歴史は操られた
沖縄の歴史の流れは、三山時代~第一尚氏~第二尚氏の三つの山があった。現在、琉球王府の尚家
と呼ばれるのは、最後の王府の末裔のことをいう。
琉球が大和の圧力や影響を受けないで自由に伸び伸びと中国、海外交易をして豊かだったのは三山
時代だった。第二尚氏王統になってからは江戸幕府や薩摩藩からの干渉があり本当の自由ではな
かった。今の首里城の発展と王府の権勢を誇ったのは第二尚氏であった。
第一尚氏は僅か60年間の王政でしかなかった。人民から見放されたのが直接の原因だが、他人を
武力で強引に倒して築いた権力は、続かないことの証拠である。
第二尚氏の始祖は金丸尚円であるが、本妻と子供がいたが、昔の慣例で側室が数名いた、その一人
が宇喜也嘉である。年齢差は30才、尚円が亡くなった時が62才、宇喜也嘉32、それが当時の普通
だったのかもと想像する。尚円は第二尚氏王統の長期国家を築いた立派な王だった、これほどまで
に人に慕われ尊敬されて琉球の国を豊かな王国にした功績は大きい。尚円に関する逸話や物語は数
多く残っている。日本の国では、徳川家康と似ている。
こんなに立派な王が自分の後始末がおかしな顛末になろうとは本人さえも知らなかっただろう。
生まれた男子が後に王になった、尚真である。尚真が幼少時に尚円が亡くなり、尚円の弟、尚宣威
が一時王を継いだが、尚円の残された妻、宇喜也嘉はわが子尚真を王に就けたいので、神のお告げ
と創作して尚宣威を王座から降ろした。幼いわが子尚真を王に立てて宇喜也嘉自身が裏で院政を敷
いたのだ。その時尚円の本妻と息子達は生きていたが、夫の尚円がこの世にいないので、本妻と息
子達を殺させたのだ。そのことはわが子尚真には伏せていたが、成長する尚真が周囲のもの達から
その事実を知ってしまった。尚家の墓、玉陸には尚円王とその家族、親族が祭られているが、宇喜
也嘉はその王家の墓に入ることを息子の尚真が許さなかった。本来は偉大な尚円王は本妻と子供
達、側室の宇喜也嘉などと一緒に祭られるが従来の慣習だが、息子の尚真が自分の腹違いの兄達や
父親尚円の本妻を殺させた宇喜也嘉の行為を許さなかったのである。たとえ自分を生んだ母親でも
人の道に外れた非道なことをした母を許せなかったのです。今だかって宇喜也嘉は王家の墓に入れ
ていないのである。500年近くなろうとしている古しえのことだが、宇喜也嘉は天にも昇れず苦し
んでいることだろう。立派な王であっても後始末がきれいにされていなかった、どんなに権勢を誇
ろうが子孫に争い、それも人を殺める争いの種を残して死んでいく、虚しくも感じることですね。
ただ人の道は人の道として、自分の愛憎に溺れず英断をした尚真は立派だったと思う。長い間、王
として立派な功績を残して去った王である。
歴史には表と裏がある、通説になっている歴史の流れが本当は逆だったとか、悪者と善者が逆にな
るのが歴史の面白さである。有名な護左丸と阿麻和利のストーリーも面白い、こんな謀反劇は琉球
の歴史には多くある。
人はなぜ争うのか、同じ父親と母親の間に生まれた兄弟ならあまり争わないが、母親が違うと子供
同士が争う、父親は同じでも母親が違うとそれぞれの女の戦いが生まれるのは事実ですね。争いの
原因のおおかたはこれが原因である。熾烈な権力闘争が始まるのである。結局この悪さの本当の原
因は男が作ったいい加減な手前勝手な一夫多妻的な構成が悪いのである。側室を多く持つなら後々
の子孫が争わないように自分が生きている内に決めておくべきなのだ。自分の始末は自分でつけな
かったところに歴史の争いがある。このことは現代の世の中にもあるはずです。
tiger60
いろいろな文明や王国が興り消えていく。我々が見ているのはその最後に残された物しか見ていない。琉球には他府県のような城、天守閣がある城跡が無い。昔から無かったのではなく、あったがその姿形の跡形が残っていないのが理由です。首里城だけが昔の写真や記録文書、見取り図が残っていたので復元できたのである。首里城と関連施設を合わせて世界遺産となっている。首里城は地上の上に建つ首里城は世界遺産ではないのだ、あれ?違うのと思われるかもしれないが、建物は建造物としての扱いでしかない。では世界遺産は何かというと、昔からある基礎、遺構である。今でも首里城の一階の廊下の床に厚いガラスで床下が見れるようになっている、昔の建物の基礎である遺構が見れるのだ。これが世界遺産となる根拠なのです。この遺構が見つからなければ世界遺産登録が無理だった。
首里城にまつわる逸話やエピソードは沢山ある、琉球の歴史を刻んできた中心の城、首里城が再現出来て県民としては誇りに思っている。偉大なる先人達が残した偉大なる遺産、物と歴史の精神が語り繋がれている。ブロガーの皆様もぜひ首里城を見て下さい、きっと何かが見つかります。