アジア人財事典

アジア人財カンパニー株式会社 井上一幸 がお届けする粋な話題の数々

『24時間テレビに思うこと』

2009-07-27 | メールニュース
皆さん、おはようございます。㈱グッドジョブクリエーションズです。本日はメールニュース第26号をお届けにあがりました。数字合わせではありませんが、この週末、テレビをつけると恒例ともいえるフジテレビの26時間テレビ。そういえば日本テレビでは24時間テレビという番組が毎年放送されますね。それについて先日聞いてきた講演に関連付けて、思うところを書いてみたいと思います。人材教育の話です。

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24時間テレビに思うこと
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先日ある著名人の講演を聞く機会があった。その方は経済評論家との肩書きが一番似合っていそうだが、出版に講演にそして自社の経営と多忙を極め、さらに最近ではテレビ出演も多く、まさに「時の人」と言ってもいいくらいのタレントである。

テーマは「働くことの意味について」。聴衆はこれから社会に出んとする学生である。私は学生ではないが、自身の仕事に役立つこともあろうとの気持ちから足を運んだ。
講演はとても良かった。内容がまとまっていてわかりやすく、話しかけるような口調で、言葉がそのまま頭に入ってくる。一時間半ものあいだ、全く飽きを感じなさせなかった。さすがである。自分自身人前で話す機会もあるため、その意味でも勉強になった。

ところがこの講演、最後の最後で「なんでそぉーなるの?」と思わせる展開になってしまったのだ。それを書いておきたいと思う。

メモを取っていなかったのでうろ覚えで恐縮だが、たしか話の展開はこんな感じ。(<>内は私の感想です。)
- 日本経済の停滞を打破するには、あなたたち若い世代が活躍しなくてはならない。<その通り!>
- しかし日本政府の予算配分では、シニア世代に多くのお金が回り、次代を担う若者へ落ちるお金、つまり教育への投資が少ない。反面、家庭が負担しなくてはならない教育費は極めて高い。<私も最近そのことを知っていささかショックだった!>
- 近頃の若者は、敬語も知らず、マナーも悪いし、ニート・フリーターなどはまともに働く気がない、これでは日本の行く末は真っ暗だ、と言わんばかりの論調もあるが、そんなことはない。<100%同感!若い世代はいつの世でも上の世代から悪く言われるものだ。今の大学生も20年後、30年後にはきっと「我々の若い頃はねぇ…」と偉そうな口をたたくに違いない!>
- 新しいトレンドを生み、新しい産業を興すのは常に若者である。(といって何人の例を挙げていた・・・が具体的には忘れてしまいました。)

と、ここまでは納得の内容。さすが売れっ子だけのことはある。

で、最後に「私の活動を紹介します。」となって、講演のテーマから離れてご自身の活動を宣伝したのだと思うが、そしてそれ自体は一向に構わないが、その方の収入の一部はNGOを通じてアジア、アフリカ支援事業に使われるのだそうだ。医療器具を寄付したり、学校に教材を送ったり等々。スクリーンには、その方がアフリカの子供たちに囲まれている写真が映し出された。ある村で井戸を掘ったのだそうだ・・・子供たちは皆あふれんばかりの笑顔である。

ウ~ン・・・ 私のごときがケチをつけることではないが、ただ…
大学生を前にして応援メッセージを発し、同時に教育予算の少なさを憂うのであれば、アフリカの井戸ではなく日本の大学に寄付したらどうか、と思ったのでした。

日本では教育にカネがかかる。苦しい家計をやりくりして子供の教育費を捻出している家庭はたくさんある。日本人だけではない。四苦八苦している留学生が如何に多いことか。家庭や学生側だけの話でもなく、教育・研究施設や教授陣への待遇など、投資すべきところはいくらでもあるのだ。

芸能人やスポーツ選手の多くが国内外の社会的弱者への支援事業に協力している。「24時間テレビ」といった番組や、その他さまざまな手段で我々一般人も募金活動に参加できる。それはそれで素晴らしいことに違いないが、そういった場面で「教育にも募金を!」と言えないものだろうか。


まぁ、それじゃあ全然アピールしないから、お金集まらないでしょうね・・・ 
ならば自分でやってみるか・・・ 将来ですよ、将来!

鴻毛のごとく軽い総理の座

2009-07-18 | コラム
7月13日の日経新聞のコラム「鴻毛のごとく軽い総理の座」は正に我が意を得たり、である。総理大臣という地位が軽んじられている状況を描きだし、メディアや政党の問題を指摘して、総理が毎年変わるような状況を脱却して安定した国家運営を図るには、そのシステムが必要であると述べている。

まずはマスメディアの問題からスタート。
総理に対し「麻生降ろしの動きが広がっているようですね。」と質問する記者の話が引きあいに出されている。総理大臣本人に向かって気軽に退陣問題のコメントを求めるなんて、総理の座とはなんと軽いことか。こともあろうに相手は一国の総理大臣である。これを「一国の首相を侮辱するような質問をすることがジャーナリズムだと錯覚している」と断罪する点は見事である。

私見だが、低俗な話題づくりにいそしむ姿も同じだ。総理が漢字を読み間違えたとか、大臣が会見で居眠りをしたとか、愛人と旅行したとか、そういう三流ネタを国家の一大事に格上げして盛り上がる。その話題が下火になれば、また次のネタを探すだけのことだ。我々日本国民にとって過去三年間、マスメディアから見聞きする政治とは半分がそういうものだった。

私見を続けると、閣僚たりとて普通の人間である。失敗もあろう。お金に関しては清廉であって欲しいが、それ以外は大目に見たらどうか。ところがいまや、日本の閣僚は仙人でもなければ務まらないかのようになった。この3年で一体何人が辞任したことか。もちろん野党議員だってただの人間。これまではメディアのターゲットになっていなかっただけの話だ。政権与党になった暁には白日の下にさらされる。きっと同じことの繰り返した。

さて、このコラムで指摘されている問題はマスメディアだけではない。政党や政治家自身も同じだ。このコラムでは「ここにきて衆愚政治極まれりの感がある」として、誰を広告塔にしたら選挙に勝てるかだけで総裁を選ぼうとする愚を描いている。人気のある政治家を総裁に選び、人気がなくなったと見るやあっという間に見捨てる。政党にとってもトップの座はそんなにも軽いのである。選挙となるとタレントを担ぎ出す姿勢も同じ。与野党共通である。

さらに、ここには書かれていないが、本当の問題は彼らを選ぶ国民自身に潜んでいる、と私は思う。「好きな芸人ランキング」や「来年消えそうなタレント」に投票するのと同じ感覚で「次の首相に相応しい政治家」に投票しているように思えてならない。政治家はお笑い芸人ではない。“不祥事”発覚でたちまち人気が落ちる。そしてその不祥事は多くの場合、政策遂行とは無縁である。しかも、その投票結果を見て議員が右往左往し、その様子をまたマスメディアが国民に伝える。悪循環である。

話を戻して、このコラムによると「政治情報が公開される度合いが強ければ強いほど、政治への不信感が拡大するという傾向」は先進諸国に共通しているらしい。つまり先進諸国では政治家はそもそも人気がないのだ。そういう状況の中、人気だけで総裁の座が左右されては腰をすえて仕事できようはずもない。人気などはある意味風次第。必ずしも総裁や政治家個人が資質に欠けているのではなく、総理大臣を支える仕組みが欠如しているのだ、との指摘に行き着く。

かつて大学院で勉強していた頃、ある教授が言ったのを鮮明に覚えている。「ある経済学者が世界中の自動車工場の生産効率を調査した。その結果面白いことがわかった。最も効率のいい工場はイギリスにある日産。最も効率の悪い工場も同じくイギリスにあるジャガーだったそうだ。両者ともイギリス国内だったのだ。そして日産の工場は概してどの国でも効率が高い。その教授の結論。「生産効率を決めるのは国や民族ではない。システムだ。」

同じことが政治にも当てはまる。日本の政治は三流、という決まり文句があるが、私はそうは思わない。このコラムの「立派な政治家はなぜ出てこないのか、などとないものねだりをするよりも、凡庸な人物でもつとまるような国家運営のシステムをつくるべきである」との指摘は正鵠を射ている。