「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

業としての科学―『人間にとって科学とはなにか』

2012年01月22日 | Science
☆『人間にとって科学とはなにか』(湯川秀樹・梅棹忠夫・著、中公クラシックス)☆

  本書は1967年に中公新書として出版された対談『人間にとって科学とはなにか』をメインとし、さらにその前後に行われた対談3編が加えられている。1967年といえばいまから45年も前であり、すでに半世紀ちかくが経っている。1970年に「人類の進歩と調和」と銘打って開催された大阪万博が、そのテーマに「進歩」だけでなく「調和」を謳わなければならなかったように、戦後の高度経済成長にやや反省の色が見えはじめた時期かもしれない。自分の記憶をたどってみると、公害が日常生活に影を落としはじめた頃であったように思う。しかしそれにしても、科学技術にはまだまだ信頼や期待が寄せられていたように思われる。ところが、二人の対談者はともに科学を醒めた目で見ていることに驚かされる。冒頭の解説で佐倉統さんも書いているように、科学相対主義的なニュアンスが色濃く感じられる。
  湯川秀樹はいわずとしれた日本人初のノーベル賞受賞者であり、敗戦直後の日本人に希望を与えたと称されることもよくある。理論物理学者ながら中国の古典である老荘にも造詣が深かったことはよく知られている。一方の梅棹忠夫は生態学から出発して、その後は民族学や文化人類学の分野で名を知られた。棲み分け理論や霊長類研究で知られた今西錦司の人脈に連なり、いわゆる京都学派の雄の一人といえるであろう。二人の科学に対する醒めたスタンスの背景には、虚無的な老荘思想や文化人類学研究で培われた相対的価値観があるのかもしれないが、3.11を経たいま二人の対談を読むと、その先見性に驚かされるとともに実に新鮮な感じがする。
  科学技術について語るとき、われわれはその価値を有用性に結びつけるのが常である。いま「科学技術」と書いたが、「技術」についてはともかくも、「科学」の価値も有用性にあるのだろうか。この問いに対して、多くの人は科学については没価値的であると答えるにちがいない、少なくとも建前では。そこでは、科学は人間が本来もっている知的好奇心の発露であると捉えられている。その知的好奇心に訴えかけようとするのが、いまの科学コミュニケーション活動といえるだろう。
  ところが、二人は老荘にふれて表層的な知的好奇心に疑義を唱え、科学は人間存在の根源にかかわる知的衝動のようなもの、あるいは生殖作用の延長のようなものではないかという。人間が〈科学する〉のはやむにやまれぬ衝動に突き動かされているからだという。この捉え方はとくに梅棹の考えに強くでているが、湯川も当為性は科学から出てくるものではないと受けている。もちろん、湯川の言葉は―もとをたどれば梅棹の考えも―科学が社会的に価値中立であるといった一般的な意味を超えている。
  人間は〈科学する〉ことをやめられない。しかし、科学は人間から生れ出たものではあるが、科学は人間を離れ、客観化していく性質を強くもっている。そういった科学の性質に価値を付与したのが〈近代〉といえるであろう。客観主義的な合理的精神が〈近代〉を支えていることはいうまでもない。ところが、合理的精神は世界をすべて理解した(できる)かのような錯覚をわれわれに与えるが、科学が進めば進むほど、非科学的(非合理的)な言説がはびこるように思われる。光が強ければ影もまた濃くなるということだろうか。
  人間はけっして合理的な存在ではない。むしろ、佐倉さんも指摘するように、非合理的な思考は人間にとって生得的な特性のように思われる。それでも人間は、これからも〈科学する〉ことはやめられないだろう。対談「科学と文化」で梅棹がいっているように、科学は人間にとって業のようなものなのである。科学が業であるならば、その視点に立って科学を見直すときが、いま来ているのではないだろうか。
  少し具体的なことをいえば、これまで科学が非人間的な方向へと進んでいった歴史を顧みて、科学を人間へと引き戻す試みがなされるべきだろう。合理性に偏った認識をあらため非合理性へも目を向け、非合理性について再評価することや、理性と感性との調和を考慮して、具体的な活動が企図されること期待したい。いわゆる欠如モデルですむ話ではもちろんない。まだまだ抽象論ではあるが、科学コミュニケーションもこのような視点から再構築されるべきだろう。
  本書を読むと、二人の知的巨人の対談から示唆されることや、後世を生きるわれわれが引き継ぐべき課題も数多いように思われる。一方で、個人的には懐かしさを感じた部分も少なくなかった。恥ずかしながら自分の能力も省みずに京大進学を夢見たのは、湯川と、わが国2番目のノーベル賞受賞者であり、やはり京大出身の朝永振一郎に憧れたからに他ならない。湯川以降、かなりの期間、日本の科学部門のノーベル賞受賞者は京大出身や京大関係者が多かった。そのため、物理学志望にかぎらず、京大進学を夢見る中高生は少なくなかったように思う。
  節操のない話だが、一時期文化人類学に憧れたこともあり、そのとき自分の頭上に輝いていたのは梅棹であった。梅棹が初代館長を務めた大阪の国立民族学博物館にもたしか2度訪れ、数年間博物館の友の会会員でもあった。梅棹もまた京大出身であったことから、京大は、自分にとって神格化された存在に近かった。しかし、実際に京都を訪れるとイヤな経験ばかりをし、京都の人には失礼ながら、京都人の冷たさに辟易としとこともある。そんな思い出を繰りながら対談「現代を生きること―古都に住みついて」を読むと、科学の話題を離れても、なかなか興味深かった。京都人の心性の一端が知れたように思う。科学を業として捉えるという発想も、「超俗の世界」をよしとする京都人ならではかもしれない。いずれにしても、京大や京都への憧れは、今は昔のことである。

  

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