相台万朗Sodaiブログ

和歌山からきて今は千葉県人に、東京銀座でウエスタンバンジョーの店を36年間やらせていただき、もっかしたずみしてます。

この世は光と影 (連載ー第577号)

2024年09月30日 | 経験・体験
江戸時代に欧米諸国と結んだ不平等条約の改定交渉に明治時代に入り、岩倉具視全権大使ら木戸孝允(参議)、大久保利通(大蔵卿)、伊藤博文(工部大輔)、そして武雄出身の山口尚芳の5名と共に首脳陣や留学生ら107名ほどが欧米に派遣された。
 不平等条約を結ばされたということは、当時の日本が未発達で欧米先進国と遅れをとっていて、対等な立場を取れなかったことが条約を結ばされたのだろう。井伊直弼が日本がアメリカとの戦争を避けるため、やむを得ず不平等条約を結んだとも言われているが、後に、彼が批判され暗殺された。
  不平等条約って

1, 外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁くことができなかった。
2, 日本市場で100円していた。これに外国が20円の関税を掛ければ、日本の商品価格は120円となり、外国商品価格は100円あなたならどちらを買いますか?
3,片務的な最恵国約款があるらしいがこの点、私も知ったばかりであるシラン。こんなものだと思う。間違いだと思うがゴメン。A国と結んだ約款が、結んでないS国にもA国が認めればS国にも同じ待遇の約款が適応される。
それにしても日本は不利な条約だ。
  欧米先進国との近代化の遅れを感じ取った一行は帰国後、富国強兵の国策を行った。
 おそらく、2年間、明治政府を託された、太政大臣「三条実美」をはじめ、西郷隆盛・板垣退助・大隈重信、江藤新平ら「留守政府」と呼ばれた人達でした。よくぞあの時期に、薩長(鹿児島)・長州(山口)を中心に2年余り、日本を留守できたものだ。
 昨日、総裁選挙で次期総理に石破茂さんが選出された。9名も総裁候補が出れば消える人、影が薄くなる人、様々だ。欲を出し過ぎると敵は多くなるし、警戒する。「天命を待つ」と飄々と感謝の心の隙間を開けとけば運が自ずと入ってくる。そんなに時は甘くないだろうな。
  140年ほど前、下野の国(しもつけのくに:栃木県)の華厳の滝近くの足尾で銅山が発見された。
銅山が発見されれば、そこで働く多くの人が集まり、家も出来、道路・鉄道も出来、学校も出来、多くの人々が住む社会が出来る。
 富国強兵の国策が優先され、日本は銅を輸出して外貨を稼ぎ、銅の副産物もとれた。
これまで、日本はお蚕さま(かいこ)おかげで絹織物を輸出した。唯一外貨を稼いでいた。
 しかし、光があれば、影もできる。
影は、時間をおいて気が付く、こんな筈ではなかった。
  精錬所で燃やす煙に酸性の亜硫酸ガスが発生した。掘り出された銅の鉱石を製錬された廃棄物を渡良瀬川に流された。
現在は,清水処理され安全のようだが。当時は自然破壊と人間に害をあたえたようだが。
 山の木々は伐採され、燃料に、坑道を支える木に、人々が住む家、トロッコ・鉄道の枕木に、山ははげ山となった。山がハゲ―となれば、砂防堰堤ダムを作らないと山が崩れる。
 これが、日本初の公害となった。
鉱業優先、村民軽視の国策とね。
富国強兵をして、国を強くしなければ植民地になりかねない。
  「山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」・・・富国強兵の国策の光と影は車の両車輪となっている。 
 文明とは被害者を生み、環境を破壊するものとなってはならない。と誰かがいわれていた昔むかしのお話。
 銅山から出た排水の沈殿湖をつくり、石灰で中和をして、上水(うわ水)だけを渡良瀬川に流した。
足尾銅山は1973年に閉山となった。そこで働らいていた人々は光と影を知るだろう。山に植樹するが
山の土が元に戻るのも、樹木が成長するのも時がかかる。閉山して51年を迎えるが、明治・大正・昭和・平成・令和、その後も人間は環境破壊・人間破壊に懲りていないようだ。
さて、原子力発電所の海への放水問題が起きた。処理水を汚染水とした国が、100隻も日本近海で魚を取っているという。魚は日本産とはならないようだ。
この世は光と影、影が出来るから、光が生まれるのか光が出来るから影が出来るのか、こんな筈ではなかったのに。
今日も朝の光を浴び、陽は沈む。
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野口英世の生家を訪ねて (連載―第576号)

2024年09月26日 | 経験・体験
35年前、栃木の義兄に連れられ、福島県の猪苗代の野口英世の生家の見学にいった。100年前の明治維新は、武士の世は終わり、欧米との遅れを取り戻すべく、日本も近代社会のはじまりだ。
戸を開け中に、一歩踏み入れたら土間で、外には厠(かわや:トイレ)があり、そう田舎を思い出した。冬には暖房もなく、隙風(すきまかぜ)が吹き、寒いだろう。決して金持ちの住(すまい)とも感じなかった。
 父は酒ばかり飲んでいて、母は、3人の幼子を抱えて畑仕事もし、夜には、猪苗代湖の魚を取って、朝には町に売りに行きました。
  一日中仕事に追われ、子供の面倒も見る間も、ある日、1歳の英世が囲炉裏(いろり)に落ち、左手をすっかり、焼きただれていました。
 医者にみせる金もなく、薬もなかった。大人の世界も、特に、子供の世界も残酷だ。それを見てイジメる者もいる。
 悲しみから立ち上がり、勉学に励み、単独でアメリカに渡り、細菌を研究をして学者になった。
野口英世は1918年 黄熱病の病原体発見のためにエクアドルに赴任。 ワイル病原体の特定に成功。 この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米の黄熱病は収束したとされる。
  振り返れば、野口英世は15歳までに多くの人に助けられていたせいか、人にたよりすぎる性格がめばえ、また、学問ができるのをよいことに、人を利用する癖もあらわれました。しかし、不思議に人をひきつける魅力をもっていた。
一度決めた目標に、力いっぱいたちむかいました。医者を目出したとはいえ、貧しい家庭に大学の医学部には、とても進めません。
ヨーロッパを征服したナポレオンは一日3時間しか寝なかったと聞き、ナポレオンが出来、私ができない筈がないと独学で医学の勉強をした。
左手のハンディもあったが高等学校に研究所にも入学できた。
 用務員として住み込みで働きながら、ある先生の資金の援助もあり見事、医者の国家試験に合格した。
ドイツ語も学んだ。そんな日々の野口英世を陰ながら母が見ていた。誰かが見ているのだろう。世間は学歴差別もあり、捨てたもんでもなく、まじめに努力してれば、いつか酬いる時がくるかも、ニューヨークに行けるチャンスがめぐってきた。
一人でアメリカに渡り、そこでも、もしアメリカにきたら、私の所に訪ねて来るように言われていた。フレスキー博士を訪ねた。フレスキー博士が日本に講演にきた時に出会った。チャンスは一瞬。
フレスキー博士の計らいで野口英世は細菌の研究を知った。
 細菌といば北里柴三郎博士はドイツに渡り、破傷風菌の血清療法の確立、ジフテリアと破傷風の抗血清開発など、細菌学の分野で多大な功績を上げた。
また欧州では、ペストが大流行して多くの死人を出した。北里はペスト菌を発見して感染をくい止めた。
 話は変わるが、ダイナマイトを発明した、アルフレッド・ノーベルが自分が発明したものが殺人兵器に利用されている事を知り、平和のために多くの研究者を応援しようと自分の遺産を基金として、ノーベル賞を毎年、研究者に贈られる。
 野口英世、北里柴三郎のお二人は医学界に国内外に貢献したがノーベル賞を獲得できなかった。
  獲得できなかった理由が多々あるだろうが、差別も、あるだろう。足を引っ張る者もいるだろう。もしかして、日本人への劣等感のあらわれかもしれない。
まだまだ、日本はこの分野では後進国だ。研究者を増やし研究に予算掛けないといけないだろう。ロビー活動も下手では、伝わらない。
言わなくてもわかってくれるだろうじゃ、わからない。これが、日本人の良いところかも知れない。
 ちなみに、日本人として、はじめてノーベル賞を得たのは、1949年日本の物理学者湯川秀樹博士であった。

  福島県猪苗代の野口英世の生家を訪ねた35年前、冥土 イン ジャパン 会津はいいとこだ。
 西の国から東の国に来た部外者のものが、会津白虎隊の青年を報復する出来事に遭遇した。
 偉人、野口英世は「これはつくり話だ、人間は、こんなに完全じゃない」と語ったらしいが、左手のハンディが彼を強くした。
当時、日本の封建的な医学界に生きることも、外国で黄色人種への偏見をあじわったことも、母の愛が偉人、野口英世をささえたのだろう。
1928年、西アフリカのアクラ(現ガーナ共和国)で黄熱病の研究中に感染し51歳で亡くなりました。
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暴暴れん坊将軍:徳川吉宗 (連載―第575号)

2024年09月23日 | 経験・体験
砂浜を馬に跨って勇壮にかけている将軍様。徳川吉宗8代将軍が、何で紀州の田舎の国の者が将軍になれたのか不思議に思った。
 突然ですが「今日はなんの日」とアナウンスされる。ラジオが私のめだまし時計だ。
第二室戸台風が四国の室戸岬に上陸した。1961年の今日がその日だそうだ。200人の犠牲者を出したようだ。
幼い頃、台風といえば、鹿児島か高知、紀伊半島、伊勢などに上陸した。
 台風が紀伊水道から大阪湾を通過すると私の紀州(和歌山県)は風も雨も強い。家の戸が外れそうになり、懸命に両手で押さえていた。瓦(かわら)が外れ空がみえた。
台風のコースも沖縄からキルっと
偏西風にのって北東に進路を変え、
日本を縦断する。
最近は、気候変動か偏西風も北におされ、沖縄から真っすぐ北西に進む。
徳川家康が死後も我が身を日光東照宮の鬼門(キモン;物事をするのに避けたほうが良い方角を意味する)に置いて徳川家の繁栄を祈った。
徳川家の血筋を絶やすことを恐れて、紀州、尾張、水戸に我が子をそれぞれに分散した。
 紀州に初代藩主は徳川家康の十男・徳川頼宣がなった。
第2藩主は吉宗の父、徳川光貞になった。そうすると、徳川吉宗は家康のひ孫にあたる。吉宗は徳川光貞の4男に生まれた。
 紀州藩の当主になる予定もなかった。そのため、幼い頃は家老のもとで暮らしていました。
そののち、徳川光貞の長男:綱教は藩主を継いだがこの世を去り、二男「徳川次郎吉」が病没した。3男:頼職は体調を崩し死去、同時期に父も亡くし、次々に兄上たちを亡くし、吉宗が偶然、紀州藩の藩主となった。
 気づいたが、吉宗は徳川光貞の4男生まれ紀州藩主になる可能性は最初からなかった。お名前に「家」の一字が入ってない。徳川吉宗は奇跡のお人だ。
初代藩主徳川頼宣は、和歌山は山と海で平地が少なく山の丘陵、渓部を活かしみかんの栽培、海には、漁業を奨励した。また、湯浅町では醤油をつくらせた。
頼宣着任後十数年にして、みかん栽培も広まり江戸への販売が始まるようになった。紀伊国屋文左衛門の商人もこの時代に登場する。


 文左衛門が20代のある年、紀州ではみかんが大豊作だった。ダブついたみかんは難波(なにわ、大阪)の商人に安く買われるのを避けて紀伊国屋文左衛門は嵐の中、船を出しみかんを江戸に運んだ。
その頃江戸は毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」があった。
祭りに鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて地域の人に振舞う風習があった。思えば、紀州の田舎でも新築した屋根の上から餅撒きをした。
みかん船が来ないので江戸ではミカンの価格が高騰した。
 まさかこの嵐の中、みかん船を見つけた江戸の人々は歓迎の嵐だったそうだ。
文左衛門は、江戸から帰りに大量の鮭を船に積み、難波(大阪)で流行っていた風邪には鮭が良いと風評を流して難波に運んだ。
紀伊國屋文左衛門、オヌシモ悪じゃのーとみかんと鮭で大儲けした。嵐の中、命がけで古い船を修繕して、みかんを大量に積み、みかん船を出した。

紀州は、江戸と大阪の物流の狭間にあり、貨物船が行き交いしていた。紀伊水道に位置する紀州藩は重要な役目をした。
紀州は平地が少なくお米の収穫が少なく、茶でお米を水増しした。幼い頃、私の家庭も百姓をしていた。(参考に紀州茶粥のレシピを書いて見た。8人分)
「鍋いっぱいに水を入れ、釜戸でお湯を沸かし、お茶袋に番茶(ほうじ茶でもよい)を鍋に入れ、お米1合半も入れ、20分ほど沸騰させる。火傷に気を付けて、沸騰したお米に芯が多少残ったら火を止め、余熱で炊き上げる。サラサラの茶粥が出来る筈」
麦も作っていたので、白米に麦を混ぜ、麦ご飯を食べていた。なんとか、私の8人家族はお米に不自由することはなかった。
 テレビでみる暴れん坊将軍は,倹約のイメージはないが吉宗は質素倹約で紀州藩の財政を立て直した。当時の紀州藩は多額の借金と1707年に起きた「宝永の大地震」の復興費用や兄達や父(光貞)の葬儀費用なども掛かり、財政もひっ迫していた。
そんな状況中、質素倹約で、紀州藩の財政を立て直した。
紀州民から賢い殿様と評判だった。
紀州藩主として財政再建の手腕をふるっている最中、徳川吉宗のもとに今度は将軍職を継ぐ話がもたらされます。


 本来、徳川御三家筆頭の尾張徳川家から次の将軍を輩出するところですが、尾張徳川家は「将軍位を争うべからず」と言う明文化されていなかったが、暗黙の決まりがあったので、積極的に将軍位就任運動を行ないませんでした。
その結果、紀州藩の吉宗にまわって来た。
紀州藩の財政を立て直すことに尽力していた徳川吉宗が、8代将軍に推挙され就任することになったのです。
江戸幕府6代将軍を務めた「徳川家宣」は、将軍に就任してわずか3年で亡くなってしまいます。

  1716年に7代将軍「徳川家継」が、わずか8歳の若さで病没したため吉宗が将軍となり本家55万石を継いだ。
同年12月に従三位(じゅさんみ)・左中将となり、徳川綱吉の一字をもらい名を改め吉宗となった。朝廷から征夷大将軍に任命された。
紀州藩を廃藩することなく、従弟の「徳川宗直」に家督を譲ることで存続させています。
なんと、幸運なお人だ。紀州藩主の時も、徳川8代将軍になる時もそうだが、前任者が亡くなられている人がいる。
現在で言うなら密偵を使って粛清したのだろうか、そんな疑りの念を持つのが不自然だろうか。
 幕府の将軍になっても、財政はひっ迫している。将軍吉宗に幕府の財政を何とかしろということだろう。
質素倹約で実積を挙げた吉宗は、
まず組織体制づくりに専念した。「新井白石」「間部詮房」を解雇して、
新しく「水野忠之」を側近に置いた。
幕府の財政もひどいもので、財政の立て直しには、徹底した質素倹約で贅沢を嫌った。
政府の財政健全化は収入を増やす方法と支出を削る方法だ。吉宗は享保の改革を行った。
まず、大奥は、贅沢の根源のような場所だったため、4,000人いた大奥女中を大量に解雇して、1,300人にまで減らしています。吉宗だから出来た気がする。
 新田開発により、新しい田畑も増え、農機具の発達により、お米の生産量が増え、お米がだぶつきお米の価格が下がり、武士が困窮した。   
翌年、イナゴの大量発生をして、イナゴの害でお米の生産量が落ち、お米の価格が上がった。商人たちはお米を買い占めたりするから益々市民は苦しくなり、米屋などを襲撃したり、金持ちを襲ったり略奪する暴動がおこり、経済が混乱した。(うちこわし)
吉宗も米の価格に苦労した。米将軍とも言われた。とにかく、幕府
の財政をよくするには、上米(あげまい)制度を実施した。
   大名から石高1万石に対して100石の米を幕府に納めさせることとしました。 その代わり、藩にとって負担が重かった参勤交代の江戸在府期間を、1年から半年に短縮することとした。
また「町火消し」と名付けた消防隊を組織し、目安箱(めやすばこ)を置いて人々の意見を広く取り入れ政治に反映させました。
 名奉行、大岡忠助は、8代将軍・徳川吉宗の享保の改革を町奉行として支え、現代でも大岡越前守忠助公として知られている。
 小石川養生所の設置で無料で町民の健康管理を行った。
   徳川吉宗の質素倹約は財政再建には一応の成果を上げたが、農民には重い年貢を課し、百姓一揆を誘発させ、世は不景気だったろう。
 吉宗は、政府財政の立て直しに、役人にも町人にも質素倹約を徹底させ、農民から厳しい年貢(重税)の取立をおこなった。
 お米の凶作の年でも税率は豊作の時の税率と同じ。1千万の所得の人と、500万所得の人の税率は同じ。これじゃー文句も言いたくなる。徳川吉宗はこうして幕府の財政を立て直した。
 吉宗は1745年隠居し、長男家重が35歳で9代将軍の宣下を受けている。
   吉宗は脳卒中で68歳で人生の幕を降ろした。
 初代徳川家康から15代将軍徳川慶喜まで265年もつづいた江戸幕府、その一端を受け持った8代将軍徳川吉宗の紀州藩主から将軍になるレールが敷かれていたのだろう。
私の生まれは和歌山の山奥から大都会東京に憧れて来た。西の国から東の国、江戸弁に憧れて。
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総裁選と平家物語 (連載―第574号)

2024年09月15日 | 経験・体験
そんな古いはなし、誰もがおとぎの国の物語と思うに決まっている。
 ところが、1000年以上前の平安時代の古―い話を思い出した。当然、人も縄張り(派閥)をつくり勢力を誇示したい。
 鎌倉時代につくられた「平家物語」は、権力をにぎり大きく栄えた平家が源氏との戦いに破れて滅びていく様を描かれた戦記物語だそうだ。
私は紀州(和歌山県)の生まれ、川を遠く坂上れば深い木々に覆われ、平家の落人(おちうど)の村もあった。
 平氏もこんな奥深いところまで、追われて、気が付いたらここだったような気がする。まるで、今のようだ。
総裁選挙、誰が天下を取るのだろう。もうすでに、10人ほどの人が名乗りを挙げている。
この10人の方は、東の国の人か、西の国の人か選挙基盤をみれば、源氏か平氏がわかる。京都を境に西が平氏、東が源氏にわかれるようだ。
平氏も源氏も元は天皇家で皇室の財政上、天皇家を継承する見込みのない皇族を外し武士として扱い、そのかわり平氏、源氏の性(かばね)を名乗っていいとした。平(たいらの)、源(みなもとの)のを付くのは天皇家の子孫を表している。
 皇室の真子様が小室さんと結婚したことによって、真子様が皇室から外れ、臣籍降下(しんせきこうか)によって、真子様への国からのお手当てがなくなり、小室さんの給料で生活するようになる。小室真子となる。
平清盛の平氏が源氏との戦いで皆殺しにしようとしたが、幼い源頼朝は伊豆に流され、監視役であった、北条時政の政子と恋仲になってしまう。大反対したが、平氏に隠れて婚姻した。ってことは北条時政は平氏だったのが源氏になったのだろう。
大人になった源頼朝は北条時政、義時とともに安房国(千葉県)に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。
 北条政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで、池の鳥が一斉に飛び立ち頼朝軍の夜襲と勘違いして逃げ去った。頼朝軍は戦わずして平氏に勝った。
各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。
源頼朝は、母違いの弟の義経と再会し、33歳の頼朝、21歳の義経が協力して平氏と戦った。
源頼朝は人望にあつく、弟の義経は戦略家であった。
一方、平氏の頭領、平清盛は娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、出来た子が安徳天皇です。武士の清盛はえらくなり、「平氏でなければ、人間じゃない」と言わせる安泰な身分となった。
 平清盛は交易によって経済を発展させたいと思って、福原(兵庫県)に港町を作った。現在も港町神戸として発展している。瀬戸内海を交易ルートとして、大いに利用した。
戦の天才、源義経は福原に強固な陣地を構えた平氏を、思わぬ方法で海に追い出した。これが「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえの逆落とし)だそうだ。まさか裏山の崖から源氏が攻めて来るとは思いもせず、平氏は海に追い出した。
ここで、栃木の那須の与一が登場し船上か平氏の船上の的(まと)を弓を放ち見事、的に命中した。という那須の与一の伝説ができた。伝説かどうか知らないが、栃木には今も那須の与一の館があった。
 平氏は本拠地の屋島に追われ、とうとう下関の壇ノ浦まで追いやられた。瀬戸内海の水軍の助けもあった。
下関は海峡で、海の流れも荒く変わる。平氏は海での戦いは慣れている。源氏は舟を操る(あやつる)船頭(せんどう)に弓を引いたようだ。舵(かじ)を無くした舟は荒海にのみこまれ海に沈んだようだ。
あんなに栄えていた平氏が壇ノ浦の戦いで源氏に滅ぼされた。栄枯盛衰の感だ。
平家との戦いに最も功績のあった弟の義経を殺し、さらに、義経を殺させた藤原氏までも打ち取った。
源頼朝が平家を滅ぼした後、20年後には源氏は絶えてしまった。
 武家社会は、肉親,友の抹殺は日常茶飯事に行われている。権力と独裁は必ず衰える時が来ることを教えている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という平家物語の最初の一節だそうだ。
現在の日本を考える時、日本の領土の45倍の国、日本の人口の約12倍の国、日本より小さな国で核ミサイルをつくっている国、
に囲まれた日本、今更、引っ越しも出来ない国日本の舵取りを任せるトップを決める総裁選挙が今月末に決まる。
平清盛にたどり着くまで、平氏のあゆみは250年も要している。
さて、総裁選挙の候補者の記者会見を覗き見させていただいたが、勉強なさっている候補はただお一人いた。
後は自民党の義理で若い候補も古い候補も、何か話しておられた。
私のにわか評論は、おこがましいが、日本のおかれている世界は大変厳しい。舵取りを間違えば来年の日本はないかもしれない。
世は、青年も中年も高齢者もみんな共存している。古いだの新しいだの生まれてないよ、と言っている時間はない。
スマホも必要だし、新しい情報、古い情報、嫌な情報、学びの情報が人間の生きざまになる。
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
義父が亡くなられ、小さくなって、お墓に納骨された。
総裁、内閣総理大臣となられるお方は、明日からの日本国のあるべき姿を国民に示すことであり、いち大臣ではない。日本国民を守ることにある。
今が良ければいいと思う気持は理解できないでもないが、未来は与えられるものでもなく、踏み台にされないことを願う、自分の未来は自分でしか作れないと思った。
敬具。
がん細胞は甘いものがお好だとか。がん保険に入ってなかったの? だって、がんになるつもりなかったから。(ある知人の話から)
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次の世代に何を (連載―第573号)

2024年09月08日 | 経験・体験
イントロで何の曲か、わかったのに、イントロ無の曲がふえてきた。人間様に「戦争」を知らない世代の人も増えて来た。
 脳の処理スピードも過去の人間より速い。半導体で世界をリードしている台湾は日本、アメリカ、ヨーロッパにも半導体の工場を分散している。危機管理なのだろう。
 半導体はスマホ、自動車、冷蔵庫、ドーローンなどのあらゆる電化製品の製造には、なくてはならない。

  私は、半導体の知識はなかったが、にわか知識で知った。
半導体というから、電気が通す金属と通さない物を交互にすることによって半導体が作れる。
On・Offを速く切り変えることによって計算を素早くする。
更に、速くするには、チップを増やすことにある。その増やす技術とコンパクトにする制作する技術が台湾が優れている。
 これまでは電流であったものが、光に変えることで、計算処理能力が何百もスピードを速くする技術を日本が研究している。
日本人の無限の能力に感服する。ものづくり日本のきめ細やかな知識の積み上げにあるんだろう。
 日本人は猿まねと揶揄(やゆ)されるが、それは小さなヒントにすぎないようだ。
この研究が成功すれば日本が世界をリードするのだろう。
PCの処理能力も百倍も速くなると私の処理能力がついて行けないようだ。AIの脳も人間様の脳を劣化させるようだ。
 フリーズドライ食品の登場でお湯をかければハンバーグ、かつ丼、カレーなどなど料理ができるという。
かつて、お湯をかけて3分とインスタント・カップラーメンが出来上がり、即席で食べられた。
未来の食卓は、お湯さえ沸かせれば、いとも簡単に料理ができる。
 医学の世界でもAI診断で医師不足も解消されるだろう。
 料理学校も医学の学校もすべて必要性もなくなり、社会構造も変わるだろう。
ある会社の名前を聞けば何を扱う会社と分かったが、別業種に変わった。過去の会社のネーミングを大切に守りたかったのだろう。  
人間も、二重構造に分けられ
便利を快適に利用する人と便利を作り出す能力の人とに分けられる。
今や、スマホがなければ、生活が成り立たない。
一人でレストランに入ってスマホが相手してくれる。
ある、お二人の顔をスマホで写真を撮り、何パーセント似ているか?おもしろい。10分後の天気予報を、列車時刻を、お店の混み時間、あらゆる情報が指で簡単にGETできる。
現在人は時間の余裕もなければ、ハプニングを楽しむ時間もないようだ。自転車に前後に子供を乗せて走っているお母さんの姿に関心する。
見上げれば、都会の空には東西南北の目印がない。
 祖父の死によって、栃木に来ている。お葬式の手配に、孫が祖父の家に養子に入っていた孫が葬儀の手配に苦労していた。
  祭壇に置かれる生花の序列の順番で苦労していた。
義父の歩み、義父の家の歴史の知識は、孫には白紙だ。
 どこから嫁に来て 、家から出た人で別姓になったとか複雑だ。
もう誰とはわからない方は上段にしなさいと。ある方のアドバイスに従うようだった。
祖父から孫への世代交代には、あまりのキャップの大きさを感じた。
 こんな筈じゃなかったが、義父は死んじまった。
 こんな筈じゃなかったが、人に歴史あり、世にも歴史あり、人と世がしっかり結びついてる。
ラジオを聴いていた。「日曜日は頑張らない」今日は休もう。
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