或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

今更「エヴァQ」について(追記有り)

2013-11-22 17:02:04 | 日記
宇多田ヒカルさんの「桜流し」を久々に聴いてみて、

何か、今の自分にも共通項があるし、

元々、見てた時にも共通項はあったし、

「原始仏教」を読んでて感ずるところもあるし、

「ヱヴァ:Q」に抱いてた、

「全く救いのないシンジが可哀想すぎる」という感想が、

一寸変化したような気がする。


また見てみようかな。印象が変わると思う。



ちなみにエントリタイトルが「エ」のままなのは、

以前実験した結果、HTMLで表示する特殊文字は、

この本文でしか表示できなかったため。余談。

(追記)

上記の余談は、奇しくも一年前に「ヱヴァQ」について書かれた私自身のエントリによって、

否定されました。(エヴァ的には、「否決されました」の方がいいかな?)

ホントは書く必要もないんやろうけどね(追記有り)

2013-11-21 01:05:14 | 日記
瞋恚はおさまった。だから、

書く必要なんて、どこにもないんやろうけどね。

あの時点でも、ちゃんと、「瞋恚」、と確認できていて、

「貪瞋癡」、という三毒である事は分かっていたわけやし。

一応、収束する時間が短くなってきた気がする。全てに於いて。

病気の症状もね。

でもまぁ、「異常性」、が発現することに変わりはないわけで。

一般生活でも、精神病由来にしても。だから、

「障害者」、なわけで。

まだまだそこは変わりない、というか、変われない、というか。



あと、神田橋さん、という精神科医がいる。

この方の著書の中にもあるが、


「精神病」=「精神」「こころ」の病気、


と捉えがちになってしまうのは、間違い、とのこと。

正しくは、


「精神病」=「脳」の病気、


とのこと。

他の臓器の病人と、何の変りもない、

単に、「脳」、という臓器の病変を抱えている、

というだけ。


「こころ」、

というものの捉え方が、どうしても、

「特別扱い」、

されてしまっているのが、おかしい、と。

腎臓病で、人工透析が生きていくために必要なように、

糖尿病で、食餌制限や、各種の薬が必要なように、

骨折で、「寛解」のため、患部を正しく接合させるためにギプスで固定し、リハビリするように、

「精神病」と呼ばれているものは、単に、「脳」という臓器の病気であって、

薬といったものが必要となり、

「脳」という臓器の治療法としての、心理療法や、リハビリが必要であり、

「寛解」がその目指すところ、だと言える。


仏教ではどうとらえているか。

それほど通暁しているわけではないし、

「こころ」をどうとらえているのか、

一般社会と同じなのか、時代的に変わりはないのか、

そういったところまでは、ちゃんと知っているわけではないが、

基本中の基本、というところの、

「六根」、

は知っている。

これは意外と知っている人も多い、と思う。

あるいは、そうとは知らずに、頭の中に入っている人が多いかもしれない。

六根とは人間を構成するものであり、よく、

「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら霊山などを登る人も多いだろう。

よく読誦や写経される「般若心経」にも出てくる。

この「六根」とは、人間に迷いを生じさせる、感覚器官や意識、の総称である。

「眼耳鼻舌身意」がそのすべて。

視覚器官、聴覚器官、嗅覚器官、味覚器官、触覚器官、などと並んで、

意識・精神作用も同列に挙げられている。

ここに私は、仏教では、「精神病」も、俗説的な、

「業」ではなく、「六根のうちの一つの不調」、

と捉えられている、と考えている。


ただまぁ、「差別しやすい」から、「差別する」人間たちが多いだけで、

本当のところは、一年前に書いた、「被差別民」と同じように、

何のいわれもない「差別」である。他の「病気」と同じく、

単に、「一つの臓器」が不調なだけなのだから。


ちょっと精神病論の梗概のようになってしまったが、

別に論文とかを、書くつもりはない。


ただ一つ言えることは、「瞋恚がおさまった」ということだけ。

ただ、あのオバハンには、ちょっと対抗措置をとるかもしれないけどね。

実際には、最近、私への接客としてのレジにさえ、

出てこなくなってはいるが。

別にこれ以上責める気はない。ちょっと私の気が済むまで、

「対抗措置」、

をとるだけのこと。



これにて、一件落着。


(追記)

「統合失調症」については、ウィキペディアに詳しい。

しかも、どんどん内容が充実していっている。

意外と私がその一因になっていたりするのならば、

「広告塔的」存在意義、があると言えるのかな。


ちなみにちゃんと、私はこのブログの今のタイトルに、

「或る、」との一語を添えている。

「統合失調症患者」全員が私のようではない、との宣言でもある。

まだまだ未知の病気であり、

「十把一絡げ」、

の感がある病名なので、患者によって、様々ではある。


「差別する人」は、自分に自信がない、とか、いわゆる「負け組」だと自認している、とか、

単に、「自分の事情」で、「俺よりも下の奴らがいる」、

と決めつけて、自己満足に浸るしか、自らを肯定しえない、

まさに仏教的に言えば、「慈悲」の対象、「いつくしまれ、あわれまれる」人々、

なのだろう。

この瞋恚は書かなきゃおさまらない

2013-11-19 18:31:24 | 日記
「慈悲」に生きようと心がけてはいるものの、

やっぱり色々と「悪魔(=誘惑)」がやってくる。

度重なったらそらしんどい。前エントリのプンナのようにはなかなかいかない。

では書かせていただく。


私はカラオケで歌った。終了時刻となったので、店を後にした。

すると、突然の便意。戻ってカラオケ屋でさせてもらえるかもしれないが、

ちょっと私の性格、信条からは、出来ないこと。

それで、すぐそこのコンビニに入った。

ちゃんとお客用に提供され、女性専用のものもあるところである。

以前、使用したこともある。

その時は何も買わなかったのか、買ったのかは忘れた。

少なくとも、そのFマートでの買い物をしたことはある。

すると、逆方向から、一直線に ―


―ここまで書いて、また以前のように、今の彼女よりの電話。

落ち着いてしまった。心が和んでしまった。えぇことなんやけどね。

だから、ここでまた、止めておく。

ただ、それでもまだ書いておかねばならぬほどの思いは、書き留め、表明しておく。


まず、「その」Fマートへは、自分から買い物に行くことは、当分しない。


あと、以前の、N君への文章の構想に入っていた、H君のような店がある。

それは、Lソンであるが、家に近い。よく利用する。ただ、トイレを使ったことは一度もない。

そこの従業員が問題。

元々なんか態度が悪いし、私には悪印象しか与えてこない。

そのオバハンと、少しは若くて少しはマシな女性が会話していたのだが、

「コンビニにおける、部外者のトイレ利用について」、

がテーマであった。


「一般客には開放してないところもある(「その」Lソンではお客が使うことがあるのだが?)」、


「女性専用のところへ入っていく変態がいる(関係被害妄想でなくとも、

 上述の通り、私は、「そういう」Fマートで男女共用のところが開かないか、

 と待っていたのであるから、「見ていて私の事を誤った考えで言っているのか」と思っても、

 何ら不思議ではない、と言える)」、


こんな有様である。ここも行きたくなくなって当然であろう。

一応最初は用便したら、「あの」Fマートで夕食を買おうと思っていたし、ちゃんと品も決まっていた。

そして、「この」Lソンにもちゃんと、買いたいような品がそろっていた。

だが、そんな従業員の給料になるような売り上げを出させるようなこと自体が、

「絶対したくない」、

と思えたので、別のドラッグストアで、缶詰を買って、即席ラーメンと一緒に食べよう、

ということになった。


「この」Lソンには行きたくもないが、「コンビニエンス」であることは確かなので、

今の彼女との電話で受けた和らぎもあり、「あの」オバハンがいたら、

「すぐに退店する」、

事に決めた。少なくとも、あのオバハンが勤務している時間帯の売り上げを伸ばしたくはない。

実際、いいおばちゃんやいいおっちゃんの店員さんもいるし、

他の従業員については、別になんら「落ち度はない」と言えるだろう。

逆に言えば、「あの」オバハンには、

「落ち度があった」、

ということである。


前エントリの、「怨みに、怨みをもってして返せば、やむことはなし」、

という事は分かってはいるが、今の私には、それを行動には移せない。


「あの」オバハンがいないときだけ利用する、


という状態が、当分続くであろう。「コンビニエンス」ではない時間帯にしか行けなくなっても。



ちなみにトイレの方であるが、これは、近くの一般完全開放されている、

ある種、「公衆トイレ」とでも言ってよい、喫茶店のトイレで、用が足せた。

更に言っておけば、「あの」Lソンでの会話は、それよりもさらに後のことなのである。


「怨みには、怨み返さず、大いに楽しみ、過ごしていく」、

という前エントリは、ある意味、目標の一つ、

であると言える。

「慈悲」に生きよう

2013-11-12 23:47:42 | 日記
「ブッダの人と思想」は読了しました。

現在、「人生を考える」を読んでいるところです。

結局、「ブッダの人と思想」のまとめは書いてはいませんが、

ここはやはり、放送を見てもらうか、ご本を読んでもらうかして、

納得していただきたいものです。


今の私のスタンスは、

「慈悲」を目指している、

ところであると言えましょう。

先に標榜した「忍辱」と、「慈悲」には関係性があります。

そのあたりも、詳細はご本に委ねることといたしましょう。


「それだけではつまらぬ」、

という人も多いでしょうから、少し、

「ブッダの人と思想」からの最後の引用をして、

このエントリを終えましょう。



ブッダのお弟子さんのプンナが、「ブッダのもとで修行も円成し、

いよいよ伝道の旅へ出ようと」しているところで、

「最後の教誡をブッダにお願いし」、「官感の執着とその止滅を説いたのち」のお話です。


 プンナ「世尊よ、スナーパランタという地方があります。

     そこに定住して伝道しようと思います。」

 ブッダ「プンナよ、スナーパランタの人は凶悪である。

     しかも粗暴である。

     人々が、お前を罵り嘲ったならば、お前はどのように対処するか」

 プンナ「そのときはこのように思いましょう。

     『スナーパランタの人は皆んなよき人々である。

     なぜなら私を掌をもって打つことがないから』と」

 ブッダ「されどプンナよ、掌をもって打ったらどうするか」

 プンナ「私はこのように思いましょう。

     『スナーパランタの人々はみんな善き人々である。

     なぜなら土塊(つちくれ)をもって打つことはないから』と」

 ブッダ「土塊をもって打ったらどうするか」

 プンナ「世尊よ、スナーパランタの人は、杖をもって打つことはないと思いましょう」

 ブッダ「杖をもって打ったらどうするか」

 プンナ「スナーパランタの人は刀剣をもって打つことはなかったと」

 ブッダ「刀剣をもって打ったらどうするか」

 プンナ「もしそうなったらこのように思いましょう。

     『スナーパランタの人はみんな善き人たちである。

     鋭い刀をもって命までとろうとはしないから』と」

 ブッダ「命までも奪うようなことがあったらどうするか」

 プンナ「世尊よ、そうなりましたら私はこのように思いましょう。

     『世尊の弟子の中には苦悩のために刃物をとって死を求めるものもおります。

     私は自分で刃物をとらないで、死ぬことができる』と思いましょう」

 ブッダ「善いかな、善いかな、プンナよ、お前は自制力と安穏な心をもっている。

     お前はスナーパランタによく定着することができるだろう。

     お前のもっとも望むことをやりなさい」
                    ―南伝大蔵経『相応部経典』35-88 取意


 「じつにこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、

  ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ、息む。

  これは永遠の真理である」      ―「ダンマパダ」5


 「怨みをいだいている人々のあいだにあって、怨むことなく、

  われらは大いに楽しく生きよう。

  怨みをもっている人々のあいだにあって、怨むことなく、

  われらは暮らしていこう」      ―「ダンマパダ」197

今度はH君とO.J.さん

2013-11-08 16:42:13 | 日記
バカやってましたねー。


今日、「音楽の時間」があったんですが、私の、

「自由意思」で、

参加しませんでした。

扉を閉めても聞こえてくるのは、

H君の歌声のみ。

まぁ本文を書いてなかったので、関係者以外は、

ブログからは読み取れないでしょうけど、

あれじゃ、「クリスマス会」の「だしもの」としての、

「合唱」、

が成立しなくて、

「独唱」、

になってしまうんですがねぇ。

ちなみにN君は、一応今日のテーマから外れるので、

詳述しませんが。


で、今日のテーマですけど、

「H君とO.J.さんの、何考えてんだか、話」です。

まぁ私の関係被害妄想かも知れませんけど、聞こえよがしに、

「因果応報」、

について、小学生でもわかるように語っていたんですよねぇ。

一応、これは、仏教語で、私の方が詳しいと思うんですが?

「忍辱を決めこもう」と思っていたんですけど、

単純に、「因果律」的にしか語っていなかったので、

ホワイトボードに、

「ちなみに『因』とは仏教語で、『直接原因』という意味です。お間違えなきよう」、

とだけ、書き残すことにしました。目にする前に、誰かが消したかもしれませんが。


忍辱を決めこんだので、これ以上は止めときます。

基本的に、これ以後も、止めます。

「ブッダの人と思想」~今更ですが、私のスタンスを

2013-11-04 17:49:20 | 日記
最近は、基本的に「ブッダの人と思想」のご紹介になっているが、

ここ幾つかの、「若(バカ)者」たちへの論述を振り返ってみれば、

私の未熟さは勿論ではあるが、ご紹介している手法にも問題がある、

という事に気付いた。


やはり、「仏教の祖」としてのブッダについてのお話なのであるから、

その「悟り」、およびその背景、そこへ至るまでの道程、など、

「キモ」となる個所について、一切触れていなかったのが問題。

「若(バカ)者」にもわかるように書くべきであった。


ならばなぜそれをしなかったのか、というと、実際に、

「キモ」だからである、としか言いようがない。

全ての章について、完全にご紹介、という事をすれば、

このご本自体を手にする人が減ってしまう、と言える。

このご本を読まなくとも、私のブログを読めばわかってしまう、

ということになってしまえば、本末顚倒である。


私は、このご本、および元となった番組のご紹介をして、

出来るだけ多くの人に読んでほしい、見てみてほしい、

と思ったから始めたわけなのだから。

それでもかなり引用はしているし、恣意的、とのそしりもあるかもしれないが、

内容のご紹介もしているつもりである。


ブッダは、対機説法、という手段で伝道をした。

教えを説く相手の、資質、素質、環境、立場、思考法、などなど、

いろんな形で、それでも元となる真実は一つ、として。

だからいろんな経典が残っている。皆に同じことを言っていれば、

もっと経典の数は少なかっただろうし、理解できた人も少なく、

これほど仏教は広まらなかっただろう。

それが逆に、所依の経典を別にする様々な宗派が立ってしまった原因なのではあるが。

単純に、「家の宗派」と考えずに、「自分が納得できた宗派」に属すればいいのである。

対機説法なのであるから、自分にあったものを選ぶ、というのが本来の、

仏教のどの宗派に属するのか、といったことになると思う。


ただし、このブログでご紹介しているのは、「原始仏典」を基としたものであり、

「宗教」と言えるのかどうかは読了してみるまで分からない。

少なくとも、「哲学」として、「人生訓」として、興味を持った方には、

受け取っていただけるのではないだろうか。


実際にこのブログで、仏教に興味がわいた方がいれば、幸いである。

まだまだ、若(バカ)者たち、について

2013-11-04 00:44:34 | 日記
親も悪いのかもしれない。ちゃんと躾をしていないのが、

ああいうヤカラ、

を世に送り出すことになるのだろう。


「眠られへんやろ」、

というような言葉も聞こえた。

つまり、「故意」である。

刑法上でも、民法上でも、罰せられるし、損害賠償請求の対象となる。

バカなんだな、やっぱり。


あと、こんな夜中にデカい声で数人で話をして盛り上がる、

というのも、躾がなってない。親の責任。

「私に聞こえるように、デカい声で話す」、というのも、

法律上の「故意」であり、騒音防止条例にも引っかかるかもしれない。

そんなこと、何も考えていないのであろう。

やっぱり、バカだ。


そろそろこの話題についても最後にしようと思うが、

「若(バカ)者」を、その字面上だけで判断している、

というのは確かだろう。それ以上のことには頭が働かないであろうから。

それは、「若者」をローマ字で書いて、ドイツ語読みすればわかる。

"Wakamono"。

ドイツ語を少しはかじったことのある人ならば、もうお分かりであろう。

ドイツ語では、"W"の発音は、「ヴ」である。つまり、

「ヴァカモノ」、

となる。

一般的に、「ヴ」の代用発音とされるのは、「ブ」である。

ここまで来てわからないほどのバカではあるまい。

ドイツ語の、日本語的発音として、「ヴァカモノ」は、

「バカモノ」、

である。


そういうダブルミーニングにさえ、多分気付いてはいないだろう。

だからこその、「若(バカ)者」、なのである。「バカ」という内容をちゃんと伴っているヤカラの。

若(バカ)者たち~追記

2013-11-03 23:58:46 | 日記
書き忘れたこと。


つまりは彼らは、「インド哲学」「仏教」の否定を行っているようなものである。

そんな奴らも、死んだときには、ほとんどが、「葬式仏教徒」として、

仏教に基づいた葬式を行う。


仏教の守るべきものとしての、「戒」を、今まで自堕落に過ごしながら、

死んでから、「お布施」を包んで、「戒を受けた。戒名(法名)をもらった。これで極楽浄土へと行ける。」、

などと考えているのか?もう、「若(バカ)者」としか言いようがない。


宗教的には自由な風土である日本ではあるが、「葬式仏教徒」は多い。

「まだまだ死なへんから大丈夫」、とでも思って、好き勝手しているのであろうか。


「インド哲学」「仏教」を否定しているのか、「葬式仏教徒」として、「形式的に」受け入れているのか、

あやふやである。これが日本人なのか?お前らこそ、「エイリアン」ではないのか?


そういう生活を送っているのなら、これから、誰の「仏教式」葬式、法事、施餓鬼、供養、お寺参り、などなど、

一切かかわる資格はない。


「宗教があやふやな国」日本。仕方がないのか?このような若(バカ)者たちがはびこっても。

若(バカ)者たち

2013-11-03 23:39:50 | 日記
私にはまだまだ執着があり、なかなか我執からは抜け出せないようである。

こうしてブログに書くのも、煩悩の表れであるとは分かっているが、

「受想行識」が思うようにはいかず、いわゆる、「苦」の状態にある。

だが、若(バカ)者たちは、もっと深刻な、気付きもしない、

指摘もされない、「精神的な病」という「苦」を抱えたまま、

その場限りに、享楽的に、自堕落に過ごしているようである。


第六章読了に於いて、少しは、そういった相手への、

「憐み」、

を抱くようにはなったが。

彼らが歳を重ねたときに気付くのか、死ぬまで今のままなのかはわからないが。


いつものように、騒いでいるものたちがいたが、やはり、

「私への攻撃」、

が、

「的外れ」、

であることにも気づいていないのであろう。


このブログも始めて何年か経つが、流石に全てを読んでいる人は少ないであろう。

だからこその、

「的外れ」、

な言葉となって、私に、彼らへの、

「憐み」、

を感じさせているのだろう。


とりあえず、「はっきり聞こえていないし、聞こえた言葉にも、大して影響は受けていない」、

のではあるが、一応、以前に書いたことの繰り返しになるが、

若(バカ)者たちへ、「最新のことにしか飛びつかない」、という特性に対して、

ここに記しておこう、と思う。


「エイリアン」という言葉を発していた。

以前書いたように、アメリカでは昔、外国人入管者の場所に、

「Alien(エイリアン)」、

と書かれていた。

これは、原語では、法律用語など、かたい使い方では、

「外国の」とか、「外国人」を表すのである。

そこからの派生として、

「地球外の」とか、「宇宙人」という意味に、

一般的には使われるようになった。

それによって、アメリカの入管でも、「Alien」という語は使わなくなった、

と聞く。

このような基礎知識もないまま、日本語となってしまった、

「外来語」を使っているのである。

だから逆に、私は、若(バカ)者たちを、

「バカ?」、

と直接的に思ったり、

「憐れな者たち」、

と、少しは「慈悲」に近く感ずるようになった。


やはり日本の教育は、「レベルが低い」のであろうか。

情操教育自体がなっていないのだと思う。

こんな者たちがそのまま育てば、日本は破滅するだろう。


私が言うのもなんだが、やはり、「道徳」や「修身」と言った授業を、

「ちゃんとそういう者たちの心の中に育てさせる」、

ということが、今、必要なのだろう。


「最新のことにしか興味がない」という若(バカ)者たちは、

インド哲学、と言える「仏教」のことをほとんど知らないのだろうし、

昔のように、習いもしてないか、身に修めることすらしていないのだろう。


まぁ、このような者たちの事に執着するのも、どんどんと減っていくだろう。

「若(バカ)者」と言われたくなければ、ちゃんと自分の身を律しなさい。

「言われても構わん」というのなら、勝手にアウトローになるか、

「こころが欠けた」大人になって、あとで苦労すればよい。

既に彼らは、自分で気が付かない、「苦」を内包しているのだから。

「ブッダの人と思想」~第六章”一切にわがものなし”~その2

2013-11-03 20:55:36 | 日記
第六章を通読することによって、身につまされ、

「痛いところをつかれている」、と感じました。

私自身もそうですが、近所の人々、思惑のある人、

そして普遍的に、全人類にとって、

「人間本来のあるべき姿、或いは目指すべきところ」、

が示されているように思います。


ちょっと引用が多くなりますが、原始経典で示されていたことが、

今でも十分に通用することを知っていただきたく、抜粋して締めようと思います。



 「自己を制して悪をなさず、若いときでも中年でも、

  聖者は自己を制している。

  かれは他人に悩まされることなく、

  また何ぴとをも悩まさない。

  もろもろの賢者は、かれを<聖者>であると知る。」

                 ―「スッタニパータ」216


 「明らかな知慧のない人には精神の安定統一がない。

  精神の安定統一がない人には明らかな知慧がない。

  精神の安定と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、

  すでに安らぎ(ニルヴァーナ)の近くにいる。」

                 ―「ダンマパダ」372


 「戦場において百万人に勝つよりも、

  ただ一つの自己に克つ者こそ、

  じつに最上の勝利者である。」

                 ―「ダンマパダ」103


 「自己に打ち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。

  つねに行いをつつしみ、自己をととのえている人、

  ― このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、

  神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。」

                 ―「ダンマパダ」104

「ブッダの人と思想」~第六章”一切にわがものなし”

2013-11-02 23:47:10 | 日記
さっきのエントリを書いたのち、うたたねをした。

起きてみると、PCの電源は入っているのに、

ブラックアウトしていた。

ま、んなこたどうでもえぇんやけど。

別に偶発的であろうが、システムの異常であろうが、

人為的なものであろうが、別に気にはならない。

人為的なら、

「お好きにどうぞ」、

と言うだけ。


ただまぁ全てのサイトに於いて、いちいちログインし直さなければならなかったのは、

めんどくさかったけど。それだけのこと。


さて、本題に入る。


「第六章」は、まだ冒頭を読んだだけではあるが、

「実はそうだったんだ」、

と思えるようなことが書かれてあった。


仏教には、「諸法無我」、という言葉がある。

「すべての存在は実体なきものであるという存在論」(以下p.94-96)、

なのであるが、初期の、ブッダによる教えでは、

全く異なっていた、という事を知った。


「無我」でなく、「非我」、が本来のようである。

「我(アートマン)は存在しない」、というのが、「無我」であり、

全ての人間たちは、「我」という存在をもっていない、ということになる。

しかし、「非我」なら、

「我(アートマン)にあらざるもの」、

という意味になる。

ここで中村さんは、「我」を、わかりやすく捉えるために、

「自己」という言葉を用いている。

「日本においては我無の無我は、自己がすべて無くなることであるとの誤解が生じて」いる、

とのことである。


「ブッダは『自己は存在せず』と自己そのものを否定してはおりません」、とおっしゃり、

「ブッダの否定するのは、自己の所有であり、常住不変の実体であり、常住不変の自己の本質といったもの」、

と解釈されています。


私は現代仏教に疑問を持ち、初期仏教へと傾きつつあるのですが、

その端的な例が、ここにあります。


これを今日のエントリで取り上げた、ニュースフラッシュに当てれば、

「まじめそうに見えて、腹黒い」といった断定も、意味を失います。

「常住不変(いつまでも変わらない、絶対的な存在)」ではないのですから、

上述の「決めつけ」が恣意的なものであることがはっきりします。

ただ単に、「宣伝文句」としての、「下手な惹句」に過ぎないわけです。

「常住不変の自己の本質といったもの」も否定されるのですから、

「まじめそうに見えて、腹黒い」、という「常住不変」的な断定も出来なくなります。

いつだって、「千変万化」、全てはうつろいゆくものなのですから。


このように、初期仏教を知るにつれて、様々な新鮮な発見、

自己変革(もともと「千変万化」なものですが)といったことが私の中に起こっています。


興味のある方は、ぜひご一読を。他の中村元さんの著作も、

多分色々な新鮮な発見、今までの凝り固まった思考の変革、

といったものがもたらされることでしょう。

「ブッダの人と思想」~第五章”この身は泡沫のごとし”

2013-11-02 19:35:04 | 日記
一つ前のエントリへの援用として、

この章の冒頭にひかれている経典を引用する。


 「欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、

  もしも欲望をはたすことができなくなるならば、

  かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。」

                ―「スッタニパータ」767


はっきり言って、「このような人たち」を引っ掛けるのが、

「占いを生業とする者」のほとんどであり、

前述のサイトは、「裏性格判断」の看板で、「占い」をしているのである。


「自己啓発書」の方がマシ、と書いたが、

私自身にとっては、「ブッダ本来の教え」の方が比べ物にならないほど素晴らしく、

人生の指針、として正鵠を射ていると思うのであるが。

こんなんで、収益が上がるのかねぇ?(追記有り)

2013-11-02 18:40:05 | 日記
ウチのケータイのニュースフラッシュの、

「PR」で、このところずっと流されているものがある。

紹介しよう。


「まじめな外見なのに内に秘めた腹黒さ…裏性格判断」。


さて、どうお思いになったであろうか?

こんな広告に惹かれる人がいるのだろうか?

はっきり言って、

「惹句として失格」、

と思えるのだが。


(追記)

ちょっと詳述しておこう。


これは「ウェブでの占い」、

と言える代物だろう。

以前に書いたと思うが、占いとは、

「非科学的な確率統計に基づくもの」か、

「中途半端に心理テストと言われるものを援用したもの」か、

「ただの人生相談」、

のどれかである。


三つ目は、基本的に店を構えていて、色々な人生経験のある人が、

自分の体験などをベースとして、

「助言する」、

ものであり、「ウェブでの占い」には当てはまらない。


すると、上述の惹句を使っているサイトは、

「テキトーに疑似乱数でも使っている」か、

「テキトーに心理テストを用途外に使っている」か、

のどちらかであろう。


こんなものに、いちいち時間や、パケ代などを使うのならば、

まだ、「自己啓発本」の方が、「マシ」、

である。


「性格判断」でもそう言えるのに、

「裏性格判断」なんて、余計に怪しすぎる。

本気なら、「どうかしている」、としか言いようがない。

「ブッダの人と思想」~第二章”悪魔との対話”

2013-10-28 23:58:03 | 日記
このご本をお読みになればわかると思いますが、

「悪魔」とは、「煩悩」「欲望」のことです。

釈尊も、「悪魔」と闘い続けました。


「降魔成道(ごうまじょうどう)」と一般的には言われ、

「悟り」を開かれた釈尊は、「悪魔」に打ち勝ち、

そののちは伝道者として歩まれた、と言われています。


しかし、原始仏典に於いては、「降魔」ののち、「悟り」を開かれたものの、

それからも、「悪魔」はたびたびやってくるのです。

いかに人間の「煩悩」「欲望」というものが強いか、

がわかります。


釈尊でさえそうなのですから、私も含んで、皆さんの場合、

「煩悩」「欲望」に打ち負かされた日々を送っているのではないでしょうか?


ここに本文中の経典を引用して、このエントリを終えたいと思います。


 「わたくしもまた、かつて正覚を得ないボーディサッタ(さとりを得る前の仏)であったとき、

  みずからは生まれるものでありながら、生まれることがらを求め、

  みずからは老いるものでありながら、老いることがらを求め、

  みずからは病むものでありながら、病むことがらを求め、

  みずからは死ぬものでありながら、死ぬことがらを求め、

  みずからは憂えるものでありながら、憂えることがらを求め、

  みずからは汚れたものでありながら、汚れたことがらを求めていた。」

                       ―「マッジマ・ニカーヤ」

「ブッダの人と思想」を読み始めて

2013-10-27 23:17:28 | 日記
先のエントリで触れたように、

中村元さんのプログラムは、

アンコール放送(=再放送)である。


全7回、ということで、

元々全12回であった本放送から選ばれたものが放送される。


私は興を惹かれてしまったので、

「NHKから出版されてはいないのか?」と、

調べてみた。

すると、本放送をベースとした書籍が出版されている。

勿論すぐに買いに行った。

全12回だから、12章立て、であった。


第一章を読了して、やはり、というか、当然、というか、

挫けながらも、正しく生きていく、

というのが、人間として、あるべき姿、基とすべきもの、

だと身につまされた。


勿論、文中にあるように、「3歳児でも知っていること」、だが、

「80歳の老人でも、為すことは難しい」、のが、

真理、であり、あるべき、目指すべき、人間の姿、

なのである。


上述の通り、まだ第一章を読了した時点ではあるが、

章末の、経典の言葉を引用して、私が身につまされる典型、

皆さんもそうかもしれない事を、示して、このエントリを終えることにする。



「まだ悪の報いが熟していないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。

 しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。

 『その報いはわたしには来ないだろう』とおもって、悪を軽んずるな。

 水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。

 愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、

 やがてわざわいにみたされる。」

                 ―「ダンマパダ」119、121