深キ眠リニ現ヲミル

放浪の凡人、中庸の雑記です。
SSなど綴る事アリ。

旅2

2006年07月27日 | 小説/SS
甲府にて

 甲府ではだいたい二週間くらい滞在した。その間俺は、日雇いのバイトで汗を流したり、駅前で寂しく響かないエレキを軽くかき鳴らして、それに合わせて歌った。
 俺は少し後悔した。道でそうして引くことを想定せずに、ただ宝物のこのギターを持ってきたはいいが、どうも弾き語りなどをするにはこれは振るわない。
 活気がでない。あたりの喧騒に負けて、ただ俺の声だけが少し遠くまで届いたかどうかだった。
 俺の前に立ち止まる人間なんていなかった。ただ、ある朝のほかは。

 俺が聞こえもしないだろうソロを一人陶酔しながら引き終わると、突然予期しない乾いた拍手が届けられた。俺はちょっと驚いて、音の方向を見た。
 細面で、無精ひげに尖ったサングラスをつけて、頭には黒いニット帽といういかにも近頃の若者といったいでたちの男が――俺が言えた台詞でもないが…――、そいつが気障な笑顔を作って立っていた。
「見栄えがしないねぇ」
 んなことは分かってる。それでもむしょうに弾きたいから弾いてるだけだ。
「ふーん」
 男は解しにくい不敵な笑みを浮かべ、サングラスの向こうでどんな顔をしてやがるのか。
「あんたもやるのか」
「まぁね。今度名古屋の方でやるのさ」
 俺たちはほんの取り留めのない会話をした。話しても話しても正体不明な奴だったが、俺にとっては随分興味深くもあった。
 坂本拓也といった。
 坂本はあるバンドのベーシストだという。それが一体どうしてこんな山梨のほうをうろついているのか、坂本にそれをとるとなんかやれよと無闇に手をたたき出しやがった。近くにいる何人かがふとこちらに注目する。
 俺は腹の中に向かって舌打ちしてから、ピックを振り上げた。前奏のパワーコードを思いっきり弾く。いくら弾けどもサウンドホールがないこのギターじゃあ、面白い音は出ない。ただ、ささやかな生の弦の音が響く。
 前奏の最後のコードを全て開放して弾き、大きく息を吸う。

  旅立ちの 朝は こころもとなくて

  携帯   右手に 握り締めたよ

 オリジナルの曲だ。俺は更に一フレーズ歌うと、Aメロを歌い終わり、高音が入り乱れるBメロにコードを移動させていく。
 バンドで演奏する時と同じ単なるバッキングを弾いている。迫力がないのは仕方ない。それでも、俺はいつも以上に声を上げた。
 サビへのあおりをビブラートをかけながら、爽快に全力に吐き出す。

  君の待っているあの街へ

  鳥よ その翼を貸してください

  改札さえも飛び出しそうに

  あの街へ

 頭の中に情景が駆け巡る。手は激しくギターをかき鳴らす。寂しいはずの音が、アンプを通したように大きく聞こえる気がする。ベースの音も耳の深いところで、ズンズン響いている。
 気持ちよくて、思わず口角が上がり気味になっていく。
 俺はこうしている時が一番の幸せだ、首を揺らしながら間奏する俺は、確かにそう思った。
 通勤途中の金縁メガネの無表情も、スポーツバッグを背負っている丸刈りも、文庫本を片手に見ている女子高生も、目の前のニヤツキ顔の坂本も、俺を見ている。繋がっているのじゃないか、そう思った。
 演奏が終わるなり、坂本はご満悦とばかりにぱちぱちと手を叩く。それでも、正体不明でつかみどころのない雰囲気は変らずに、紙にくるんだカンパを渡して、他には何も言わずに去っていった。
 街は何事もなかったかのようにまた動き出した。
 ふぅ、と溜息をついた。一気に自分のやっている事がちっぽけに思えてくる。
 なんだったのだろう。演奏しているときのあの高揚感は……。
 どうしたいんだろうな俺は、なんてらしくないことを考えながら、再び街の中に消えていくギターを鳴らした。

 民宿の二階でようやく、坂本の渡した紙包みを開いた。これで石でも入っていたら、笑ってかじりついてやろうかと思った。
 譲渡人に似合わず綺麗に折りたたまれていた包みを、開いていくと一枚の紙が入っていた。
 いや、紙といっても紙幣ではない。光沢を持ったつややかな上質の紙であった。
 開いてみるとそれは、ライブの告知だった。場所は名古屋だと書いてあるから、多分坂本がライブをするというやつだろう。
 どうにも解せずに、俺はそれを放った。
 ふん、授業中の女子中学生の手紙交換じゃあるまいし、なんでこんなに包んでよこしたんだ。普通に勧誘する気がなかった?いや、そんなシャイな男には到底見えない。
 ・・・すると一体どういうつもりだ?
 折り目で畳から、浮き上がっているチラシを再び手に取る。
 じっと眺める。他にやることも思いつかず、ただ眺めていた。

 そして、甲府に来て二週間目の朝、イベント「ロック・キングダム」の前日、俺は黒のレスポールを担いで民宿を出た。
 民宿の家族はまるで、親兄弟が去るときのように盛大に見送ってくれた。彼らのアットホームな接待のお陰で俺はどうやらホームシックにならずに済み、東京にいるときよりは、だいぶ晴れやかに、甲府を去った。

 これは、挑戦……いや寧ろ俺に魅せようってのか、自分たちのサウンドを。
 いいだろう。確かに受け取った。
 俺はそんな密かな炎を持って、電車に飛び乗った。
 

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感想以上 あとがき未満

 毎度ご来場ありがとうございます。(←ブログは『場』でよいのだろうか)
 今回のよくわからない曲を、私は正式にかかなければいけない責任感が生まれてしまった。正直、かなり高レベルな作曲しないといけないという重圧が。故に、触らずに置こう。いい作編曲家にあったら頼んでみるという事で。
 ああ、ミューズよ我が元に祝福を!

 ふと、気づいたことがあります。ジャンルでショートショートとくくりながら、この「旅」は普通に続きものじゃあないか。嘘つき!!・・・て自分か。
 素直に『小説』とか『徒然』とかにジャンルを変えたほうが良いのかなぁ。精確じゃないのは納得できない。よし、こうなったら強行手段『SS等』……。
 これはだいぶ卑怯かもしれないな。よし、分かった。『小説/SS』で行こう。
 よろしくお願いします。

2006年07月23日 | 小説/SS
 彼は夏休みに退屈していた。一体全体、夏だからどこがどう変るのか、彼には分からなかった。
 何故休みにしてしまうのだろうか。
 いつも彼がみているグラウンドの少年たちも、やってこずとても暇だった。
 海の方には沢山の人だかりがあった。そろいも揃って水に入ることは少なく、ただ傘の下にいる。何しに来たのだろう。彼はそれを昼から夕まで考えていたら、どうやらもう一日が過ぎてしまった。


 みんみんと蝉の鳴く山にこどもが集まっている。虫を追いかけては、捕まえたかと思うと、今度はじっと観察したりしている。
 彼はそんな風に見ているといつも楽しそうだなぁ、と思って仲間に入れてもらおうかと思うけれど、なかなか勇気が出ない。
 自転車でだだっ広い道を走り抜ける少年たち。時折自転車を止めて、プラスティックのスポーツドリンクの容器を、懸命に口に押し付けて水分を補給している。夕方になると気持ちよさそうだ。だけれども、今日も彼は帰る時間になって、仲間に入る事もなく、一人さよならをする。


 退屈な彼は今日はちょっと遠くに目をやってみる。そうでもしないと、まだお昼なのに、寝てしまいそうだから。
 そこには、コートを羽織っている人がいる。ぶるぶると固まっている人もいる。一体全体どういうことかしら、彼は思っている。でも、分かっている。僕は本当に役立たずだ。蝉の声を聞きながら、彼はいつもその言葉を何度も繰り返す。
 そういうとき、彼は自分が何だかちっぽけな感じがしてくる。
 夕方にさしかかって……
「僕なんかいなけりゃいいのになぁ」
 そう呟いて彼はしょんぼりとする。厚いカーテンを引いて閉めてしまう。
 一人暗い場所に篭ってしまう。



 でも、いつも気になって、カーテンの隙間から覗いてみる。
 すると、みんな悲しい顔を綻ばせて、彼の方を向いて、とびっきりの笑顔を送ってくれる。
 それはもう、
「やあどうしたんだい」
 とでも言うように。
 そうして、彼はやっぱり、
「僕はここにいていいんだな」
 と密かに思う。
 やがて、カーテンを開けていつもの世界に飛び出していく。
 おはようと、今日も朝早くから――または少し遅れて――やってくる。
 そうすると、みんなもカーテンを開けてこういうんだ。



「おはようさん。太陽さん」
 と。
 長い夏にたまにやってくる俄か雨。それは太陽の退屈と溜息から生まれるのかもしれない。



>>あとがき未満 感想以上
 読んでくれてありがとうございまうす。SS関係はコメントを付してくれるとよりやる気がでます。こういうの書けよ、等ございましたらコメントにどうぞ。
 こういう作風に挑戦してみると、改めて難しさを感じるね。書いてみると、結局メッセージ的なものはなかった。ただ、見方の一つを自分の中に持てるようになったのは良かった。ふーん意外と太陽もこんなものか。なんて。
 あんまし、最初と最後がうまく繋がらなかったとはよく思うところではある。
やはり、SSはこういった整合性も大事になってくるのだなと思う。弱長文癖のある私なんかはこの辺いい勉強だったな。
 結局、これらの作品や、「ひなた」なんかは人の見方に因っていてある意味傲慢なものなのかもしれない。しかし、こういった人間外を考える事は、決して人間中心の世を弁護するためのものだけでないことを重ねて訴えたい。
 

 

ひなたの日常⑤

2006年07月21日 | 小説/SS

七月二十一日雨。
 この前の猛暑は一体なんだったのだろうか。最近の天気は僕らにとっても迷惑千万なことだ。いや、元はといえば人間の連中が好き勝手したツケが僕らにまで及んでいるのじゃないか。だとすれば、憎むべきは連中か。
 しかし、明治の名無しの言うとおり僕らに道理があっても、この浮世は力のあるものの不合理がまかり通るから、僕らは自身が正しいとの自負はあってもひっそりと過ごさなければならないのだ。
 こんな風なことを考えているようでは、なんとも暇な奴だと思われるかもしれない。しかし、今日は特筆すべき事がなんらないから、こういった普段僕が考えている事なんかを披露したい。
 僕の考えている事の中で一番大事なのは、やっぱり食だ。これは大体脳の半分くらいを占めて常に活動中なのだ。こういう生活にかかわる事が、大体占めている。
でも、これとは別の考え事もする。
 ああ、申し添えておくと、他の考え事をするのはあくまで僕が暇過ぎて死なない為のメカニズムとして必要な事だから、しかたなくやっているのだ。別に僕が好きだからとか、人間のように知識欲に駆られてというわけではない。
 『退屈は猫も殺す』って言わなかったっけ。どっちでもいいが、退屈によって、死にたい気分を味わうのは確かだ。

 まず第一の暇潰しは、コウスケの家族の観察だ。連中は僕の食を何故だか保障してくれるので、さほど悪い人間ではないように思う。コウスケの親などは、ちと過保護に過ぎるくらい僕を猫可愛がりするので、流石に怖くなって逃げ出す事が多い。だが、特に魂胆はないみたいだ。
 コウスケは大体学校というところへ行っているらしい。これも彼ら人間の暇潰しにあたるらしい。少なくともあいつはそう思っているらしい。人間にしては僕に波長が近いのかもしれない。そういう意味で僕はやつと同族として付き合う。
 キョウコに言わせれば、コウスケはヒカルや僕と同じ性質にして、なんら可愛さを持たない窓際だという。なんのことか良くわからないが、いい意味ではないらしい。
 やはり人間は人間らしくすべきだぜ、コウスケ。ということで片付けておくか。
 第二の時間潰しは、人語からもたらされる情報を分析したり、それを又僕の脳内に建設して、無用に広がる世界を推測する事だ。
 僕には、コウスケの家の近所が全ての世界なので、日々の近所の微細な変化をみることしか出来ないが、時折それとは違う刺激が欲しいものである。そんな時は、人間の会話に耳を傾けて、他の僕ら同族がやるのと同じに外の世界を推測する。

 おや、まだ昼過ぎか……。少し散歩に出ないと太るかもしれないな。

 さて、とばかりに僕は縁の下を出た。一人で行くのも嫌だったので、ちょっと隣の家を覗いてみる。
 おや、珍しい事にキョウコが在宅している。縁側にちょこんと座るひかると寝巻き姿で庭を見ているキョウコ。今日は学校なんじゃないのか、確かコウスケは僕にそういっていた気がするが。
 不便な事には、僕は人語を解する事が出来るが話す事は出来ない。
 小走りに縁側の方へ寄ってみると、キョウコは柔和な笑顔で、こんにちわひなた君、と言った。コウスケの仏頂面の挨拶の百倍はいい。ひかるの愛想もこれくらいよければ、申し分ないのだが……。
 ん?いつもならこのくらいのタイミングで、ひかるの体重任せのタックルが飛んでくるはずなのじゃないだろうか、おかしいな。
「どうしたんだ」
 僕はただそれだけを、「にゃあ」に乗せた。
「別に」
 ひかるも短く答える。どうも様子がおかしい。いつものひかるの元気のよさがない。どうしたものか。突然不安になってくる。ひかるの様子がどうだろうと僕には無関係のはずなのだが、ひかるのそういった態度をみると何故か血の気が引いていく気がした。
 質問を変える事にした。
「キョウコはどうしたんだい」
「…どうしたってどういうこと?」
「今日、学校なんじゃないのか?コウスケは行ったぞ」
「……あんた馬鹿ね」
 急にむかっときた。ひかるはいつだってこうだ、すぐにこっちの腹の立てるような返事ばかりする。こっちが心配しているっていうのに、馬鹿にするみたいにして。
「なんだって」
 なるだけ当たり障りのない返事をする。これ以上僕ら両方が腹を立ててもいいことはない。
「あんた謀られたのよ」
「へ?」
「夏休みよ」
「夏休み……」
 ひかるの説明によると、この時期になると人間の学校は暑いという理由で、学校を休みにしてしまうらしい。実に馬鹿馬鹿しい。暇潰しとしての学校を休みにするとは正気の沙汰とは思えない。
 すると、納得いかないことが二つ。コウスケの嘘と、キョウコの様子である。
 ちょうど、キョウコは僕らに軽食を持ってきてくれた。その顔はいつもと大差ない気がするが、何か違和感を感じる。
「キョウコは夏風邪よ」
「夏風邪?」
 ひかるはなんにも知らないのねあんたは、と前置きしてからキョウコが数日前からの天候不順でついに体調を持ち直した事を話した。
 僕は半分納得して、半分でまだ首を捻りたくなる思いでいた。
 尻尾がどうも不吉を受信しているみたいに、ぴくぴくと動いた。
 
 この日僕は初めてそういった不安を持った。なるほど、人間のいう不安とはこれの事か。不安を知ったはいいが、どうも知らなければ良かったと、心の裡で呟いた。

雪里の話

2006年07月16日 | 小説/SS

※これは安倍吉俊「灰羽連盟」の二次創作の一環です。

 雪ニ舞フ庭ニアリシ人ナレバ、雪里ト書キテ、セツリトゾ言フ也。
 亦人ノ道ヲ知リタル人ナレバ、刹理トソ諡ラルル。

 彼女がこの街に舞い降りたのは、ついこの間カンタが締め切った資材置き場を見回っていた時のことだった。
 ドスンという音に驚いたカンタが、木材が所狭しと積み上げられている部屋の<奥に行くと、そこで木材の山が見事に崩れていたのだった。
 繭――。
 全てが初めてだったカンタは、腰を抜かして暫くそれをみていたのだった。
 人より一回り大きい紡錘形の繭のあちこちから粘糸が無数に伸び、天井と床にがっちりと張り付いていた。
 表面には血管が浮き出たような青白い管が張り巡らされて、その間は形の崩れた六角形の形になっていた。
 カンタの第一印象は、怪物の巣に違いないと言う、恐怖だった。
 
 しかし、カンタや親方たちの前で、繭の殻を破り出てきたのは、薄く白い布をまとった少女であった。
 その清潔な白い布にも負けないくらいの白い肌の彼女は、最初カンタと変らぬ人間に見えた。
 けれども、彼女は人間とは違った。
 其の夜彼女は突然苦しみだしたのだ。カンタはおろおろするばかりだったが、親方は落ち着いて、オカミに彼女の事を任せて、いずこかへ向かった。
 暫くしてやってきたのは、灰羽の女ジュンであった。
 カンタは灰羽をみるのは初めてだった。
 服の後ろの隙間から、飛ぶには小さすぎる黒くもなく、白くもない灰色の羽が生えていた。頭上には光るワッカがくるくるしていた。その他は人間と大差あるところはないみたいだった。
 ジュンは優しい笑顔を持った二十歳くらいの女性だった。黒く艶のある長い髪がきれいに背中に流れている。嫌味のないそよ風のような柔らかな声は、聞くもの全てに安心を与えた。

 ジュンによれば、彼女は灰羽なんだということだった。つまり、ジュンの同族である。次の日彼女の背中には確かに羽が生えていた。
 ただし、それは灰色の羽ではなく、真白な新雪のような羽だった。

「こんな事ははじめてよ」
 ジュンは少々困惑したようにそういった。
 確かに羽の色が灰色でない事もあるらしい。罪憑と言って、羽に黒いしみができることがあるのだという。しかし、全くの白になるということは聞いた事がないという。
 ジュンが話師と呼ばれる灰羽連盟の重鎮の元に連れて行っても、それは分からなかった。
 詳しい事が分かるまでは、ジュンのいるオールドホームにいるように指示が出たのだが、彼女はとても拒んだ。人に強いる事をよしとしないジュンは、彼女をカンタたちの元に預けたのだった。

 光輪が頭に乗ってすっかり灰羽らしくなった彼女が帰ってくると、カンタは何故か大変に嬉しかった。
 彼の働く大工一家は、カンタほどの年頃の子どもがおらず、カンタは自分と同じ年頃の彼女に対して、大きな興味と好奇を抱いていた。最初に繭を怪物の巣と思った事など、すっかりどこかへ飛んでいっていた。
 子どもというのは、第一印象にとらわれない。楽しいと思えば楽しいし、嬉しければ嬉しい。苦しければ苦しいものだ。
 彼らは一瞬一瞬を輝かせているのだ。

「君なんてゆー名前?」
「好きな食べ物は何?」
「犬とかに興味ない?」
 彼女は矢継ぎ早に質問する事に、何一つ答えなかった。
 そもそも、彼女は繭から出てきて一度も口を利かなかった。
 何を言っても表情を変えず、ただじっと前を見ていた。まるで自分はこの場にいないかのように思っているようでもあった。
 それでも、カンタは諦めずに毎日のように話していた。街であったこととか、自分たちの大工仕事の事とか。話はいつも尽きないけれども、彼は決まって彼女の部屋から出て行く前の十分くらい、じっと彼女を見ていた。
 彼女は一体何を見ているのだろう。そこにどんな風景があるのだろう。
 カンタはそうやっているうちに、色んな想像をしていった。
 彼女の目の前にある景色を目を細めて、自分も見てみようとした。じっと見ている彼女の目には何が映っているのだろう。
 まるで時が止まったように、目を開けている彼女を見ていると、カンタはその景色がとても綺麗なものなんじゃないかと思ってきた。

 ある時、いつものようにカンタは、彼女の部屋への階段を駆け上っていく。その日はだいぶ涼しい日だった。カンタは半そでを長袖に着替えて外出していた。だいぶ空気がひんやりしてきた。
「もう夏も終わりだね」
 カンタは彼女のベットの脇の椅子に腰を落とす。少女はいつものように何も応えない。
「この街には急に冬が来るんだよ」
「だから、風邪を引かないようにしないとね」
 カンタは、隣の部屋から暖かそうな白い毛布を持ってきて、少女の足にかけてやった。
 開け放っていた窓から、薄ら寒い風が吹き込んだ。
「うう、寒いね。閉めようか」
 カンタは窓を閉めて再び椅子に座る。
「こういうときはお茶でも飲もうか」
 カンタは椅子から立ち上がろうとした……
 その時だった。急にカンタの服の袖が引っ張られた。視線を落とすと、小さな白い手。
「……雪」
 消えてしまいそうな細い声だった。まさに降り始めの雪のように、それはすぐに空気に溶けていった。
「え?」
 カンタは少し驚いて、少女の顔を見た。相変わらず目の前の景色を見つめている。
「きれい……」
 手にとればすぐに溶けてしまいそうな小さな言葉の結晶だった。
 氷のように閉ざされていた小さな顔は僅かに喜びでほころんだ。
 それは、鉛筆で引いている何百メートル直線が紙の下の消しゴムのカスに当たって少し曲がったような、ささやかな変化であったが、確かに笑っていた。
 いつも彼女を見ていたカンタには分かった。
 カンタは嬉しくって、少女以上に顔を取り崩した。
「そっか」
 ふと、窓の外を見てみた。雪は降っていない。それでもカンタは嬉しかった。
「雪降り始めたの?」
 少女はいつもより少し柔らかな表情で暫く目の前を見ていたが、やがて少しだけ顔をカンタの方に向けた。
「……うん」
 
 ジュンが言うには、灰羽はこの街に降り立つと、前の記憶を失い名前を忘れる。よって、繭の中の夢をその名にするという慣例があるとの事である。

「君は雪をじっとみているから、『雪』に『里』って書いて『セツリ』って呼んでいいかな」
 彼女は、その細っこい首にかかる顎の影を少しだけ下にずらした。僅かであるが、顎を引いているみたいだ。首肯しているのだということは、カンタにだけわかた。

 しかして、その日からカンタは彼女を、雪里と呼ぶようになった。

 良ク人ヲ見、人ヲ知ルモノ慥カナル心ヲ知ル。
 其身純白ニシテ穢レヲ知ラズ。
 白キ事ハ悲劇ナルカナ嬉シキナルカナ知ラネ共、浮世ニ生マルレバ、其ノ心気高キノミニハアラデ。
 罪アリシトイエド、悲劇ニハナル間敷クトアリ。
 タダ、輝キヲ大切ニスナリ。

ひなたの日常④

2006年07月14日 | 小説/SS
七月十四日晴時々俄雨。
 蒸し暑い朝が続く。コウスケの家はどこにいても暑い。クーラーと言うものがないらしい。そんなわけで、僕自身はともかく、コウスケは朝から情けない声を出して、天に怒りをぶつけている。しかし、こうまで暑いとコウスケの気持ちも分かる。
 窓が開け放たれると、だいぶ涼しいのだが、今日に限ってこの家の連中は揃いも揃って、僕を残して出かけていった。
 僕は灼熱地獄になった家を抜け出し、いい日陰を探しに出かけた。
 毎年この時期になると、僕は避暑地を探すのだが、大きな道に面したコウスケの家もヒカルの家も熱風が吹き込む事はあっても、涼しい風が吹く事はなかった。
 そこで僕は裏山への小道を辿る事にする。
 舗装されていない曲がりくねった砂利道を、しばらく息を弾ませてのぼると東光寺の石段が見えてきた。
 石段の両脇には杉が密生していて、上空のゆったりした風に梢がゆれているみたいだった。お陰で石段は自然の日陰が生成されていて、避暑にはぴったりだった。
 石段を駆け上がって、中間の踊り場に着いた。
 コウスケの家ではうるさかった音が一気に消え去って、ただ風が木を揺らす音が、不規則に訪れた。
 両脇の杉や檜が作り出す濃い灰色の日陰の中で僕は蹲った。
 目を瞑る。
 微風が通り過ぎてヒゲを揺らされる。僕らのヒゲは人間のそれとは違って、それはもう大事なものだった。人間がよく言うところの五感に近いものだ。だから、ほんの少しの風も敏感に感じる事ができる。
 そういえば、以前コウスケの父親だかが、赤らめた顔の時に僕を捕まえるなり、この気品に満ちた僕のヒゲを引き抜こうとした事があった。
 幸い、コウスケにあと一歩のところを助けられた覚えがある。

 ・・・

 時間を忘れて僕は日陰で眠っていた。目を開けると、白々と輝いていた太陽が、一杯引っ掛けたようにその顔を赤くしていた。山裾に頭を預けて、まるで枕のようにしている。
 だいぶ体が軽くなった気がする。
 爪をといでから帰ろう。こういうことはできるうちにやっといたほうがいいんだよ。
 寺の山門の方から一匹降りてくるのが見えた。オレンジの日差しが、杉や檜の樹の隙間を通り抜ける光線でよく見えなかったが、あの風体は……ヒカルじゃあるまいか。
 僕はそそくさと帰ろうとした。また面倒なことになりそうな気がしたからな。
 でも、そうはいかなかった。ヒカルは僕の姿を認めると、外向けで可愛らしくしているまん丸の翡翠色の目を細めた。
 全く。もう少し僕に対しても外向きで接して欲しいもんだ。
 
 ヒカルを伴っての帰り道。ヒカルは、僕が「ひなた」という名の癖に日陰にいたことをネタにネチネチと言ってきた。
 そこに突然後ろから声が掛かった。
 振り返ると、東光寺の白猫のハクだった。やつは息切れしないことを自慢するように、それとなくヒカルに声を掛けた。
 やつが、忘れ物だといって背中から降ろしたのはヒカルの鈴だった。
 ヒカルは僕をねめつける時の細い目を、まん丸の可愛らしい目に変えて、声もいつもより一段高くして、ありがとうハクさんと言って、受け取った。
 全くなーに猫被ってんだか……。そのうちぼろが出るさ。
 ハクは気障っぽくヒゲを二、三度揺らして、さよならの合図をして、これまた気障な足取りで石段の方へ駆けていった。
 ヒカルは胡散臭そうに眺める僕を、例の細い目で一瞥した。
 なんだよ。
 
 夜になると涼しい。やはり夜がいい。僕はコウスケを少しばかりからかってやると、いつものように廊下に突っ伏した。

旅①

2006年07月12日 | 小説/SS
 俺が旅に出ようと考え出したのは文化祭の前のある休日だった。
 その日、俺は幾人かの仲間たちと飲んでいた。楽しい時間だった。だが、俺には違っていた。物足りない?そうだな。それに近い感覚だった。騒げば騒ぐほど、何故か心が空虚になってきて、たまらず俺は一服やりに外に出た。ゆっくりと副流煙がたちのぼる。
 俺はそれを見ながら、ふっとどこか遠い場所を思い浮かべていた。


 そして、文化祭が終わった翌日俺は旅に出た。
 それはいつ終わるか自分でも分からなかった。
 俺はただ、愛用の黒いレスポール型のギターをソフトケーにいれ担いで、財布やら最低限必要なものを上着の大きなポケットにぶち込んでから、豪快に玄関を開け放った。
 旅は道連れ世は情け。
 去り行く東京の田舎町を眺めながら、俺は楽しげにそう考えた。
 俺がボックス席の窓側を進行方向に座り、足を対面の座席に投げ出していると、子ども連れの老年の男が、ちょっといいかな、と声を掛けてきたので、俺は脚を下ろして上機嫌な声色丸出しで、快く承諾した。
 老年の男はベージュ色のその年相応と思われるジャケットを羽織り、昔は厳然としていたと思われる強面を、柔和にしてしわくちゃな顔を笑顔にしていた。
 子どもの方は、しきりにじいさんに訳のわからないヒーローの必殺技を食らわせて、じいさんの迫真の演技にきゃっきゃと喚いていた。
 なんちゃらバスターと子どもが言っているにも関わらず、
「覚えていゃがれぃ」
 とじいさんは時代劇の三下のような声色で応える。ちぐはぐが面白い。
 隣で俺が、思わずその光景を眺めていると、子どもは俺に興味を向けたようで、俺を怪人に見立ててまた違う必殺技を放った。
 じいさんはちょっと苦笑いしながら見守った。
 俺は大袈裟にリアクションをとるのは苦手だったので、ほぼ棒読みに、
「強いな小僧……」
 と言って、車窓に頭をぶつけた。おそらく演技としては10点にも満たなかっただろうけれども、俺が思わず頭をぶつけて痛がった様が子どもの笑いを誘った。
 
 電車にはだいぶ長く乗った。子どもが疲れて、グーすか寝ると、今度はじいさんの話が俺に向けられた。
 じいさんによると最近の若いやつにしては、俺は気骨のある方だとか。その辺までは大いに楽しかったが、じいさんの大学時代の武勇伝辺りになってくると、流石に欠伸を押さえつけるのが大変だった。
 じいさんの話は、彼らの下車駅についてやっと終わった。俺の方は中央線の終点まで言ってやろうと言う気持ちで、俺はギターを抱えて、寝に入った。

 肩を揺らされて俺は目覚めた。終点だった。この日は甲府でなんとかしようと思った。俺は取りあえず寝床を確保しなければならなかった。その日は安い民宿に泊まることにした。暫くはここにいてみよう。俺は狭いぼろぼろの畳敷きの六畳程の部屋でギターをかき鳴らした。
 普段は爆音を上げるギターも、アンプさえなけりゃ音も殆ど出ない。
 俺はいつも弾く一曲を、丁寧に弾いた。今日はリードもリズム系もなしだ。
 なんとなく、しょぼいな。
 奏でるメロディは弦が弾かれると次の音を待たずに、すぐに空気に溶けていってしまった。そのせいで、音と音の間に静寂があるような気すらしてきた。
 ……でも、ひとつの音を弾いてもまだ消えてないと言う事に気づいたのは、俺にしては珍しい事だ。いつもはこんな些細なことなんて考えた事滅多にない。
 
 民宿の女将が夕飯に呼びに来た。俺は階段を辿って下の食卓についた。
 客はほとんどいないようで、どうやらこの家の一家と一緒に食事をするみたいだった。
 気まずくなるんじゃないかと思ったが、流石は民宿をやっているだけあって、話好きというか、好奇心旺盛というかで、矢継ぎ早に質問を投げかけてきたり、オススメの場所なんかを大いに俺に語った。別に観光に来たつもりでもないけれども、別に急ぐ事もないし、明日いってみようかと思う。

 腹を膨らして床につく。やけに眠い。
 どうしてだろう。夜はこんなに気持ちのいいものだったか。
 辺りはしんと静まり返り、だからと言って寂しくなることはなかった。
 久しぶりにいい眠りにつけそうだ。
 

七夕

2006年07月07日 | 小説/SS

「さしずめ俺たちは年に一回しか会えない、織姫と彦星だな」

 七月七日、彼らは平塚駅の近くのコンビニで夜が明けるくらいに落ち合った。辺りには彼らのほかに人影は少なく、ただタクシーが時折いったり来たりしているくらいである。
「それほどロマンティックでもないじゃない」
 女の方は眠そうに長身の男を見上げた。顔一つ分くらいは差がある。
「眠そうだな。そっちは相変わらずきつそうだな」
「ふん、他人事だからそんなに笑ってられんのよ。はぁ、なんかだるい」
 男のほうは別に気を悪くした風でもなく、しゃがみこんだ女に合わせて、腰を落とした。
「そっちはのんびりやってんでしょ。いい気なもんよね」
「痛みの代償ってやつさ」
 二人はそれきりしばらく黙っていると、コンビニの店員が外のゴミ箱の袋を取替えに出てきた。
 女は欠伸を一つ。
「どれ、ちょっと街を回ってみようじゃないか」
 男はさわやかな笑顔で手を差し出した。女はただ流れ作業のようにその手をとる。
 二人は久しぶりにこの街を歩いた。商店街が左右にひしめく道には、あちこちに七夕の準備がなされていた。露天がこれでもか、というくらいに溢れて、夕方にはここに人の海ができるのが容易に想像できた。
「ちょっと煙草すうけど」
 女は口にくわえながら、左手で男に勧めた。男はそれを嬉しそうに口に運んで、火を待った。百円ライターで、二人は心の中に鬱積している嫌な事を振り払った。
 女はすぐに火を消した。よほど疲れているのか、いつもの煙草でもなかなか上機嫌になれなかった。
「どれくらい続くんだろう」
「ごめんな」
 先程まで表情に隙を見せなかった女が、急に寂しげな顔をすると男は慌てた。
 
 二人は十年前まで生きていた。
 今いる二人は紛れもなく、幽霊という言葉が当てはまる存在だった。一人は天国で一人は地獄で生活していた。年に一度だけ二人は面会する事ができた。昔であれば、そんなことも許されなかったが、最近では彼岸の方も近代化の波が押し寄せて、こうして面会する制度が出来たのだった。
 保険金殺人だった。金のために自分の伴侶を手にかけたのだ。それは当然地獄行きが決定された。そして偶然とは恐ろしいもので、一週間もしないうちに後を追って、この世を去ったのだった。

 二人は無言の中で、それぞれ思い出を振り返った。まだお互い気まずいのは仕方なかった。
 ただ、今年で二十歳になる息子の話だけは、何の気兼ねもなしにすることが出来た。
「あいつ、ちゃんとやってるかな」
 父親が、高卒で働き出した一年ぶりの息子を心配した。
「あんたよりは十分しっかりしてるわよ」
「……」
 男はむくれて妻を見やった。普段は格好良いといえる男がそういう表情をすると、やたら滑稽に見える。女は随分げらげらと笑った。
「それより、そろそろいい娘みつけたかしら」
「いるだろうよ。なんてたって、湘南随一の色男としてその名を轟かせた俺の息子だ」
 自慢げに言う夫を横目に、女はわざとらしくため息を吐く。
「こんなにお肉ついちゃって……よく言えるわね」
「お前、人のこと言えるのか」
「失礼ね。私は向こうじゃミスコンに入賞してんのよ」
「皺だらけのババアばっかなんだろ?」
 女の右膝が、見事に男の局部に食い込む。これは痛い。男は暫く声も出ずに、石畳の上でのた打ち回っていた。

 出勤することが嫌でたまらなかった。今日も同じ事の繰り返しだと思うと、ケンタロウは気分を暗澹とさせた。歯ブラシを口の中に放り込み、機械作業のように彼は動かした。
 彼は生きる目標なぞ持たなかった。
 高校で同級生と他愛もない話をしている時は、将来は夢に満ちたものだという事を幻想だと思いながらも、信じていた。
 けれど、今はもう。ただ闇しかなかった。一歩一歩確かめながら進む。
 つまらない。ケンタロウは強くそう感じていた。
 生きている意味なんてない。そうも思った。
 職場に行っても、ただ怒られているだけのような気がする。何にも未来は見えてこなかった。
 彼はスーツを羽織り、気を奮い立たせるように頬をパシパシと叩いた。

「よし、そろそろ行こう」
 男は時計を見て言った。二十になった息子を観察しに彼の会社まで行こうというのだった。女も別に二人でいても栓がないように感じていたので、承諾した。
 二人は、出勤中の息子を見つけた。どこか元気のない、という事はすぐに分かった。

 ケンタロウには気になる女性がいた。ケンタロウの勤める会社の斜向かいにある宝石店で働いている女性だ。サチコさんというらしい。
「ああ、サチコさん……」
 ケンタロウは思わず口に手を当てた。俺は何を口走ってるんだ、という思いが顔を赤らめさせた。
「ふんふん。なるほどサチコさんか……」
 男はメモをしながら、次なる情報を待ちわびた。残念ながら、ここでケンタロウが、都合よく独り言を言うというような展開は用意されていなかった。
 会社の近くまでやってきた時、ケンタロウは何かの気配を感じて振り向いた。思わず隠れる二人。隠れなくても姿を見られる事はないのだが。
「気のせいか」
 と、急にケンタロウは顔を紅くした。唇がわずかに震えている。目はくっきりと見開かれ、一人の人間を見ていた。
 鮮やかな色のブラウスに、清楚なタイトな黒いスカートを穿いた魅惑的な女がそこにいた。髪の毛は、大きく波を一つ描いて肩のあたりまで落ちている。艶っぽい唇に、スーと通った日本人離れした綺麗な鼻筋、見るものを虜にするパッチリ目。
「ははぁ、あの娘ね……にしてもどっかの誰かさんに似て、わかりやすいリアクション」
 女は横目で男を一瞥した。
「よし!」
 妻の視線は完璧に無視して、男は興奮して声を上げた。
「なによ。急に」
「思いついたんだよ。作戦を」
 別に普通に話しても聞こえはしないのに、わざわざ内緒話するように、耳元で作戦を語りかけた。
「あきれたもんね……」
 女は苦笑いにじとっとした眼で夫を見た。どこまで男は妄想たくましいのかしら、という具合である。
「俺たちからのささやかなプレゼントさ」
「あの子にはお金以外私たちからしてあげたことなんて何にもないものね」
 女は珍しくしおらしい様子で、夫の言葉に賛意を示した。

「さぁて、いっちょやったるか!」
 男のやる気満々の宣言に、女は織姫の一年ぶりの笑顔でこたえた。


へいへ~い

2006年07月04日 | 小説/SS
 俺の友人には風変わりな連中がいる。世の中には風変わりな連中は事の他多いようで、通常の精神を持つ俺としては、連中の興じるつまらない遊びに辟易することが多い。
 とりわけ風変わりに思われる人間について少しばかり話してみたい。こいつは第一に、俺にとっては甚だ不愉快な人間だったと言ってよい。わざわざ過去形で述べるのは、今となってはさして嫌でもない人間に思えるという事である。
 彼の名は……何といっただろうか、久しく彼を本当の名前で呼んでいないのだから、このように曖昧であることはいたし方のない事だと思う。彼は風変わりである前に、気軽な人間であった。俺が工場で入ってからというもの、別段誰とも口を利くわけでもなかったのだが、その中で唯一軽く口を利いたのが、彼であった。
 彼は工場ではかなりの顔利きであった。だから、俺以外の人間とも、一緒に世間話をしている風景をよく目にしたものだった。
 いつの頃からだろうか、俺は彼が俺の事をタネにして他の仲間たちと面白おかしく会話をしているのだという事を、何の気なしに知った。ショックであった事は、正直に告白しよう。なんとなれば、彼だけが工場では味方のようであったからだ。
 工場というのは、俺には不向きな職場だった。俺は他の職工のように気軽な話を、笑顔を貼り付けてずっと笑っていられるような、都合のいい性格はしていなかった。仏頂面の専売である。だから、そんな俺と気軽に話した彼は、結構いい仲間だと思っていた。がしかし、その彼は、そこら中で俺の失敗談やら、恥ずかしい恋愛談などを吹聴して回っていた。お陰で、俺は仲間と挨拶を交わすたびに、薄ら笑いを見せ付けられ、かなり不愉快な思いをした。
 
「へい、へ~い」
 彼が俺に声を掛けるときは、必ずこの言葉から始まった。その度に俺は、来たなと思って、心中ため息を漏らしたりしていた。
「へい、元気かい?」
 底抜けに明るい声で言う。この男は、人のけったいな話をあちらこちらに、焼夷弾のようにばら撒いておきながら、元気かという俺の気分を逆撫でするような、事をおっしゃるのか?
「まあ、ぼちぼち」
 僕は心中に溜まるフラストレーションを増幅させながら、それを解き放つことなく、愛想笑いをしながら応える。
「結構だね。実に結構だ」
 彼は、それがどれだけ素晴らしいかを体現するかのように、両腕を広げて、手のひらを天に向けてかざしながら言う。大袈裟にも程がある。また、からかいに来たのだろうか。そろそろ我慢の限界だった。それでも、適当な返答をつけに、微笑を括り付けて吐き出すことしか出来なかった。
 俺が何かにつけて言葉をとちったり、赤面したりしていると、彼はその度に笑って、俺の肩をたたいて笑いをこらえる。馬鹿にするにも程がある。
 俺が爆発したのは、それから暫くした、工場の新人研修の時だった。俺も半人前ながら、一人の教育をする事になった。最初は考える度に憂鬱な事だったのだが、実際に立場に立つと、思ったより僕に仕事が身についている事が分かったし、それを分かりやすく教えられることも分かった。俺もその時は俺が、我慢の噴火口を突き破るほど憤るとは、自分ながら想像していなかった。
 俺が教育した工員は珍しい女子工員だった。なんでも家庭の事情が色々錯綜しているようで、詳しい事は聞けなかったが、なんとなく想像に難くなかった。彼女は生真面目で、何事にも真剣なたちだった。だから、僕が仏頂面であろうと恐れなかったし、しっかり説明すれば、うんうんと頷いて、しっかり仕事をこなす。俺と彼女はいい信頼関係を持った。
 そのうちに俺の仏頂面も売り切れが出てきて、彼女に対しては、幾分かホンモノの表情を見せる事が出来た。彼女の方も、最初はかたくなに黙っていた事を、話すくらいになった。だがしかし、そんな俺たちの事を、にやけた面をしてみている職工たちの視線に気づいた。宴会の席で、それとなく口の軽そうな職工に尋ねてみると、どうやら例のやつが、俺と彼女のことを大々的に触れ回っているとの事だった。
 いよいよ我慢の限界だった。宴会の席にも関わらず、俺は「へいへい」うるさい彼に、目一杯力を込めた拳で殴りつけた。
「人の噂をあちこちに話しまくって何が楽しいか」
 しばらく場は騒然となって、俺はそれきり黙って辞した。
 工場をやめようと思った。彼女は大変残念そうにしていたが、心には決めていた。それでも、彼女とは連絡を取り合おう、という話をしていた。
 職工たちは思いとどまるように言った。俺なぞいてもいなくても、同じだろうに、どうしてだろうか。
 頬に痣を抱えた、彼がやってきた。俺は、殴り返されるものとばかり思っていたが、彼はいつもの「へいへ~い」の前置きをせずに言った。
「お前は気づいてないかも知れないが、お前ってこの工場じゃあ、大した人気者なんだぜ」
 職工の誰も請うが、俺がボルトのサイズを取り違えて、監督に大目玉食らったことも、工場の紅一点の彼女といい仲であることを知っていた。思えば、いつから扱いが難しいと思っていた職工と話すようになったのか。いつから、苦しくなく話せるようになったのか。
 ああ、今更良くわかる気がする。
 俺は正直に詫びた。
「じゃあ、とりあえず……」

 俺の詫びは、三日間の痛みを伴った。
「これで、おあいこってわけだ」
 彼はいつもの気軽な顔で言った。痣がやたら痛々しい。今は俺の頬のが痛いのだが。
「そんな青春ドラマ演じてる場合?工場長が来る時間よ」

 どういうわけか、俺の身の回りには風変わりな人間が多い。俺のような通常の思考回路を持つ人間には、連中の言動や行動が、いちいち分からない。とんちんかんな事を言ったり、やったり……。全く不合理なことこの上ない。
 だがしかし、そんな風変わりなのも嫌いじゃない。

ひなたの日常③

2006年06月29日 | 小説/SS

六月二十九日晴れ。
 どうやら露も明けて、ついに夏が到来しようとしている。こう暑いと体が弛緩して、いつも以上に眠くなる。外に遊びに行こうという気も失せて、僕は涼しい夜を待っていた。僕と同じようにひかるの方も足が重いのか、最近はめっきりと訪ねてこなくなった。時折、キョウコと遊んでいるらしく、楽しそうな声が聞こえてくるくらいだった。
 夏の夜は涼しさを楽しむ事が出来る。人間の考えたこの言葉も、夏専用の言葉らしく、冬に使う時は木枯らしに対する不平の裏返しだ。暑い日中をダラダラと過ごした僕は夜にその活動を開始する事がしばしばある。最近の散歩は、夜に行く事が多い。小学校に近い青白い電灯の下を通った時、僕はしばらく忘れていたあのときのことを思い出した。
 あの時というのは、僕はまだコウスケという人間のことをゆめにも知らず、小学校に陣取る三毛の連中とろくでもない遊びを繰り返していた頃のことだ。人間の時間間隔でいうと一年前とでも言うのだろうか、僕にとっては結構長い時間だった。

 ちょうど一年前のこの時期、僕には一番辛い時期があった。何日も食事にありつけないという緊急事態である。原因は簡単なことで、小学校の三毛の親分ジンザとけんかをして、食料の定期的供給場所となっていた小学校を捨てたがために放浪する羽目になったことにあるのだった。僕は最初、食事の確保を甘く見ていた。僕は生まれも育ちも裕福な小学校地帯だったために、今まで食事に事欠いたことは一度もなかった。甘ちゃんだったのだ。
 そんなわけで、僕は、ついにこの青白い電灯の下で、力尽きて蹲っていた。ここは時折猛スピードで車が、走り抜ける。その度に僕は危なっかしく、よたよたと道の端に寄った。みじめだった。
 眠いが為ではなく、空腹の為に瞼は徐々に重くなってきた。それどころか体じゅうがとにかく重かった。僕の頭には、小学校の用務員室の庭で食べたミートソースの事を思い出していた。次に、ジンザの姉妹たちを思い出した。あの気の荒いジンザに似ないおしゃまで可愛らしい三毛の雌たち。ピロティで連中とたむろしていた時の事を思い出しながら、僕は眠りにつこうとしていた。最後の。
 その時だった。キキーッ。耳障りな高い金属音とともに、僕の身体を大きな影が覆った。
「おい、お前こんなところでどうした」
  それがコウスケだった。今では考えられないような猫なで声だった。まともに返事できないでいる僕を見かねたらしく、やつは僕が抵抗できないのをいいことに、僕を自転車の籠の中に押し込めて、自転車を漕いだ。
 大変だー猫さらいだー!
 などとは言わなかった。今思えば、そう言って抜け出していた方が、幾分かましな人間に保護されたかもしれない。冗談である。
 考えているうちに学校の周りの道を一周した僕は、また青白い電灯の下に戻ってきた。小学校の方を一瞥してから、僕は向き直って歩き出した。
 さて、今日も帰ろうか。

あの彼方へ

2006年05月19日 | 小説/SS
 彼はもう何度も、この古びたコンクリートの舞台に上がった。ところどころひびの入ったその舞台はあの彼方へ続いていた。
 一歩前に進むだけで、彼はあの彼方へ行ける。今日こそは、進むつもりだった。こんな所に留まっていられない。それは決して絶望ではなく、希望すら抱いた思いだった。でも、どうしてか、彼の目からは決まって涙が出てしまう。その一歩はもう決して引き返すことの出来ない一歩。たくさんの柵が彼にまとわりついていた。それはお皿について、なかなか落ちることを知らない油のようにベタベタと彼のあちこちにくっついていた。それが、彼の足に強い摩擦力を与えた。引っ掛かりの少ない木のサンダルが、まるで強靭なスパイクのようである。
 大きく息を吸う。息を吐く――震えている。腹の底も、喉も、唇も。どうしてか、彼は自問する。唇は段々かさかさに乾いてくる。
「お前が自分でいかないなら、俺が手伝ってやるよ」
 後ろにいた男がその存在を突然露にして、無表情に彼を見据える。その目からには、怒りも、哀れみも、恐怖も、軽蔑も映っていなかった。ただ無機質な表情。舞台の最前線に立つ彼は、急に恐怖が芽生えた。思わず後ずさる。
「どうしたんだ。行きたくないのか」
 今度、後ろの男は気味の悪い微笑を浮かべた。口角が左右に急に引っ張られ、口が裂けているようにも見える。彼は、徐々に怯える男に近づいた。

「ほうら」
 ただ、遊戯を楽しむ子供のような笑いをたたえていた男は、不意に恐怖の芽生えた男の背中を押す。
 ―――――!!!
 声にならない悲鳴が木霊する。しかし、悲鳴はどこまでの世界に届いたであろうか。ほとんど誰もいない、この空間だけなのだろうか。それとも少しは彼の身体に染み付いていた油の所有者に届いたであろうか。彼の最後の言葉は。

「大げさ過ぎるんだよ」
 突き落とした男はくっく、と笑った。
「ただのバンジージャンプだろ」
 
 あの彼方へ。彼は何度も繰り返し呟いたその世界を、垣間見ることができたろうか。ただ、言葉を失ってぶらさっがっている男は、見開いた目をやがて穏やかな色に戻して、ふっと息を吐いた。
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誰しも「死」というものを考えたことがあるだろう。
私は重い病気に苦しんだ事もないし、大きな死というものを知っているか、と言われれば否であろう。しかし、そんな私でも、一瞬なりともそういった問題を考えてしまう時がある。真夜中の街道は、店の光も殆どなくて真っ暗だった。でも、何故かとても落ち着いた。静かな闇だった。この中に私はふっと消えてしまうのだろうか、なんてことを考えながら、だーれもいない夜道を歩いていました。
 難しい、三人称ももっとかかきゃならんな。