩擦によって静電気が発生して、蓄電器にたまる。
まるで、江戸のエジソンとも呼ばれた。
平賀源内は儒学を学び、長崎に行って薬草学を学び、日本は鎖国で唯一、長崎の出島で、ヨーロッパの文化や知識を学んだ。
小説や浄瑠璃をかき、水平儀などの発明で人々を驚かせ、鉱山採掘にも手を染め、西洋画法にもとづく絵も描いた。
平賀源内は、人々が考えつかないようなことばかり行い。誰にもまねのできないものでした。何をやっても人にうけいれられなかった。
弟子をきりつけたのも源内は気がくるっていたのだろう。
自分の才能が社会に受け入れられず半ばすてばちになったのか。
源内と親しくしていた蘭学者杉田玄白は、墓碑に
「ああ、非常な人、非常のことをこのみ、おこないは非常、どうして非常の死をとげたのか」としるした。
平賀源内は生まれてくる時代が、すこし早かったかもしれない。
東の国では、ウナギを蒸して焼くそうだが初体験でウナギの蒲焼を食べた。 歯にはとてもやさしく、ごはんとタレが絡んでおいしかった。
西の国では、うなぎを串に差して
タレにつけ炭で焼いていた。蒸さない。
蒸すのは、川魚の臭みとウナギの弾力の歯ごたえをなくするのだろうか、東の国のウナギの蒲焼きを知った。
ウナギは海で産卵、ふ化して川に上ってくる。川育ちの私は、夜、電灯を持って川に潜りに行った。ウナギは夜になると岩場の外に出てきて寝ている、そこを捕えた。
調べますと、日本では奈良時代の『万葉集』に「武奈伎(むなぎ)」として見えるのが初出で、これがウナギの古称である。
ところで、うなぎ屋さんに源内は相談されたようだが夏場にお客様をいれるアイデァを平賀源内に相談した。
ウナギは、冬場が旬だから、平賀源内はうなぎ屋の店の前に「土用の丑の日にうなぎ」と張り出したら客で
満席になった。
それで夏場の土用の丑の日に、
うなぎを食べるようになった。これ平賀源内のアイディアなのだ。
江戸時代に土用の丑の日に「う」の付くものを食べると健康にいいと言う。古くは瓜(うり)、うめぼし、うどんが食べられていた。
確かに、夏場の暑い時期を乗り切るために栄養価の高いウナギを食べることは、いい。ウナギの肝もうまい。
ふと思い出した、平賀源内の子孫らしい友人の平賀さん、あの方の先祖は平賀源内だ。
1728年、平賀源内は、讃岐の国(さぬきのくに・香川県)に生まれ、父は高松藩の米蔵に務める足軽(あしがる・足軽くよく走る兵の意、ふだんは雑役を務め、戦時には歩兵となる者)でした。
父は、白石茂左衛門と名乗っていたが、平賀源内の時に白石から平賀に改名した。
1776年(江戸時代)、源内は壊れたエレキテルを修理して復元することに成功した。
エレキテルは静電気発生装置で、木箱に外についたハンドルをまわせば、金箔との摩擦によって静電気が発生して、蓄電器にたまる。
まるで、江戸のエジソンとも呼ばれた。
平賀源内は儒学を学び、長崎に行って薬草学を学び、日本は鎖国で唯一、長崎の出島で、ヨーロッパの文化や知識を学んだ。
小説や浄瑠璃をかき、水平儀などの発明で人々を驚かせ、鉱山採掘にも手を染め、西洋画法にもとづく絵も描いた。
平賀源内は、人々が考えつかないようなことばかり行い。誰にもまねのできないものでした。何をやっても人にうけいれられなかった。
弟子をきりつけたのも源内は気がくるっていたのだろう。
自分の才能が社会に受け入れられず半ばすてばちになったのか。
源内と親しくしていた蘭学者杉田玄白は、墓碑に
「ああ、非常な人、非常のことをこのみ、おこないは非常、どうして非常の死をとげたのか」としるした。
平賀源内は生まれてくる時代が、すこし早かったかもしれない。