「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『母に歌う子守唄』

2008年06月12日 | Life
『母に歌う子守唄』(落合恵子・著、朝日文庫)
  介護は、介護する側の人間一人の介護に直接関わる身体的、精神的なつらさだけではすまないことがある。家族で介護していると、家族一人ひとりの思惑や家族間の軋轢が絡んできて、介護のつらさを増幅させる。親の介護はいつか来る日と思いそれなりに覚悟はしていたつもりだが、いざ現実のものとなってみると、介護そのものの疲れに加えて、家族間の感情の行きちがいが表面化し、その調整や意思統一にも心身をすりへらし、いま介護疲労の倍化を身をもって経験しているところだ。そんなとき、落合恵子さんの『母に歌う子守唄』を読んだ。落合さんとお母様は母一人子一人のご家族である。ひとりっ子の介護は、それはそれで大変にちがいないのだが、落合さんとお母様の密な関係が、それが介護する側とされる側という非日常的な関係であっても、とてもうらやましく思えた。落合さんは、「わたしがすべてを決めなければならない」という追いつめられた気分から「わたしが決める」という通過駅を経て、「わたしが決めればいいのだ」という心の着地を一度体験してしまうと思いのほか気持は軽くなる、という。その「わたしが決めればいいのだ」という心の着地がとてもうらやましく思えるのだ。家族がいると「船頭多くして船山に上る」のごとく、主役であるはずの介護される側の人間をとんでもないところへ連れて行ってしまうのではないかと思うこともあるのだ。血縁関係の価値を全否定するつもりはないが、血縁がうとましく思うことがあるのも事実だ。だから、落合さんの血縁を超えた結縁(けちえん)の考え方に、これまた一も二もなく賛同したくなる。
  まだ始まったばかりだが、実際に介護を体験した者にとっては、励みや慰めになる言葉が本書には散りばめられている。よく「一喜一憂」というが、一つ分の憂いがあれば、やがて憂いと同じ一つ分の喜びがやってくるにちがいないと受け取ることができる。しかし、実際には一つ分の憂いの後にやってくる喜びは、一つ分の憂いの数分の一あるいは数十分の一のような気がする。落合さんは「過剰に期待するなよ。期待し過ぎると、どーんと落ち込むぞ」とご自分に言い聞かせているという。さらに「うまくいかないときはできるだけ楽観的に、うまくいっているときはもっともっと、と膨らむ期待に少々ブレーキをかける」と。また、介護は「ホッ」と「バタバタ」の連続であり、バタバタが八割で残り二割の「ホッ」を支えに、今日を明日に繋いでいるとも。「頑張らない」という言葉に救われ、けれどもやはり「頑張らざるを得ない」のが介護の現実だとの言葉は、いまの自分にとっては実感として心に迫ってくる。
  長らく幅広い人権問題に関わってきた落合さんならではの、医療に関わるセクショナリズムやパターナリズム批判も鋭い。実際に自分もまた母親の医療に関係して病院のセクショナリズムに苦しめられた。いうまでもなく、医師の背後にパターナリズムの影を見たことも一度や二度ではない。もともと母親は周囲に気兼ねをし、波風の立てることを好まない性格だった。しかし、いまや「お医者様」任せでは患者の人権や生命が必ずしも守られない現実がある。だから、患者は「うるさい患者」に、患者の家族は「うるさい家族」にならなければならない。いま母親が「うるさい患者」になれない以上、息子である自分が「うるさい家族」になって母親の人権や生命を守ってやらねばならない。それは言葉の中にではなく行動の中にこそある。今回の介護を通じて自分の人権意識や行動が試されることになるようにも思う。そのとき、落合さんのこの本は自分にとって「子守唄」ならぬ「応援歌」になってくれるにちがいない。

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