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ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

裏と表

2006年02月01日 | ことば・国語
先日のテレビで、永六輔氏が色紙(「「いろがみ」ではなく「しきし」の方)の裏・表のことを話していました。
あれって、普通みんなが字を書く白い方が裏なんですね。
「本当は金粉の方に書くのだが、私のような者が表に書くのはおこがましい」という謙遜の意味で白い方に書くのだそうです。
そう言えば、昔の貴族の和歌などは金粉の方に書かれていますもんね...。

で、そこからいろいろとオモテとウラについて考えてみました。

硬貨の裏・表はわりと知られていますね。
十円玉で言えば平等院鳳凰堂の描かれている方が表。
これを初め知ったときは、それまでなんとなく表だと思っていた「10」と書かれた方が裏だったので驚いたものです。
ただ、なぜそちらが表かという理由の部分の記憶が曖昧で、自分の中では「日本国」と書いてある方が表だと定義してきました。

ところがこれも違っていたのです!
硬貨の表は「年号が書かれていない方」だそうです。
十円玉や百円玉、一円玉ではそれでも私の考えていた「表」と矛盾しませんが、五円玉だけは別です。
五円玉だけは「日本国」と年号が同じ面に書かれているんですね。
従って「五円」と漢数字がある方が表です。
今すべての硬貨を調べてみましたが、「漢数字のある方が表」、あるいは「絵柄がある方が表」と解釈しても間違いはなさそうです。

ところで「表」に対して「裏」は、どうしてもマイナスイメージがありますよね。
「裏目に出る」「裏切る」「裏表がある」「裏ぶれる」「裏金」などなど...。
どうしても日の当たらない暗いイメージが付きまといます。
かつて日本海側を「裏日本」と呼んでいた時期もありましたね。
わざわざ「日本海側」と言い換えたのも、「裏」という語が差別的ニュアンスを含んでいるからでしょう。

でも、「裏」が付く言葉でも必ずしもマイナスイメージだけでなく、それはそれで味があるという例も多くあります。
「裏町」「裏街道」「裏磐梯」「裏庭」「裏方」「裏番組」などです。
「表」の方がメジャーで注目を集めているのだけど、そうじゃない「裏」の渋い魅力にも目を向けている感じがします。
「もののあはれ」や「わび・さび」に通ずるところもありそうな...。

「裏千家」は単なる分類上の言葉ですから評価の要素は入っていません。
ま、これは、表も裏もそれぞれの良さがあるというだけのことですね。

さらに「裏」がプラスの意味を持ったものを探してみましょう。
「裏打ち」「裏書き」「裏付け」「裏をとる」などでしょうか。
いずれも「裏」が「表」を支える重要な役目を果たしています。
「表」だけではやって行けないのです。

「裏ワザ」はもっと積極的。
「表」を越えています。
「裏を返す」「裏をかく」は微妙なところ...。
立場や状況によってはプラスイメージになりそうです。

将棋の駒は裏になるとパワーがアップします。
「歩」が一挙に「金」に昇格するなんて、その最たるもの!
まさに「成金」ですね。
将棋では圧倒的に「裏」の勝ちです。

オセロも、挟んだ方に取ってみれば裏は宝の山。
野球だって延長戦に入れば裏が断然有利...。

こうしてみると「裏」の魅力も捨てがたいですね。

ところで、コピー用紙の裏・表の見分け方がわかりません。
昔聞いたのですが忘れてしまいました。
どなたか、ちゃんと教えてくれませんか?


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時間の使い方

2006年01月29日 | 日々雑感
部活と勉強をがんばって両立していた中学生が、3年で部活を引退した途端に勉強にも身が入らなくなってしまうことがある。
高校でも、帰宅部の子より部活に熱中している子の方が成績がよいことも多い。

もちろん、勉強ができなくなるまでくたくたに疲れる部活では本末転倒だが、少々忙しい方が時間を大切に使い、集中力も増すということだろう。

これは大人でもみんな経験していること。
仕事でも家事でも、あり余る時間があるときは「いつでもできる」という思いがあるためか、やるべきことがなかなか片づかない。
やることがいっぱいあるときの方が、集中して次から次へと課題をこなせる。
人間とは不思議なものである。

昨日の信濃毎日新聞の投書欄に、車の使用を半分にしたという佐久地方の男性(私と同い年)の話があった。
その中で気になった一節をご紹介する。

「いつでも出掛けられるという車ならではの利便性が、時間の使い方をルーズにしてしまったような気がします。」

時刻表を見る必要がないほど次々に電車が来る都会と違って、地方では公共交通機関は甚だ使い勝手が悪い。
私の町のように電車の駅そのものが存在しない(「最寄り」の駅まで20km以上)所もあるし、あっても1時間に1、2本しか列車が来ない所も多い。

長野市街から私の町に来るバスは1時間に1本。
それも町の中心部までで、私の住む集落には町営バスに乗り継がないと辿り着けない。
日曜日には町営バスは走らないので、車がないと動きが取れなくなる。

結局、長野市方面へ通勤する人はほぼ100%マイカー通勤。
高校などへの子どもの通学も、親が長野まで送迎している家庭もあるし、少なくとも町中心部までは車が頼りである。

特に私の仕事は夜が遅いので、バスはとっくになくなっている。
車がなければ1日も立ち行かない。

それがあたり前すぎて、時間の使い方など深く考えたこともなかった。
いや、逆に、車があるから効率的に時間が使えているのだと信じて疑わなかったのだ。
家を出る時刻が予定より4,5分遅くなっても、車なら大した遅れもなく塾に着ける。
バスや電車ではそうは行かない。
2,3分の遅れがたちまち1時間の遅れに広がってしまう...。

しかし、この投書を読んで改めて考えた。
多少時刻がずれてもいいという安心感が、密度の低い時間を作り出しているのではないか。
もう少し、もう少しとダラダラ仕事を続けていたり、けじめのない日常生活を送っているのではないか。


特に、教材を作ったり文章を書いたりという作業は、どこかで区切りをつけないと際限がなくなる。
もっとよいものをという思いがあればこそ、いくら時間があっても足りなくなるのだ。
私のような個人塾では、自分で締め切りを決めてそれを遵守するようにしないと大変なことになる。

現状では車を使わない生活は不可能だが、何時までには必ずこれを片づけるとか、何時を過ぎたら塾を出るとか、けじめをつけた生活を送ることを考えてみたい。

時間をかけさえすればいいものができるとは限らない。
むしろ短時間集中で行った作業の方が質の高いものを産むのではないだろうか。


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聞くは一生の損

2006年01月26日 | 学習一般
私はめったに人に道を聞かない。
地図を見るのが好きということもあるが、初めての場所でも近くまで行ったらあとは勘で何とか目的地にたどり着く。

対して、すぐに誰かに道を聞きたがる人もいる。
妻もそうだ。
初めて行く場所が私の知っている所だと、まず出発前に念入りに私に道を聞く。
現地で少しでも迷ったら、道行く人に尋ねる。

この違いはどこから来ているのか?
社交的とか人見知りしないとか、性格的なことなのだろうか?

それもあるかも知れないが、私はとにかく自分の力で行きたいのである。
人に教えてもらってたどり着いたのでは達成感が乏しい。
地図というのは普通の理解力と方向感覚があれば迷わないようにできているはずである。
その地図に負けるのは甚だシャクなのだ。

「聞くは一時の恥」ということわざがある。
後に「聞かぬは一生の恥(or末代の恥)」と続く。
礼儀作法や仕事の進め方などがわからなければ恥を忍んで人に聞け、間違ったままでは一生恥をかくぞという意味である。

作法とか慣習などについては確かにその方がいいかも知れない。
失敗を重ねることにあまり寛容でない世界だからである。
しかし、こと学習に関しては、これは必ずしも薦められるべきものではないのではないか。
壁にぶつかるたびに人を頼っていたのでは、いつまでたっても地力はつかないのではないだろうか。

宮本哲也という人がいる。
中学受験の算数塾を主宰し、毎年8割以上の生徒を首都圏トップクラス高(開成、麻布、筑駒、フェリスなど)に合格させているという。
しかも入塾時の選抜試験はなく、無試験先着順で受けつけているそうだ。
決して初めから優秀な子どもたちのみを選んでいるわけではないのだ。

彼の著書「強育論」の中にこんな記述がある。
「聞くは一生の損」
「人に質問して説明を受け、わかったような気になった問題は「済」の引き出しに入るので、頭はそれ以上その問題について考えようとはし」なくなる。
いくら考えても解けない問題は「未済」の引き出しに入り、頭の隅で常に考えているので、ある時ふとその答がひらめくと言うのだ。
だから「頭の中を疑問符でいっぱいにする」ことが大切だと説いている。

これには全面的に賛成である。
ちょっと考えてわからないからすぐに人に聞くとか答を見るという学習ばかりを続けていては、いくら勉強しても思考力は養われない。
考えて考えて考え抜いて、それでもわからない問題を抱え続けるという体験を多くの子どもにしてほしいと思う。

一般的に、質問をたくさんすることがよいこと、そしてその質問にたくさん答えてくれる先生がよい先生という誤解があるように感じる。
学習している内容が全くわかっていなければ質問のしようがない。
質問が出るというのは理解が深まり、さらにそのことを知りたいという積極的な姿勢の現れであろう。
だから上記のような思い込みが生まれるのだ。

学習の過程で疑問が生まれるのは当たり前である。
何の疑問もなく教わったことを丸飲みするよりは、ずっと好ましいことである。
常になぜ?だから?などと問う姿勢を持ち続けてもらいたい。
ただ、だからこそ、その疑問を大事にしてほしいのである。
正解をすぐ知るよりも、的外れでもいいから自分なりに考えて自分なりの答を出してほしいのだ。

もちろん疑問のレベルにもよる。
基礎にあたる部分で疑問だらけでは一向に進めない。
基本的な問題に関しては十分な理解ができるまで、ある程度助け船を出してあげることも必要かも知れない。

宮本氏の塾は質問は一切禁止だそうである。
私はとてもそこまでは徹底できないだろうが、質問に対してはできるだけ自分で考えさせるような受け答えをするよう心がけたいと思う。

もっとも、今は人に聞かなくてもネットで検索をかければたちどころに答が得られる。
これなら「一時の恥」もかかなくて済む。
で、そこから得た答を自分で消化することなく安易に「わかったつもり」になってしまう。
これが一番問題かも知れない....。


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指切りげんまん

2006年01月22日 | ことば・国語
私は高校の教科の中で古文が一番好きだった。
授業で「堤中納言物語」を学び、「虫めづる姫君」という毛虫が大好きなお姫様の話を読んで、教訓臭い話ばかりでなくこんな面白い作品もあるんだと古典に目覚めたのである。

百人一首はすべて覚えた。
もちろん一つ一つの歌の意味とか、修飾表現とかをきちんと理解しながら...。
これでだいぶ文法にも強くなったと思う。
古文が苦手な人にはぜひお勧めしたい学習法である。
私の場合はそれがさらに大学時代に競技かるたまで発展し、地方大会での優勝や2段取得というオマケまで付いてきたのだが...。

そんなわけで古典一般に興味があったのだが、高校時代、谷崎潤一郎を片っ端から読んでいた時期に「蓼食う虫」という小説に出会った。
細かい所は忘れてしまったが、主人公の男が文楽の娘人形に恋をするという話だったと思う。
それを読んでから一挙に文楽(人形浄瑠璃)に対する憧れが芽生えた。

市販されている近松門左衛門の作品を読み、「語り」独特のリズム、七五調の心地よさにうっとりした。
いつか本物の文楽を観に行きたいと思っていたのが、大学の時に念願叶い、初めて国立劇場で「曽根崎心中」を観た。
そしてみごとに、私も「お初」の人形に惚れてしまったのだ。
人形そのものも美しいのだが、3人で操る動き、仕草が、まるで生きているように艶っぽくなまめかしい。

それからは、ビジュアル版の文楽の本を傍らに置きながら、特にその「道行きの段」は諳(そら)んじられるまで読み込んだものである。

前置きが長くなった。
実は先日、大好きな「その時歴史が動いた」という番組で「曽根崎心中」がテーマになっていたのである。
仕事の都合でいつも再放送で見ているので、本放送より一週遅れで夜中に見た。

1時間に満たない番組だが、知らなかったことが満載で大いに満足できる内容だった。
近松が武士の身分を捨て、浄瑠璃を書くために町人になったこと。
それまで低かった作者の地位を、「作者・近松門左衛門」と台本の初めに明記することで高めたことなどなど...。

そして今日のテーマの「指切り」である。
その言葉の由来を初めて知った。
驚いた!
「指切り」の語源など考えたこともなかったが、「曽根崎心中」を通して知るとは...。

子どもが「指切りげんまん...」と小指を絡めている光景はほほえましいが、「指切り」という語は「遊女が客に愛情の不変を誓う証として、小指を切断していたことに由来」していたのである。→「語源由来辞典」
なんと、本当に指を切っていたのだ!

「げんまん」の方は「拳万」と書き、握りこぶしで1万回殴る制裁の意味だということで、こちらはまだ可愛い。
その後に続く「針千本飲ます」とともに、約束をきちんと守らせるためにあとから付け加えられたものだろうとされている。(by「語源由来辞典」)

それにしても「指切り」の由来は凄まじい。
それがいつ頃、どのようないきさつで小指を絡ませる仕草に変わったのだろう。
韓国や香港、ベトナムなどにも、約束のとき日本と同様のジェスチャーをする習慣があるようだが、そうすると大陸から伝わってきたものを血なまぐさい「指切り」の代用にしたということだろうか...。
欧米には「指切り」があるのかどうか、ご存知の方があれば教えていただきたい。


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太陽がいっぱい

2006年01月18日 | 日々雑感
前にも書きましたが、雪国に暮らしていると太陽のありがたさが身に浸みます。
冬至を過ぎてから一日ごとに陽差しが強くなってきました。
寒気のせいで屋根の雪はまだ凍ったままの所もありますが、直射日光に当たる場所は早くも春の気配が漂います。
冷えきった古民家の中より外の方がずっと暖かい...。

人間が本来持っている1日の単位は25時間だそうですね。
それを毎日1時間早める、すなわち体内時計をリセットするためには太陽の光を浴びることが必要だということです。→「体内時計のネジをまこう!」
職業柄どうしても夜型、インドア型の生活になってしまうのですが、できるだけお日様の下で過ごす時間を確保したいと思っています。

なんと言っても太陽は偉大ですね。
体内時計のことだけでなく、日を浴びることで生命力が供給される気がします。
健康にいいのはもちろんですが、気分的にも前向きに明るくなれるのが素晴らしい!
オゾンホールの影響で思いっきり日光浴もできないニュージーランドやオーストラリアの人々が気の毒です。

動物や植物だって同じこと。
私は田舎暮らしに憧れて東京からIターンで(どこが「ターン」やねん!)信州に来ました。
そして自然卵養鶏をしたくて今の町に来たのです。
鶏をケージに閉じこめずに自由に動ける土の上で飼い(=平飼い)、太陽をたっぷり浴びさせる。
餌もできるだけ素性のはっきりした材料を自家配合して与え、緑草や野菜もたくさん食べさせる。
それが自然卵養鶏です。
(今は大幅に縮小して自家用程度しか飼っていませんが...。)

都会の子どもの中には、卵もどこかの工場で作られていると思っている子もいるそうです。
その無知を笑うことは簡単ですが、実はあながち間違っているとも言えないのです。
今の日本に出回っている卵の大半は大手の養鶏業者が生産したもの。
「大手」ってどのくらいの規模だと思いますか?
1万羽飼っていても「大手」と呼ばれないんですよ!
ご存知のように、卵は何十年もほとんど価格が上昇していない物価の優等生です。
それを支えているのが薄利多売システムなんですね。

何万羽、何十万羽の飼育は平飼いでは不可能です。
6段も7段も積み重なったケージの列が何十メートルも続き、それが何列もあって一つの鶏舎で5千羽、1万羽いることも...。
病気の発生を抑えるため完全隔離された鶏舎には窓もなく、光も温度もすべて機械でコントロールされています。
給餌も集卵もすべて自動。
中枢部分を生き物がまかなっているということ以外、全自動化された工場と変わりません。

一生、太陽の光を浴びたこともそよ風に吹かれたこともない、ミミズをつついたり砂浴びをしたこともない鶏たち。
そんな鶏が産んだ卵と自然卵養鶏の卵、どちらがおいしいと思いますか?

先日、大手町だか霞ヶ関だかのビルの地下で育てた稲の収穫のニュースを見ました。
銀行の地下金庫だった広大なスペースに田を作り、人工の太陽と空調で栽培したそうです。
これも卵と同じですね。
見た目は立派な稲を、背広姿のおじさん達が刈り取っている光景を見て、「なんだかなァ」という思いを強くしました。

私は多少見てくれは悪かろうが、太陽の恵みを受けた農産物を食したいですね。
早寝早起きをし、そういう物を腹八分目に食べ、お日様の光をたっぷり浴びて働く....それが本当の人間の生活だと思います。
今のところ全然実行できていませんが...。
少なくとも「お天道様に顔向けできない」身にはならないよう、太陽がいっぱいの人生を送りたいものですね。


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