「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『恋の蛍 山崎富栄と太宰治―第3回 銃後の妻』

2009年05月07日 | Yuko Matsumoto, Ms.
『恋の蛍 山崎富栄と太宰治―第3回 銃後の妻』(松本侑子・著、光文社『小説宝石』2009年5月号掲載)

  「銃後の妻」あるいは「銃後の守り」といった言葉が美談として語られた時代がかつて日本にあった。戦争は戦闘員のみを殺傷するわけではない。その背後にいる多くの人たちをも傷つける。親子、兄弟姉妹、夫婦、恋人や友人たちの絆を断ち切る。お互い見初め合って結ばれた山崎富栄と奥名修一も戦争によって切り裂かれていく。富栄が「戦争花嫁」であり、やがて「戦争未亡人」となったことが太宰との恋に向かわせたのだとしても、それは後世から見た話である。当時の富栄と夫・修一にとって戦争は残酷な仕打ちをする災厄だったはずだ。
  「第3回」では、二人が結婚式を挙げ、修一が商社員としてマニラへ旅立つまでの一週間あまりの日々が情愛豊かに描かれている。さらに富栄を想いながらもマニラへと赴任した修一と、日本で修一を気遣う富栄の心情が、取材をもとにして丹念に綴られていく。やがて修一は召集され、富栄は文字どおり「銃後の妻」となる。「銃後の妻」とは、当時の社会が夫を戦争に取られた妻を納得させるために送った称号のようなものに思える。富栄が「銃後の妻」に納得しているようには思えないが、時代が冠した美名に隠れて多くの悲哀が存在したことを忘れてはならないだろう。
  修一が勤務していた旧三井物産の描写もまた興味深い。当時アジアだけでも多くの支店があり、何十名もの支店員が働いていたという。マニラ支店が取り扱っていた品目も書かれているが、現在とはやはり異なるのだろうか。修一がマニラへと渡ったのは昭和19年12月である。日本ではすでに食糧難だったと思われるが、マニラ支店の歓迎会では日本とは比較にならない豪勢な食品が並べられている。このような細かな描写は、付随情報というよりは物語にふくらみを与える貴重な情報であり、まさしく取材の賜物というべきだろう。「ときどき思い出し日記」によると、松本侑子さんはゴールデンウィークを利用してフィリピンを旅されたという。その取材の成果が次号以降にどのように反映されるのだろうか。大いに期待したいと思う。

☆『恋の蛍 山崎富栄と太宰治―第2回 花嫁』の感想はこちら



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