☆『働くことがイヤな人のための本』(中島義道・著、新潮文庫)☆
働くことがイヤになる。なぜか。働くことに意味を見出せないから。これがもっとも根源的な理由だ。人は例外なく必ず死ぬ。必ず死ぬとわかっていながら、人はなぜあくせくと働くのか。この社会のなかではお金を稼がなくては生きていけないから、すなわち賃労働が必要不可欠だからだ。しかし、多くの人たちは経済的な理由だけで働いているわけではあるまい。経済的な理由以上に、仕事に生きがいを求めているのだろうと思う。サラリーマンならば自分の仕事が何らかのかたちで社会の役に立っているという実感、作家や芸術家ならば自己を表現することで社会に認められたいという気持ちが仕事を支えているはずだ。
ところが世の中はそう甘くはない。やりたくもない雑用ばかり押し付けられ、自分の能力は“正当に”評価されず、人間関係の軋みに悩み、身体もこころも疲れ果てていく。さらに悪いことには、成功したものはさらに成功を重ね、成功にありつけなかったものはさらに下へと落ちていく。何度かふれたことのあるマタイ効果である。持てるものはますます富み、持たざるものはますます貧する。この理不尽をいくら嘆いても、周囲は愚痴としか受け取らない。まじめに頑張っていればいつかは良いことがある、などど無責任なことを言って口を濁すだけだ。書店に行けば、こうすれば仕事がうまくいく、あなたもきっと幸せになれるといった成功譚があふれている。しかし、成功者をまねたところで成功するはずがないことは、本当はよくわかっているのだ。かくして、慰めのためだけにこの種の本が消費されていく。
自己を表現することに賭けた人たちは、不遇をくぐりぬけて世に認められた作家や芸術家を夢に描く。しかし、それはほんのひとにぎりの人たちであり、その陰に不遇のまま誰に知られることもなく世を去っていった、膨大な表現者たちのことを忘れようとしている。表現能力の評価の正当性など誰にもわからず、運不運が両者を分けたのかもしれない。この理不尽に自己は引き裂かれ、表現は恨みへと変貌していく。
こうして人は働くことがイヤになっていく。仕事から降りたいと願うようになる。生きがいとしての仕事などはなから望んでいなかったかのように、賃労働としての仕事をルーチンワークとしてこなしていく。まだ働いたことのない若者ならば、このような仕事の様相をするどい嗅覚で察知して、部屋に引きこもり社会への通路を自ら閉ざすことにもなる。理不尽さに目をつむり、ほんの僅かな成功を収めた(と思えることに成功した)人たちは、それをかけがえのない宝物のように胸に抱き、安らかな死を迎えようとする。
しかし、死は究極の理不尽である。多くのものを獲得した成功者であっても、世間的に何も得られることができなかった人も、死の向こう側には何一つ持っていくことはできない。脳裏に刻まれた此岸の記憶も彼岸では無と帰する。此岸の人たちの脳裏に刻まれた自分という人間の記憶も、いずれ彼岸へと却っていく。仕事に生きがいを求めて働きはじめても、いずれどこかで理不尽に突き当たる。理不尽に突き当たったとき、働くことがイヤになる。だからといって、理不尽から目をそむけ、自らを欺いても何の解決にもならない。理不尽を引き受けることでしか、自らを全うすることはできない。死という究極の理不尽を迎える前に、いまこの理不尽を引き受けることが死の準備となる。仕事の究極の価値はそこにあると思う。
わたしは本書をこのように読んだ。中島義道さんの専門的(哲学的)著作はともかくとして、一般向けの書物を自虐的と評する人は少なくない。たしかにそのような面はあると思うし、隅々まで納得することはできないものの、一つの本質を突いていると思う。本書もまた然りである。ある種の壁に突き当たっているいま、少なからず勇気をもらった気がする。
最後に、斉藤美奈子さんが「解説」で、食うことに困らなくなった成熟社会ならではの「お悩み相談」本と評しているが、必ずしもそうは思わない。米やパンを手に入れることに奔走している社会では、仕事があるだけでも幸せというべきだろう。しかし、仕事の意味が賃労働だけに限らないとすれば、仕事の意味を問う哲学的な悩みはあったのではないだろうか。食うことの確保は第一義的である。食うことが確保できなければ、哲学的“研究”はできないかもしれないが、食うことが確保できなかったとしても、哲学的な悩みは現としてあったと思う。終戦直後の空腹をかかえた人たちのなかにも、市井の哲学者は少なからずいたにちがいない。
働くことがイヤになる。なぜか。働くことに意味を見出せないから。これがもっとも根源的な理由だ。人は例外なく必ず死ぬ。必ず死ぬとわかっていながら、人はなぜあくせくと働くのか。この社会のなかではお金を稼がなくては生きていけないから、すなわち賃労働が必要不可欠だからだ。しかし、多くの人たちは経済的な理由だけで働いているわけではあるまい。経済的な理由以上に、仕事に生きがいを求めているのだろうと思う。サラリーマンならば自分の仕事が何らかのかたちで社会の役に立っているという実感、作家や芸術家ならば自己を表現することで社会に認められたいという気持ちが仕事を支えているはずだ。
ところが世の中はそう甘くはない。やりたくもない雑用ばかり押し付けられ、自分の能力は“正当に”評価されず、人間関係の軋みに悩み、身体もこころも疲れ果てていく。さらに悪いことには、成功したものはさらに成功を重ね、成功にありつけなかったものはさらに下へと落ちていく。何度かふれたことのあるマタイ効果である。持てるものはますます富み、持たざるものはますます貧する。この理不尽をいくら嘆いても、周囲は愚痴としか受け取らない。まじめに頑張っていればいつかは良いことがある、などど無責任なことを言って口を濁すだけだ。書店に行けば、こうすれば仕事がうまくいく、あなたもきっと幸せになれるといった成功譚があふれている。しかし、成功者をまねたところで成功するはずがないことは、本当はよくわかっているのだ。かくして、慰めのためだけにこの種の本が消費されていく。
自己を表現することに賭けた人たちは、不遇をくぐりぬけて世に認められた作家や芸術家を夢に描く。しかし、それはほんのひとにぎりの人たちであり、その陰に不遇のまま誰に知られることもなく世を去っていった、膨大な表現者たちのことを忘れようとしている。表現能力の評価の正当性など誰にもわからず、運不運が両者を分けたのかもしれない。この理不尽に自己は引き裂かれ、表現は恨みへと変貌していく。
こうして人は働くことがイヤになっていく。仕事から降りたいと願うようになる。生きがいとしての仕事などはなから望んでいなかったかのように、賃労働としての仕事をルーチンワークとしてこなしていく。まだ働いたことのない若者ならば、このような仕事の様相をするどい嗅覚で察知して、部屋に引きこもり社会への通路を自ら閉ざすことにもなる。理不尽さに目をつむり、ほんの僅かな成功を収めた(と思えることに成功した)人たちは、それをかけがえのない宝物のように胸に抱き、安らかな死を迎えようとする。
しかし、死は究極の理不尽である。多くのものを獲得した成功者であっても、世間的に何も得られることができなかった人も、死の向こう側には何一つ持っていくことはできない。脳裏に刻まれた此岸の記憶も彼岸では無と帰する。此岸の人たちの脳裏に刻まれた自分という人間の記憶も、いずれ彼岸へと却っていく。仕事に生きがいを求めて働きはじめても、いずれどこかで理不尽に突き当たる。理不尽に突き当たったとき、働くことがイヤになる。だからといって、理不尽から目をそむけ、自らを欺いても何の解決にもならない。理不尽を引き受けることでしか、自らを全うすることはできない。死という究極の理不尽を迎える前に、いまこの理不尽を引き受けることが死の準備となる。仕事の究極の価値はそこにあると思う。
わたしは本書をこのように読んだ。中島義道さんの専門的(哲学的)著作はともかくとして、一般向けの書物を自虐的と評する人は少なくない。たしかにそのような面はあると思うし、隅々まで納得することはできないものの、一つの本質を突いていると思う。本書もまた然りである。ある種の壁に突き当たっているいま、少なからず勇気をもらった気がする。
最後に、斉藤美奈子さんが「解説」で、食うことに困らなくなった成熟社会ならではの「お悩み相談」本と評しているが、必ずしもそうは思わない。米やパンを手に入れることに奔走している社会では、仕事があるだけでも幸せというべきだろう。しかし、仕事の意味が賃労働だけに限らないとすれば、仕事の意味を問う哲学的な悩みはあったのではないだろうか。食うことの確保は第一義的である。食うことが確保できなければ、哲学的“研究”はできないかもしれないが、食うことが確保できなかったとしても、哲学的な悩みは現としてあったと思う。終戦直後の空腹をかかえた人たちのなかにも、市井の哲学者は少なからずいたにちがいない。