或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

いきなりすぎる、急変化、かな

2013-04-29 22:57:17 | 日記
前述のとおり、SEKAI NO OWARI(以後、「セカオワ」と表記)に、

いきなり心酔してしまったわけですが、

アルバム「EARTH」だけでなく、アルバム「ENTERTAINMENT」も聴きました。

初回盤が手に入ったので、「武道館ライブDVD」も見れました。

いいです。とにかく。

おまけに、うたたねをして、見過ごしてしまった、

YouTubeの「セカオワ生配信番組」を、

ラッキーにも、アーカイブ、として見れるようにしていただいて、

これも見れました。楽しかったです。

いやぁ。ちょっと私の私生活の方向性も変わっていくんじゃないか、

と思わされました。

音楽だけでなく、私生活そのものがですよ。

あんまり言いたくないけど、「Qさま」について

2013-04-29 21:49:37 | 日記
好きなクイズ番組のうちの一つだし、

あんまり批判めいたことはしたくないのだが、

一つだけ、どうしても言いたいことがある。


「小学生で習った」、とは「大嘘」だ。


ということ。

単に今の小学生が習っている内容に準拠しているだけで、

「大人」にとっては、その年代によって、

「全く習っていない」ものや、

「変更・変化があった物事」もある。


大体、学習指導要領が変わるごとに、

昔からの学ぶべき事柄、というものはどんどん低学年へと降りていき、

新しいことがどんどんと追加される。

一体、何歳の人が小学生で習ったのか、が不明である。


更にもう一つ付け加えると、

よく出るのは漢字問題だが、

昔の人は、「旧字体」で習っている。

そのあと、「当用漢字」というものが設定される。

そして、「学習漢字」というものもある。

また、「人名用漢字」というものもある。

「当用漢字」は「常用漢字」へと変更される。

そして、3年前には「改定常用漢字表」が答申され、

詳しくは知らないが、学校においても変化があっただろう。

この各世代間で、「同じ内容」、が教えられている、

なんてことは言えないだろう。


基本的に、「番組批判」、というよりも、

「冠批判」、をしたいわけである。

「小学生の時に習っています」というようなコメントが、

「本気で言ってますか?」と思えるのである。

なぜ、「死ぬ」のか~その2

2013-04-29 13:19:33 | 日記
前のエントリでは、

「科学的には立証されているのだろうけれども」、

と書いた。

今私が持っている科学的な知識から考えてみると、


細胞には、細胞分裂の最大限度が、遺伝子に記されているという。

それに従って、もう細胞分裂できなくなった細胞は、死ぬ。

新陳代謝が出来なくなってくる。老化が進む。

重要な細胞が死ぬ前に、何らかの病気や事故などで、死ぬ。


少し古いかもしれないが、細胞には、テロメアという、

遺伝子にくっつきながら、遺伝情報は持たないものがある。

これが分裂を繰り返すたびに、だんだん短くなってくる。

そして限度が来た時、もう分裂できなくなる。


これは、「細胞死」、といえる。

そして重要な器官の細胞死が進めば、何らかの障害が起き、

個体の死に至る。


ホンマに聴きかじりなものではあるが、一応そういう知識がある。


ただ、問題なのは、

「なぜ、『死ぬ』のか」の、「なぜ」にある。

自然言語で記述していると、一般的な意味と、

専門用語上の意味、との齟齬が起きる可能性が高い。

ここでも私は不用意に、

「なぜ」、

と切り出した。

しかしもっと正しく意味を伝えるとすれば、

前エントリでも書いたように、

「なぜ『死ななければならない』のか」、

が私の本意に沿っている、と言える。

上述のような、「死」、に対する科学的見地、

であれば、正しく言えば、「なぜ」ではなく、

「どのようにして」、

が一番ぴったりとくる。

「Why」ではなく「How」、

の説明をしていたことになる。


そうすると、明らかに上述の文章では、

説明をしていない、

ということになる。


ただ、今の科学に於いては、

「老化」の研究が行われている。

そこから、

「なぜ『死ななければならない』のか」、

という問いの答えが出てくるかもしれない。


ちなみに、「言葉の違い」、の例として、

関連したものを取り上げてみるとすれば、

「寿命」「平均寿命」、

がある。

たとえば、「平均寿命は86歳です」、

と言われた場合、43歳の人は、

「もう人生の半分まで来たのか」、

などと思いがちである。

しかし、「平均寿命」という言葉は、

自然言語的なもの、の影響をずいぶんと受けている。

つまりは、「正確さ」に欠ける。

「平均寿命」と言われているものは、正確には、

「0歳時平均余命」、

のことである。

今まさに生まれた赤ちゃんの、死亡確率が、

86歳、ということを示している。

43歳の人は、

「43歳時平均余命」、

を調べなければならない。

確かこういうものは公表されている筈なので、

それほど手間はかからないと思う。

今まさに43歳の人の、余命は何年か、

ということになるが、当然、86歳以上になる。

もっと言えば、86歳の人の平均余命は、

勿論、「0年」ではない。

多分、90歳は超えるであろう。


ずいぶんと横道にそれたが、

本当のところは、宗教的な側面からも、

書いておきたかった。

勿論すべての宗教に対して造詣が深い、

と言う訳ではないので、

書かなくて正解だったかもしれない。

でも、このエントリの、

「科学性」、

といったものも、ちゃんと担保されたもの、

とは言い切れない。

ScienceとSocial science。さらには、Humanities、

といったもののごちゃまぜ、

と言えるかもしれない。

勿論、私の主観が大きな影響を及ぼしていることは当然。