或る、統合失調症患者の独り言

Version 23,31. Jeder findet Liebe im Ende. - 宇多田ヒカル(私的ドイツ語訳)

「ホンマでっかTV」批判~その2

2013-04-18 07:57:16 | 日記
あの一件以来、私は「ホンマでっかTV」を一切見ていない。

制作サイドの「バラエティ偏向」によって、科学性を失った、

と今でも思い続けているからである。


以前も書いたが、番組の最後に、

「ホンマでっか、という姿勢で見てください」、

との言い訳がある。


科学(science=自然科学)に於いては、

「反証可能性」と「自己否定の論理」、が必要とされるようだ。

ならば、いちいち「「ホンマでっか」という姿勢」を視聴者に強要する必要性はない。

元々科学はそういうものを内包しているからである。


ということは、やはり、「情報バラエティ」ではなく、

「科学バラエティ」という立場をとりたい、ということになる。


では、出演者はどうであろうか?

皆科学者である、と私は認識しているが、

時々胡散臭い人も出てくる。

似非科学臭たっぷりの人たちである。

確かに普段の出演者とは別のセットで収録されていることが多かった。


そして、出演者は皆、「○○学『評論家』」とネームプレートにある。

「○○学者」ではなく、「○○評論家」である。

これなら、似非でも、バラエティに偏向しても、何の問題もない、

という風に、逃げることができる。


そして問題は、さんまさんにもある。

皆「評論家」として出演していて、「学者」とは明言されていない。

そのような「評論家」に対して、

「その道で有名な学者さんなんやから」、

という発言を時々する。

ここに、制作サイドとさんまさんとの意思の疎通がなっていないことが、

浮き彫りになる。

確かにその道の第一人者だったりするのかもしれないが、

あくまでもこの番組中では、「評論家」として、

占い師や、マニアなども同列に出演させることがある。

明らかに、「科学ではない」。


で、さんまさんは、この番組で聞いたことを実践している

(これこそ「ホンマでっか」と言えるのであるが)ことがあると言い、

以前の発言と違っていた場合、評論家たちを非難する。

然し上述の通り、科学とは、「反証」や「自己否定」を内包する。

ちょっと、「権威に弱い」人たちの代表者のようである。


そしてまた、以前の一件に戻るのだが、

市原隼人氏の発言が突拍子もなく、「オカシイ人」扱いされた場面では、

「科学的(社会科学や人文科学を含む)な論議」がバッサリと制作サイドによって切り捨てられ、

そのような人間像を作り上げられた、と言える。

実際には哲学的な話になっていったという。

さんまさんは、それではバラエティにならん、と思い、

「オカシイ」扱いで収束させ、制作サイドは、

「自分たちにとっては必要のない部分」をバッサリと切った。


しかし、「論議」というものは、科学にとって必要なものであって、

そこを、「無かったこと」、にしてしまっては、科学ではなくなる。

だからこそ、いきなり、

「「本能」なんてありません」、

と言われることになる。

見ている方としては、完全に一方的に言い負かされているように映ったが、

実際には、「論議」、があった、ということになる。

そうでなければ、

「本能なんてない」、とは科学者である評論家も言わない。

突然、「現在では"innate"(生得的)と言うんです」、

と言うためには、科学的な話が行われていた、

と言う前提が必要になる。

なぜなら、"innate"なんて、「術語」であって、

一般には浸透もしていなければ、「生得的」なんて言葉を日常で使うこともない。

やっぱりみんな、「本能」と今でも言うだろう。

「術語」まで引っぱり出してくるほどの科学的な論議があって、

そのくせ、制作サイドによって、バッサリとカットされる番組。

そんな番組を、「科学バラエティ」とは言わないし、

「情報バラエティ」の域を出ていない。

そのくせ、何か「科学」を前面に打ち出して、権威付けのようなことを行う。


やっぱり、この番組を見る気にはなれない。

役にも立たないと思う。