「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

カツマー vs カヤマー

2009年10月11日 | Life
☆「対談 勝間和代×香山リカ」(『AERA '09.10.12号』―朝日新聞出版―所収)☆

  週刊「AERA」は駅の売店などでよく立ち読みをする。先週号のウリは「勝間和代×香山リカ」の対談。早速立ち読みしたが、あまり時間もなかったので久しぶりに購入。知ってのとおり、勝間さんはいま若いビジネスマン・ビジネスウーマンにとってカリスマ的存在であり、著書も次々にヒットしている。一方で香山さんが「〈勝間和代〉を目指さない」と書いた『しがみつかない生き方』も30万部を売り上げたという。
  二人の対談は「ご飯」から始まる。勝間さんはおいしいご飯が大好きで、そのためにはそこそこの経済力やスキルが必要だという。香山さんはそこまで努力しなくても、コンビニ弁当で十分幸せだと応じる。勝間さんは、自己研鑽によって自分が幸せになると同時に他者の役立つ人間になることを目指す。そうすることによって他者から感謝や場合によっては金銭を受け取り幸せになると説く。しかし、自己研鑽や努力は必然的に「勝ち組」と「負け組」をつくる。だから、「いろいろな人生」を肯定し、「そこそこの人生」で満足することがむしろ幸せである。香山さんの反論というか、考え方の趣旨はこういうことだろう。
  ところが、勝間さん自身は「頑張り至上主義」ではなく、むしろ頑張らなくてもよい方法を探しているのだという。ならば、勝間さんの著書は「誤読」されているのではないかと香山さん。思うに、「誤読」をどう解釈するかにもよるが、頑張らなくてもよい方法を探す、あるいは身に付けること自体に頑張ってしまっている人が多いのではないか。勝間さんが百点満点を目指したり推奨しているのではないとしても、満点を目指すことによって幸せを手に入れられると「誤読」させる仕組みが社会にはあるのだろう。努力によって人間や社会が進歩(いまふうにいえば「進化」)すると喧伝するのが現代社会である。
  脱落者のセーフティーネットとして、勝間さんは機会均等と教育(「思いやり」の教育)を挙げる。勝間さんは基本的に利他行動(思いやり)やヒューマニズムを信じているように見える。しかし、道を聞かれて教えたとき「ありがとう」と言ってくれる報酬も必要だという。香山さんも指摘するように「思いやり」と報酬は矛盾しないのだろうか。また、「思いやりは当たり前」と言える人は生活が安定していたり自己を肯定できる人なのではないか、という香山さんの指摘は鋭いというか、わが意を得たりの感がした。
  ヒューマニズムに対して懐疑的だという香山さんに対して、一人でも多くの人が利他行動を取れるようにするのが教育や政治の役割だと勝間さんはいう。たしかに教育や政治には期待したいと思うが、勝間さんの考えは少し理想主義的あるいは牧歌的な感じがしないでもない。勝間さんの本はたった2冊しか読んでいない。対して香山さんの方は、数えてみたことはないが、たぶん10数冊は読んでいると思う。だからという訳でもないが、カツマー(勝間和代ファンあるいはシンパ(←死語?))から見れば、自分の考えはそれこそ「誤読」していると思われるかもしれない。
  勝間さんの考えが努力至上主義あるいは進歩至上主義の社会のもとで「誤読」されているとしたら、「誤読」を誘発する社会そのものに問題があるのは前述したところだ。だからといって、努力や進歩がすべて否定されるべきものではないし、無価値なものでもない。本来、努力や進歩という行動自体は好奇心と同様に生物としての人間性に付与された性質なのではないかと思う。ところが、努力や進歩が言葉として、ある特定の社会である特定の意味を付与されたり、特権化されたときにこそ問題が生じるのだろう。香山さんの「そこそこの生き方」は、努力や進歩が特権化されない時代からそもそも存在していたように思える。
  ところが、勝間的な生き方が特権化され、そこから脱落した者を救うセーフティーネットの役割を、香山的な生き方が担わされているように思う。いま香山的な生き方にも光が当てられているとするならば、勝間的な生き方を通過してきたからこそという面もあるにちがいない。その意味でも、香山的な生き方は勝間的な生き方を包括しているともいえるように思う。勝間的な生き方は一種の麻薬のようなもので、なかなかやめられず、気がつけばボロボロになっている(例えば鬱とか)。麻薬も使いようによっては役に立つように、問題は勝間的な生き方を香山的な生き方の中でどのように位置付けるかなのではないか。
  香山さんの弟が対談の話を聞いて「日経vs東スポ」と言ったそうだ。言い得て妙である。日経も東スポもほとんど読んだことはないが、そのものではないがカツマーとカヤマーに重ねたイメージが目に浮かぶ。朝の電車で吊革につかまりながら日経に目を走らす輩は、どうもムシが好かない。スーツをビシッと決めて日本経済はオレが背負っているみたいに見えてくる。もちろん偏見を通り越してイチャモン以外の何物でもない。暗闇の車窓に疲れた顔が映る頃になると、今度は幅を利かすのが東スポだ。センセーショナルな見出しや風俗情報を眺めるオヤジたちの目はどこかうつろだ。哀愁漂うといえば聞こえがいいが、抜け殻のようにも見えてくる。
  生きていくためには、たぶん日経も東スポも必要なのだ。ただ個人的には、日経には東スポの存在を忘れてほしくないし、東スポの読者(あえて付言しておくが、男性だけを念頭においている訳ではなく、女性にとっての「東スポ」的なものを含んでいる)も望めば日経へと再帰できる道もあってしかるべきである。結局のところ、いろいろな生き方が許容される世の中こそがもっとも幸せなのだろうと思う。
  

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