アジア人財事典

アジア人財カンパニー株式会社 井上一幸 がお届けする粋な話題の数々

光陰矢のごとし

2007-08-10 | コラム
7月の日経新聞は、朝刊を手に取ると真っ先にひっくり返して最終面の「私の履歴書」に目が行った。そう、長島茂雄の物語である。実は私自身は長島の現役時代を知らない。だから私にとってのヒーローといえば王貞治だ。でも長島がどれだけ偉大なプレーヤーだったかは知っているつもりで、だからこそ朝一番で必ず読んだ。

その中で第2回目にこんな話が出てくる。長島茂雄の母ちよが、ビー玉を芯にして野球ボールを作るシーンである。
「ビー玉に真綿を巻いたが、柔らかすぎた。次に帯締めの細いひもをグルグル巻いた。これは硬くていい感じだった。ところがなかなか針が通らず、お袋が親指や人差し指を針で刺し、バーッと血が噴出す。それを私がふいてあげた。いまだにあの光景がよみがえる。」「指から血を流しながらボールを作ってくれたお袋の姿は何年たっても忘れない。」
戦後間もなくのころだからもう60年も昔の話だ。それでも長島にとってははっきりと思い出される光景なのだろう。

3 年ほど前まで毎年必ず、と言っても5年続けたくらい、釜山に遊びに行っていた。別に彼女がいたからじゃありません。おばあちゃんがいたから。実の祖母でもなく私が勝手に「おばあちゃん」と呼んでいたのだが、一人で小さなおみやげ屋を経営していて、ふらふらと入っていった私に妙にやさしく接してくれた。(たくさん買わされましたけど!)昭和20年まで名古屋の女学校に通っていたというからもう80歳は超えているだろう。張という名だが日本では伊東というのだ、と教えてくれた。
そのおばあちゃんが、会うと必ず語る話がある。毎年夏になると、列車に乗って海へ遊びに行ったんだそうだ。その線路脇で近所の人が総出で「伊東さんちのお譲ちゃーん!!」と言って手を振ってくれたんだと。そして話の最後に目を細めて必ずこう言う。「あの人らは今どこにいるんじゃろか。もうみんな死んでしまったかのぉ。」
きっと70年以上も前のことのはずだが、彼女にとっては大した昔じゃないのだろう。

時の経つのなんて早いものだ。自分の記憶はどんなに頑張ってもせいぜい35年前までだが、それでもはっきりと思い浮かぶシーンはいくつかある。きっと自分が60歳になっても70歳になっても、55年前の記憶、65年前の記憶として同じようにはっきりと浮かぶのだろう。

8月は戦争の話題が豊富で、正直「毎年毎年おなじだよな~」なんて感じなくもないのだが、終戦からたったの62年、日中戦争から数えてもまだ70年。
少なくともその時代を生きた人々からすれば、ほんのすぐそこの手が届くような記憶に違いない。

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