或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

こうして書いてもらうことが目的?

2013-05-18 18:23:51 | 日記
キンチョーのCM、「コバエ」を退治するシリーズ。

「うっとうしいコバエ」、をカブトムシやクワガタが一喝する。


キンチョーのサイトでは、「みどころ」として、

「コバエさん達の見事なシャカシャカ具合を是非御覧ください。
 自分たちのうっとうしさを気付かされたコバエさんたち、これからはどうするんでしょうね?
 そういえば自分のうっとうしさに気づいてない人、みなさんの周りにもいませんか?」、

とある。

まぁ多分私なんかは「うっとうしい」だろうねぇ。少なくともウェブ上では。


確かに面白い。色々と工夫を凝らしたサイトでもある。

でも、「うっとうしいコバエ」を引き寄せた原因は?

現実世界に戻れば、単に不潔にしていたり、コバエの好きそうなものを、

ほったらかしにしていたからではないのか?

結局、購買者の自己責任ではないのか?

それを、全てコバエのせいにして、

「うっとうしい」、やらなんやら言ったところで、

何の説得力もない。


私が「うっとうしい」と断じられたとしても、

「じゃあ、あなた方に何の落ち度もありませんか?」、

と答えるだろう。


どうだ!、「うっとうしい」だろう!!!


(補足)

実は上述した文章だけでは、片手落ちなのである。

「科学的」、とまでは言えなくとも、これでは、

「一方的な視点」、でしか書かれていないからである。

本当は、「他の視点」、というものも必要である。

例えば、「全く逆の視点」。

つまり、私が、「うっとうしい」と思う側で、

周りが、「コバエ」、という視点である。

元々、その視点でのエントリも書こうと思っていたのだが、

客観的に「暇」に見えるだろう私も、

そうは思えなくても、実際には忙しいのである。

だから、「補足」、として付け加えておくだけにとどめる。

「どんな文章が書かれるはずだったのか」、

というのを、読む側の人が考えるのもまた、

一興だと思う。

今回の橋下氏の発言について

2013-05-18 09:20:55 | 日記
まず、私の情報源が、全て、テレビとウェブであることを断っておく。


今までの私の書き込みを読んだことがある人ならば、

「お、これは真っ先に、あいつが書きよるな」、

と思ったであろう。

しかし、ここまでちょっと静観しておいた。

この態度は変わらない。

ただ、そこからの持論展開、というものをしておこう、

というきっかけが、畑違いの、

昨日の「ミュージックステーション」内での発言にあったので、

こうして書いている。


今までにも書いてきたように、善悪二元論、勧善懲悪、といったものは、

わかりやすいから、悪用されやすい。あるいは、意図的に使われやすい。

そういう性質のものなので、子供への教育にも、よく考えず、安易に使われる。

しかし、本当にその感覚のまま大人になっては、ちょっと不都合なのではないか、

ということが、「Mステ」でのある子供の発言から、感じられた。


それは、昔の音楽を子供たちに聴かせて、感想を聞く、というものなのだが、

確かに子供は多感であり、発想力も大人より上ではないか、と思わされることがある。

しかし、昨日は、「悪」という言葉を使った子供がいた。

明らかに上述のような教育によって、大人にコントロールされてしまっているともいえる。

そのような子供たちや、善悪二元論や勧善懲悪を柱にした人格形成がなされ、

未だに抜けきれずに大人になってしまった人たちにとって、

今回の、「橋本発言」はどう響いたであろうか? また、橋下氏へのイメージ、理解はどうなったであろうか?


色々あったが、今までは、橋下氏と言えば、

「改革者」、

というイメージだったのではないだろうか。そしてそれは、単純に、

イコール、「善」、

とされてきたのではないだろうか。

そこにきて、今回の発言。ここでいきなり逆転してしまったのではないだろうか。

「あんな発言をする奴は、『悪』だ!」、

と。

善悪二元論に立てば、「善と悪」しかないから、いままで「善」と捉えていたものが、

「そうではなかった」となれば、当然、

「悪」、

となるだろう。そして、勧善懲悪の論理に従い、

「橋下氏は懲らしめるべき対象」、

として理解されたのではないだろうか。


今回は、橋下氏への個人攻撃というものを(私としては珍しく)、しないでおくが、

やはり、善悪二元論、勧善懲悪、といったものは、ただの方便、であって、

現在のアメリカによるイスラム諸国理解のように、

ただの政治利用のためだけに、国際社会に「自らが善」と主張したいがためだけに、

使用されるような、どちらかと言えば、「レベルが低い」、「安易に使用できる割に共感を得やすい」、

単なる「大人の勝手な手段」、に過ぎないことを、証明したのではないだろうか。