首里城のこと、いろいろ
前回に続き、首里城のことを書きます。
首里城、何度行っても飽きない、興味惹かれる城、不思議ですね。自分自身がウチナーンチュだからなのかいつも引き寄せられて
いる感じがします。いにしえの先人達に思いを浮かべる場所でもあります。
首里城は高い場所にあり、東西南北に頑強な石垣が二十に張り巡らされています。誰が勝ってに云ったか不明だが、首里城は平和
で礼節の城だったとの説。城壁をこんなに頑強に造るとは平和だとは言えないと思う。実際に石垣の幅が広く、侍走りと云われる
ように、敵が攻めて来るのを監視、反撃出来るような塀の上で兵隊が走れるようになっています。首里城が出来ても歴代の王達や
家臣達の権力闘争や城に火を放ち炎上するくらいの争いもありました。やはり人間のやることなので平和裏に物事が治まっていた
訳ではありませんでした。首里城の玄関は守礼門を抜けて東に進むと、城の北西側に歓会門があります、そこが正式な玄関です。
中国からの冊封使や薩摩の使者たちや重要な客人、ペリー一行もこの正門をくぐり入城しております。公的な表門となるところで
した。女、使用人、出入り業者、身分の低い者達はもっと東側にある久慶門から出入りしたそうです。身分や地位で出入りすると
ころが違うのは武家社会ではどこでも同じですね。
守礼門の大事なことを言います、門は三つあります。真ん中の門は王や冊封使や薩摩の使者などしかくぐり抜けることが許されて
おりませんでした。その他の人達は左右の二つの門から出入りしました、だけどある程度の身分や地位の人達のみでした。一般庶
民は勝手口である久慶門からの出入りでした。
首里城には大奥の空間があったことをご存知ですか?
大奥とはあの江戸城にあったことは有名ですね。琉球歴史の関係者の間では、琉球の大奥、御内腹(ウーチバラ)を江戸幕府が真
似たとの説が云われています。
首里城本殿の二階は国王のプライベート空間でした、今は一般公開されてる国王の椅子がある間です、御差床、うさすかと呼んで
いました。その裏にある空間が国王が過ごす御書院や御鎖の間や黄金御殿、奥書院となどがあります。そこは国王と家族、女だけ
の空間でした。王子は原復まえの13才までは一緒に過ごすことが出来たが、原復後は一人前の男として二階の空間からは出なくて
はいけませんでした。たとえ三司官の重要な地位にあるものでも二階の国王の間には入ることは不可能でした。用事がある場合は
近習詰所という入り口で鈴を鳴らして用聞きの女官が出てきて伝言を預けるしか出来ないしきたりでした。
tiger60
大奥、ハーレムと同じですね。時の権力者がほしいままに幾百人の女を囲い暮らしていた。正室(本妻)と側室(妾)が子供を産
み、それぞれの子供を次期王位に就けようと熾烈な戦いが繰り広げられた。場合によってはライバルを騙し蹴落とし殺したりもあ
りました。女の戦いは終わりがない、収拾がつかないと云われます。父親は同じでも母親が違うと子供同士でも殺し合い、潰しあ
うこともあったのことは歴史が証明しています。現代を見るとなんと平和な時代だろうとほっとするのはtiger60だけではないは
ずです。
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