アジア人財事典

アジア人財カンパニー株式会社 井上一幸 がお届けする粋な話題の数々

明けましておめでとうの意味

2011-12-26 | コラム
皆さま、おはようございます。本日はメールニュース55号をお届けに上がりました。
もうすぐお正月。新年になると「明けましておめでとうございます」って言うわけですけど、なぜ「おめでたい」のか、考えたことありますか?

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明けましておめでとう、の意味?
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私が中学一年生の時、3学期の始めにある先生がこんなことを聞いてきました。

「君たちねぇ、明けましておめでとうって言ってるけど、なんでおめでとうって言うか知ってるかね?」

まったく、ひねくれた先生って多いですよね、今も昔も。新年なんだから「おめでとう」って言って何が悪い!?理由なんかどうでもいいだろう。ところが、私はその時の先生の言葉を今でも覚えているから不思議ですね。きっと心に響くものがあったんでしょう。

その言葉というのは、
「気持ち新たにするからおめでたいんだよ。新しい年の始まりには、誰でも気持ちを新たにするだろう。だから、みんなして、おめでとうって言ってるんだ。誕生日も同じだ。逆にもし、気持ちを新たにしてないなら、新年でもおめでとうなんて言ったらイカン!」

なるほどね・・・
ところで私はここ数年、気持ちを新たにしていない。新年といえども、いつも考えることは同じ。だから別におめでたくないなぁ・・・。

その同じことというのは、
「なんとかならんか・・・?」

仕事のことも、その他どんなことでも
「なんとかならんか?」

そればっかりですよ、ホントに。

これは逆に考えると・・・、
 ⇒ 気持ちが新たにならない 
  ⇒ 新年を迎えない
   ⇒ 歳をとらない
ってことですかね。だったら悪くないか・・・!?

皆さま、良いお年を???


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お知らせ
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このメールニュースは、わたくし井上一幸または当社スタッフとこれまでにお会いいただいた企業の皆様への情報メールです。皆様にひとつでも多くの気づきをご提供したいという想いでお送りしておりますが、もしご不要の場合はお手数ですが下記までご一報いただければ送信停止致します。
連絡先:mailnews@asiastar.co.jp

編集・発行――――――――――――――――――――――――――
アジア人財カンパニー株式会社
井上一幸
(当メールニュースの内容についての責任は全て私個人にあります。
この点をご了解いただいた上で多くの方々にご笑覧いただければ幸いです。)


幸運を運ぶテントウ虫

2011-12-25 | コラム
伊集院静で『大人の流儀』という本がある。(いま書店に行くと、その続編が積まれている。)
彼の文章は歯切れ良く、時に痛快で、笑わせてもくれる。読んでいて惚れ惚れするとはこのことだ。

その中にこんなくだりがある。連載小説の最終回を記したその原稿用紙の上に、突然テントウ虫が落ちてきた。冬だというのに、である。テントウ虫は彼にとって幸運の女神らしく、「大事な勝負処でテントウ虫に出逢ったときは連勝」なのだそうだ。

・・・という部分を読んで数日後の今日、テントウ虫が落ちてきた。

週末は本を携えて書店営業である。合間の昼メシの最中、かばんを開けたちょっとした隙間からのぞける白い封筒、大切な本を詰めたその白い封筒に、ぽつりと黒いシミが。よく見ると赤い玉模様が二つ並んでいるではないか。テントウ虫だ。しかも季節は冬。伊集院静と同じである。

これはいい兆候だ。きっとこの本は売れる。

冷静に、冷静に、と言う冷静ではない人々

2011-03-25 | コラム
連日、地震関連と福島の原発のニュースで持ちきりだ。どこの国で起ころうと同じだが、海外ではコトが一層大げさに感じられてしまって、必要以上に人を遠ざける。今は残念ながら日本がその渦中にある。

こんなときは、メディアの役割なんていう大げさなことを考えさせられてしまうものだ。
正しく、かつわかりやすく伝えるのは難しい。テレビ局がそのために奮闘しているのはよくわかる。でも、なにげないワンシーンに、「えっ!???」と驚きを禁じ得ないこともある。

特に、私が「ちょっとそれ、おかしいでしょ!」と思わず叫びたくなったのは次の2つ。

一つ目。
私がそれを見たのは3月21日。あるSNSで、福島県在住で待避を余儀なくされている女性の、怒りのメッセージが“拡散”されていた。

「なぜ福島に住む私たちが、こんな目に遭わなくてはならないのか。あの原発で作られた電気はみな東京へ送られる。私たちはあの電気を一切使っていない。私たちは東京電力に場所を提供しているだけだ。東京の人はそれをわかってないんですか!なんだ、あのインタビューは!」

その方は、ニュース番組で流れた都内の街頭インタビューを見て怒りに火がついたのだそうだ。

そのインタビューを私も記憶している。関東の計画停電や交通網の混乱についてどう思うか、とマイクを向けられた人がこう言っているのだ。「被災地で電力が不足しているから、そっちに送らなきゃいけない。私たちだって少しくらい我慢しないと。」

我慢しようという気持ちは素晴らしい。しかしこれでは無知丸出しである。
被災地に電力を送るから東京で電力が不足するのではない。電力不足の原因は、「東京」電力の福島原子力発電所を始めとする発電施設が稼動を止めたことだ。そもそも、東北の被災地は「東北」電力にカバーされている。東京電力ではない。東京電力で電気が余ろうが足りなかろうが、東北の被災地とは無縁だ。

こんなインタビュー、ボツにすればいいのに、堂々と放映してしまうこの番組のディレクターは理解がなさ過ぎる。

一般の市民がその辺りを知らなかったり、誤解するのはしょうがないと思う。私だって無知と誤解の塊のはずだ。しかし、大切な情報を扱う番組がそんなエセ情報を流すなんて、誤解に輪をかけるばかりで百害あって一利なしだ。


二つ目。
これは3月23日か24日だった。東京の水道水に乳児の摂取制限を超える放射性物質が含まれていたというニュース。政府や都の水道局は「乳児」、しかも「1歳未満の乳児」と何度も言っている中、あるテレビ番組が保育園を取材して給食の担当であろう職員にインタビューしている。

その職員が「どんな料理するにしたって水道水使うんだから、これじゃ子供たちに何にも食べさせられない」と言って困っている。それ自体が誤解のはず(大量に飲み続けたら影響があるかもしれないが、料理に使う程度なら問題ない)だが、映像がその上を行っている。彼女の後ろでは、何も知らない園児がボール遊びで走り回っているのだ。そう、走り回っている!つまり1歳未満の乳児じゃない子供たちが映し出されている。あそこに映っているのはどう見ても2歳か3歳くらいの子供たちであって、乳児は一人もいない。
「こういうのは誤解ですよ、皆さん、正しい判断をお願いします」という文脈で使われるのならわかるが、もちろんそうではなかった。

乳児、乳児、1歳未満と何度叫んだところで、映像の力を以てすれば正しい情報など吹っ飛んでしまう。そういう映像を流す番組は、気づかいが足りなすぎる。

ただでさえ情報は混乱している。こんな未曾有の事態に全く混乱を来さないわけがない。でも、情報媒体が初歩のところで混乱しては一般庶民は救われない。

で、そういった番組の最後は、例の決まり文句で締められる。「皆さん、ぜひ冷静な対応を・・・」
何を言ってるんだか、全く。冷静じゃないのはあなたでしょう!

東京に住む自分たちにできること(東北関東大震災)

2011-03-17 | コラム
地震に続いてスーパーからモノがなくなり、そして計画停電。
会社の業務はままならず、電車はスムーズには動かない。首都圏の生活は一気に不便になった。
でもここは我慢するしかない。

我々東京にいる人間は直接の被災者ではない。むしろ被災者を応援しなくてはいけない立場だ。

そんな我々にできること。
募金は一つのいい方法だ。実際、世界中の人々が募金活動を通じて日本を支援してくれている。
しかし日本にいる我々には、もっと簡単で今すぐできることがある。
それは我慢することだ。

食事が少なくても我慢しよう。
寒くても耐えよう。
会社に行ったり家に帰るのに時間がかかっても、こらえよう。

電気のない人は何万人もいる。
食事が充分にとれない人は何十万人もいる。
通う会社も帰る家も無くなった人は、もっと多い。
そして今でも、瓦礫の下や、もしかしたら遠い海の上で、助けを待っている人がいるはずだ。

それに比べたら、電車が止まったりスーパーから食べ物が消えるくらい、どうってことはない。
苦しみを分かち合うとはそういうことだ。

我々にできることは、それくらいしかない。でもそれをしっかりやりたい。

国母服装事件の本当の問題

2010-02-16 | コラム
バンクーバーオリンピックへ向かう国母選手が、公式ウェアを着崩し、日本を代表する選手としてふさわしくない服装であったとして、本人はもちろん協会の責任を問うような騒ぎになっている。

あの着こなしが相応しくないという点では大方は一致していると思うが、協会の対応については様々である。即刻帰国させろ、という意見もあれば、やり過ぎだ、という意見もある。私自身は、服装も個性の一部とか、服装ごときで騒ぎすぎた、という考えには大反対を通り超して猛反対。身だしなみあっての大人である、と信じている。特定の競技に強いから他はどうでもいいとは思わない。特にあの反省記者会見は永久保存版だ。人格があって初めて競技の強さにも価値が出る。(朝青龍のことも同じだ)だから彼は召還されるべきだった、と思う。

ただ本当の問題は彼の服装でも態度でもなく、協会の対応でもない。その場にいた大人たちが注意しなかったことだ。(仮にしていたとしても、結果として直させるに至らなかったことだ。)

今回の世論の反応を見れば、あの服装を是とする人は多くないはずだ。そう、たいていの大人は、苦々しく思っている。彼だけに限ったことではない。高校生が制服をボロをまとうかのように着ていたり、若者と呼ばれる世代の公共の場でのマナーの悪さを肯定的にとらえている人はまずいなかろう。

にも関わらず、それを口に出して本人に言わないのだ。イヤホンから大音響があふれ出ている青年を見て、JRや地下鉄に苦情を言うかもしれないが、その場ではいったい誰が注意しているだろうか。社内や駅構内で座り込んでお菓子を食べたり、コンビニの駐車場で宴会を開いている若者を見て、駅員や警察に知らせるかもしれないが、その場でやめろ!と言って追い払う勇気ある大人がどれほどいるだろうか。
石原慎太郎が著作の中で、それを口うるさく注意するのは老人の勤めだ、と書いていた。そう言えば、私の母親もバスの車内や食堂などで悪ふざけをしている子供を見ると注意していたなぁ。その親が現れても動じたりしない。「これこれこういうことをしていたから、注意したんですよ」としっかり説明していたなぁ。

別の人の本で読んだことがあるが、現代の教育現場は「おこちゃま教」という危険な新興宗教に支配されているのだそうだ。個性を伸ばすとか自主性を重んじる、などという信条のもと、おこちゃまを崇めるのだ。だから誰もおこちゃまには逆らえない。たとえおこちゃまが悪さしても、逆らおうものならほかの信徒(親や教育委員会)にいじめられる。運が悪ければおこちゃまから暴力という罰を食らうのだ。

駅構内やコンビニ前でのおこちゃま騒動なら、そばにいる大人は見て見ぬふりをしつつも、駅員や警察に通報し、本人たちは、少なくとも形式的には注意を受けるだろう。今回はそれがマスコミ報道と開会式不参加に形を変えただけである。そばにいた大人たちは何も言わなかった。世間が騒ぐのを見て、オリンピック委員会が「処分」したというわけだ。

我々が今回見たものは、成人したおこちゃまの顛末である。おこちゃまが社会に出たとき、我々大人とともに繰り広げるドタバタ騒動。おこちゃま教のなれの果て。

かくいう私も、おこちゃま動物を見て見ぬふり、面倒なことには関わりたくない大人なのだが。

鴻毛のごとく軽い総理の座

2009-07-18 | コラム
7月13日の日経新聞のコラム「鴻毛のごとく軽い総理の座」は正に我が意を得たり、である。総理大臣という地位が軽んじられている状況を描きだし、メディアや政党の問題を指摘して、総理が毎年変わるような状況を脱却して安定した国家運営を図るには、そのシステムが必要であると述べている。

まずはマスメディアの問題からスタート。
総理に対し「麻生降ろしの動きが広がっているようですね。」と質問する記者の話が引きあいに出されている。総理大臣本人に向かって気軽に退陣問題のコメントを求めるなんて、総理の座とはなんと軽いことか。こともあろうに相手は一国の総理大臣である。これを「一国の首相を侮辱するような質問をすることがジャーナリズムだと錯覚している」と断罪する点は見事である。

私見だが、低俗な話題づくりにいそしむ姿も同じだ。総理が漢字を読み間違えたとか、大臣が会見で居眠りをしたとか、愛人と旅行したとか、そういう三流ネタを国家の一大事に格上げして盛り上がる。その話題が下火になれば、また次のネタを探すだけのことだ。我々日本国民にとって過去三年間、マスメディアから見聞きする政治とは半分がそういうものだった。

私見を続けると、閣僚たりとて普通の人間である。失敗もあろう。お金に関しては清廉であって欲しいが、それ以外は大目に見たらどうか。ところがいまや、日本の閣僚は仙人でもなければ務まらないかのようになった。この3年で一体何人が辞任したことか。もちろん野党議員だってただの人間。これまではメディアのターゲットになっていなかっただけの話だ。政権与党になった暁には白日の下にさらされる。きっと同じことの繰り返した。

さて、このコラムで指摘されている問題はマスメディアだけではない。政党や政治家自身も同じだ。このコラムでは「ここにきて衆愚政治極まれりの感がある」として、誰を広告塔にしたら選挙に勝てるかだけで総裁を選ぼうとする愚を描いている。人気のある政治家を総裁に選び、人気がなくなったと見るやあっという間に見捨てる。政党にとってもトップの座はそんなにも軽いのである。選挙となるとタレントを担ぎ出す姿勢も同じ。与野党共通である。

さらに、ここには書かれていないが、本当の問題は彼らを選ぶ国民自身に潜んでいる、と私は思う。「好きな芸人ランキング」や「来年消えそうなタレント」に投票するのと同じ感覚で「次の首相に相応しい政治家」に投票しているように思えてならない。政治家はお笑い芸人ではない。“不祥事”発覚でたちまち人気が落ちる。そしてその不祥事は多くの場合、政策遂行とは無縁である。しかも、その投票結果を見て議員が右往左往し、その様子をまたマスメディアが国民に伝える。悪循環である。

話を戻して、このコラムによると「政治情報が公開される度合いが強ければ強いほど、政治への不信感が拡大するという傾向」は先進諸国に共通しているらしい。つまり先進諸国では政治家はそもそも人気がないのだ。そういう状況の中、人気だけで総裁の座が左右されては腰をすえて仕事できようはずもない。人気などはある意味風次第。必ずしも総裁や政治家個人が資質に欠けているのではなく、総理大臣を支える仕組みが欠如しているのだ、との指摘に行き着く。

かつて大学院で勉強していた頃、ある教授が言ったのを鮮明に覚えている。「ある経済学者が世界中の自動車工場の生産効率を調査した。その結果面白いことがわかった。最も効率のいい工場はイギリスにある日産。最も効率の悪い工場も同じくイギリスにあるジャガーだったそうだ。両者ともイギリス国内だったのだ。そして日産の工場は概してどの国でも効率が高い。その教授の結論。「生産効率を決めるのは国や民族ではない。システムだ。」

同じことが政治にも当てはまる。日本の政治は三流、という決まり文句があるが、私はそうは思わない。このコラムの「立派な政治家はなぜ出てこないのか、などとないものねだりをするよりも、凡庸な人物でもつとまるような国家運営のシステムをつくるべきである」との指摘は正鵠を射ている。

もっとお金を・・・(税金は道路より人材に)

2009-04-21 | コラム
4月20日の日経新聞に「人材立国脅かす教育費高」というコラムがあって、ショッキングな内容だった。学校や塾にかかる費用が如何に高いか、という話だが以下に少し抜粋。

文部科学省などの調査によると、塾などの費用を含む「幼稚園から大学までの平均的教育費」は、
 ① 「すべて国公立」で                約900万円
 ② 「小中高は公立であとは私立」        約1250万円
 ③ 「小学校だけ公立であとは私立」の場合  約1600万円
 ④ 「全て私立」となると              約2400万円
だそうだ。
この数字だけだと、高そう~という感想で終わってしまうので年当たり、月当たりの費用を計算しましょう。

幼稚園から大学卒業まで18年間で終わらせたとして、一年での支出は
 ① 50万円
 ② 70万
 ③ 90万
 ④ 133万
子供一人当たりで。

月毎にすれば、
 ①   4万
 ② 5.8万
 ③ 7.5万
 ④  11万
なるほど、③のパターンで私立の中高生2人となると、月15万円。けっこうするなぁ~

とはいえ、教育費が高いということはなんとなく知っていたのでそれ自体は驚くことではない。では、何が私にとってショックだったかという以下の2点。
1 フランスでは公立高、国立大とも授業料ゼロ。
授業料がタダなんて、いまどき共産主義国家でもない、と思い込んでいたらそうでもなかった。「フィンランドも授業料はただ」とこの記事は続く。
ショック!  さらに、
2 「満足な医療保険制度もない米国でさえ教育には多額の公費を使っている」「在校生一人当たりの国・地方の教育予算はOECD加盟国で、アメリカが一位、日本は8位。」
ショック!

我々は健康保険、厚生年金の費用負担を義務付けられている。自分自身のためというより自分の親の世代の為に。それも、制度が立ち行かなくなりつつあることを承知の上で。そのお金を次世代の教育に使えないものか。このコラムは次のように述べている。
  「教育は子供自身(のため)だけでなく社会のため」である。
  「教育に税金を使うほうが、新幹線や農業土木に投じるよりはるかに建設的である。」
そう、その通り。建設業に投じるより建設的、という表現が面白くかつ説得力もある。

さらに、3月7日の『地球回覧 ― 「産む国」のフランス、経済の懐深く』にも似たような話がある。出生率の高いフランスが紹介されていて、
  ○ フランスの2008年の出生率(速報値)は2.02」(日本は2007年で1.34)
  ○ 女性の就業率(2006年)もフランスの方が高くて64%、日本は61%。
  ○ 育児や家族関連の公的支出のGDP比は、フランスが3%超で日本は1%未満。
などなど。
とくに3番目。日本の場合は育児に対する公的支出がどうも少ないようだ。もちろんこの類の数値はここ10年くらいで改善されているのだが、まだパッとしないのが現状。
この文章は結論でこう述べている。「出遅れのツケは十年、二十年先に回ってくる。」

そう、育児も教育の一部ととらえれば同じこと。
「土木建設に税金を使うより教育に使った方がはるかに建設的」のはずだ。

日本人の思い込み?③

2008-06-28 | コラム
③ 日本語はあいまい?

これは私が仕事上よく耳にする思い込み。 特に引用できる記事や本があるわけじゃないが、私は日本語は決してあいまいではないと確信している。同時に日本的経営があいまいというのも表現として適切でないと思う。「日本=あいまい」という一般化した思い込みにあてはめて、わかったような気になるだけである。

英語圏で暮らしたことのある方も多いと思うが私もその一人で、仕事であれ日常会話であれ、うんざりするほどくどくど説明されるのには閉口したものだ。
分かりやすいというレベルを通り越して、
  「そこまで言わなくってもわかるっつーの!!!」
  「言い訳がましいんだよなぁ、まったく!!」
  「結論だけ言ってくれよ、結論だけ!」
というのが、私の率直な感想。

当然ながら、彼らから日本を見れば全く逆の気持ちになるはずだ。日本人は彼らのように懇切丁寧に(くどくど)説明しないから。つまり「日本人の言うことは短すぎる=説明が足りない=理解できない=何が言いたいのかわからない。」となって、「日本語はあいまい」という定説が生まれたんだと思う。
日本人は自分がわかっていることは相手もわかっていると思い込んでいるフシがる。あるいは「わからなければ見て覚えろ!」なんて勝手に考えている。さらに、自分がわかっていることは「いちいち言わない。」だから②のコラムのように日本人は説明能力不足というのは正しい指摘である。

ただそれは「あいまい」とは別だ。日本語でも正確で細かい表現はいくらでも出来るし、盛りだくさんの議論も出来る。ディベート(論理的思考力を競うゲーム)だって日本語で出来るし、現に方々でやっている。(日本社会人ディベート連盟という組織があって、私もかつて加入していました。)
日本語は決してあいまいではないし日本人の思考もあいまいではない。細かく伝える努力が足りないんです!


最後に、今回のオチ・・・ 最近国際会議が多いですよね。環境関連の国際会議や今月ローマで開かれた“食糧サミット”。来月日本で開かれる本家本元のサミット(先進国首脳会議)。さらには北朝鮮をめぐる“6カ国協議”。
そういった会議のお決まりの結論ってなんでしょう?・・・ 「あいまい決着。」 
そういう会議は大体英語でなされているんでしょう。“6カ国協議”では各国の言葉が平等に使われている(韓国語、中国語、英語、ロシア語に日本語)はずだが・・・あいまいなのは万国共通か。

日本人の思い込み?②

2008-06-28 | コラム
② 日本人はグローバル経営が苦手?

次に6月25日 日経夕刊の十字路というコラム。
『日本板硝子が英子会社ピルキントンの英国人社長を次期社長に抜擢する人事が話題になっている。グローバル化を担う国際的経営感覚を持つ人材が日本側にいないというのが会社の説明だ。・・・ 投資家から見れば経営層の国籍は二の次で、世界市場を効果的に開拓し、世界のローカル組織をうまく束ねられる人に経営してほしい。』その通り、100%賛成。

ただし本題はここに続く一説。『最近の日本企業は海外企業の買収には意欲的な一方で、グローバル経営は日本人には無理と思い込んでいるフシがある。・・・ 日本政治研究の大家、ジェラルド・カーティス教授によれば、日米欧の経済システムのうちユニークなのはむしろアメリカだという。だが日本人は日本が異質で米国企業のやり方が世界標準と思い込んでいる。』
なるほど、米国企業のやり方が世界標準というのは「思い込み」らしいですよ。これも100%賛成です。

このコラム、私のお気に入りなので引き続き引用しますが、
『グローバル経営という観点から日本企業にもっとも欠如しているのは経営コミュニケーション能力だろう。単に英語力の問題ではない。ビジョンや世界戦略などを世界中の顧客や従業員に向かってきちんと発信し、論理的に説得する力を指す。・・・日本企業は自らのスタイルを普遍化し、世界に浸透させる努力をもっとすべきだ。あいまいな日本の経営が美徳とされた時代は終わった。』
となります。

なるほど、日本の経営はあいまいなのか~ えっ、本当??これには賛成しかねる。そこで3番目の思い込み、「あいまい」について。

日本人の思い込み?①

2008-06-28 | コラム
自民党に外国人材交流推進議員連盟というのがあって、今後50年間で総人口の10%にあたる約1000万人の移民受入れを目指すべきだ、という提言をまとめたそうですね。(6月12日発表) 50年で1000万人だと、平均で年間20万人。実は私、今年1月のメールニュースで10年後は年間50万人が移民する、と予想しているんです。だから私の方が上!!
ところで、1月のメールニュースへの返信で次のようなものがあった。
「今回拝読して、日本に永住権のある外国人がそんなにいるのか意外でした。日本は、外国人の受け入れに門戸を閉ざしていると思い込んでいたのかもしれません。」

周りがそう言うので「そうなんだ」と思い込んでいることは結構多い。「日本は移民鎖国である」って思い込んでいる人いますが、そんなことはありません。今日はそんな“日本人の思い込み”を3つ書きます。まず一つ目。

① 日本人は集団主義?
少し前だが4月26日の新聞に、「日本人は集団主義」ではない?というコラムがあった。東京大学と京都光華女子大学のグループが心理学の実験から得た結果らしい。実験内容は省き結論だけ引用すると「日本人は和を乱すことを嫌い近しい人の言葉には同調しやすいという通説は間違い。米国が異なる文化を持つ国に投影したイメージを、日本人自らが信じたと考えられる。」とのことだ。
つまり、「集団主義だ。」と外国から言われたのでそう思っているだけのことである。

昔読んだ本にも同じテーマがあった。記憶をたどって要約すると大体以下のような感じ。「日本人は集団主義だというが本当だろうか。伝統的なスポーツで見てみよう。ヨーロッパはサッカー、アメリカはバスケットボールと野球。どれもチームプレーだ。対して日本は相撲が個人競技、柔道も個人競技。日本人は個人で勝負するのが好きなのだ。」
ほかにもある。代表格が日本人の大好きなゴルフ。4人一組とはいえ一人でやるスポーツだ。オリンピック競技で日本人の好きな種目は?水泳:個人種目。フィギュアスケート:やっぱり個人種目。究極がマラソン:まさに孤独の戦い。

どうですか?日本人は集団主義じゃないでしょう!?

かくれキリシタンの聖書

2008-05-25 | コラム
日経新聞朝刊の「私の履歴書」のかくれファンは世に多いのだと思うが、かく言う私もなんとなく毎朝目を通している一人だ。今月は民俗学者の谷川健一氏の履歴書で、なかでも先週の金曜日の「かくれキリシタン - 感動的な日本的聖書」はまさに感動的だった。
あまりにも面白いので、一部をそのまま引用します。

“外海町(長崎県西彼杵半島)の黒崎にはかくれキリシタンが江戸時代から言い伝えてきた物語があり、それが「天地始之事(てんちはじまりのこと)」と題して今に残されている。この手づくりの聖書は、教会の伝える聖書とはまるきりちがう内容で、著しく日本化されている。その中でも、マリアは大雪の夜、旅さきの家畜小屋に宿を借りて産気づく。寒中のことなので、牛と馬が左右から息を吹っかけて、生まれたばかりのイエスを凍えないようにしてやった。夜が明けると、家主の女房が出てきて、哀れに思い、自分の家に連れていったが、薪がないので、大切にしていた機織りの道具を折って火にくべ、マリアと赤ん坊のイエスの身体をあたためてやった。ご馳走にソバ飯をこしらえて差し出すと、イエスは母のふところから手を出してそれをいただいた、とある。
この箇所は聖書には見当たらない。しかし「天地始之事」のなかでも、もっとも感動的な場面の一つである。”

ビックリ仰天・・・隠れキリシタンたちの間にこんな言い伝えがあったとは。あまりにも面白いのでもう一回書きますが、
 “寒い冬の夜、生まれたばかりのイエスに牛と馬が息を吹きかけて暖めてあげた”
 “翌朝、家の女房が、薪がないので機織り道具を折って火にくべて、マリアとイエスを暖めてあげた”
 “ご馳走にソバ飯をつくった“
これに相当するような場面はもとの聖書にはない。だからこれは日本的聖書というよりも隠れキリシタンの完全な創作なわけだ。特に、生まれたてのイエス・キリストが、牛や馬などの“畜生”に息を吹きかけられた、などとはフランシスコ・ザビエルが知ったら怒り心頭だろう。教皇庁からは確実に破門だ。

とはいえ、隠れキリシタンたちのアナザーワールド、かつての民衆生活の優しさがそのまま反映されているようで拍手喝采モノである。

日本は世界で第何位?

2008-05-06 | コラム
『日本は世界で第何位?』という本があって、日本に対するイメージや日本人自身が思っている日本像が、客観的に観たらどれほどなのか気づかせてくれてなかなか面白かった。

そのうちの一つ --- 日本は大きいか小さいか、を客観的に観ると・・・

日本は島国、ゆえに「狭い」と日本人ならほぼ100%信じているはずだ。日本の国土面積は37.8万平方キロメートル。これが世界の中で見たら広いのか狭いのか、大きいのか小さいのか。

世界規模で比較する前に、G8の国々で比べたらどうなるか。ロシア、カナダ、アメリカが日本より広いのは誰でもわかる。ではそれ以外では?

答え-上記3カ国の次はフランス、その次が日本。
日本はドイツ、イタリア、イギリスより広かった。知らなかった・・・

では世界レベルでは?
193カ国のうち日本は62位。うーん、たいして広くはない。上から三分の一になんとか入っている感じ。
アジアの中ではどうか。答え-39か国中17位。これなら半分に入る。 まぁ、決して小さくはないか・・・  この本の著者も日本人なので日本びいきに見たくなるんでしょう。

驚いたのが「もし日本がヨーロッパにあったなら」として紹介されているところ。
なんと日本の面積は第7位になる。上位2カ国はロシアとウクライナだから、日本人が普通にイメージするヨーロッパ(西欧、北欧)と比較すると、フランス、スペイン、スウェーデン、ノルウェーに次いて5番目の広さ。

ちなみに、国の大小としてこの本で紹介されている他の項目での日本のランキングは以下のとおり。
経済力:2位
軍事費:5位
人口:10位

では、そのほかにこの本で紹介されているビックリ項目、ナットク項目をいくつかあげましょう。

ジニ係数でみる平等ランキング:
日本は2位 (1位はデンマーク、3位はスウェーデンとベルギー)
・・・[近頃の格差論議っていったい何なのか?]

タクシー運賃の高さ:
日本は3位 (1位 スウェーデン、2位 フランス)
・・・[最近都内のタクシー料金、また値上げされたなぁ??]

一軒あたりの平均床面積:
日本は5位 (下から、ではなく上から5番目!!)
・・・[よくわかりません!? 一軒家だけ取った統計か? アメリカと比較して狭いと思っているだけか? ]

ちなみに4月26日の記事で、「日本人は集団主義」ではない? というコラムがあった。結論だけ引用すると「日本人は和を乱すことを嫌い近しい人の言葉には同調しやすい、という通説は間違い。米国が、異なる文化を持つ国に投影したイメージを日本人自らが信じた、と考えられる。」とのことだ。
これはとても大事なことで、周りがそう言うからそう思っている、という「勘違い」は多いように思う。上記はその一つ。先月の『よその国はどうだろう』もそうです。

追記:朝日新聞5月22日の記事のよると、日本は世界で5番目に平和な国だそうだ。イギリスの調査機関によるもので、世界140カ国・地域の中で一番平和なのはアイスランド。日本は5番目でG8の中ではトップ。

追記2:7月に手にしたR25の中にあった記事。創業200年以上の老舗会社数ラインキングで 日本や約3,000社でダントツの一位。二位ドイツ約800社、三位オランダ約200社。日本には100年以上の会社が約十万社、1,000年以上続いている会社が7社あるらしい。

 

人材のチカラ!

2008-02-06 | コラム
いつも新聞を何気なく読み流してしまうことが多いのだが、「人材」とか「職」とかいう単語があるとどうしても目がいってしまう。その中でも「おぉーっ!」と感激したのが少し前だが、竹中平蔵教授(前の総務大臣)の「社会が求める人材、必要な4つの力」という慶応大学での講演の要約記事(平成19年11月23日)。ここでその一部を紹介することにします。

竹中教授は『「新しいものを生み出すのは資本ではなく、人間の力である」と考える。そして、この四つの力を身につける教育こそ、未来を切り開く人材の育成につながる。』のだそうだ。その四つの力とは・・・テクノロジー、デザイン、マネジメント、ポリシーである、ってちょっとカタカナ多くてわかりづらいが。

新しいものを生み出すのは資本ではなく、とはこういうこと。かつて国民所得倍増計画で名を知られる池田内閣のブレーンだった下村治氏は、将来を作るのは資本の力だ、と主張したそうだ。実際この理論は当時は正しくて、成長とはどれだけ投資し、資本を蓄積できるかで決まる時代が続いた。1960年前後の日本の高度成長も近年のアジア経済の発展も資本の力で成し遂げられた。

残念なことに経済成長とともに投資比率と資本の生産性が落ち、成長率も下がっていく。これも自明のこと。一般に先進国の成長率より発展途上国のそれの方が大きい。ところが90年代のアメリカはこの理論を覆した。世界で最も成熟しているアメリカ経済の成長力が急速に高まった。それはIT革命(デジタル革命と言っても同じことだと思う)による新しい技術を社会が取り込み、活用できるようになったからだと考えられるのだそうだ。

続いて翌24日の日経新聞の社説でこんなのがあった。「最近の世界経済で目を引くのは、アイルランドやフィンランドなど人口一千万人に満たない元気な小国だ。これらの国はITを軸に独自の産業集積を実現し、世界の中で存在感を獲得した。」えっ、そういう国が目を引いているの?と思うかもしれないが、それは実際にそうで、これらの国の一人当たりGDPを見ると如実に上昇、世界の順位は一桁台で、かつて何の不思議もなく世界トップクラスだった日本はいまや20番台の手前だ。これら北欧の小国はデジタル革命を経て成長力を高めたのだと考えられる。

今起こっているのはデジタル革命なのだそうだ。デジタルと普通に使っていてもどういうことかというと、音声、映像、文字などの情報を数字に置き換える技術のことを言うそうだ。目に見える情報がなんでもデジタル=数字に置き換わって世界中と交信できる、それがデジタル時代だ。

このデジタル革命が90年代のアメリカで起こって、その革命がいま世界中に伝播している最中なのだろう。図らずも私はその時アメリカに住んでいて、会社でも家でも何でもメールだなぁと驚いたものだが、それが革命のはしりだったのだろうか・・・

北欧のアイルランドは硬貨の発行がほとんど無くなってしまったらしい。なぜかというと、クレジットカードや非接触式ICカード(エディやスイカのようなカード)が社会の隅々まで普及しているから。
なるほど、キーワードはIT、IT、IT・・・ 私がよく相談を持ちかけるある会社の社長も、これからはITとアジア、ってよく言ってる。

そういえば最近よく分からない単語が増えてきた。SNSとかセカンドライフとか。まずいな、ついていかないと・・・
これからの時代、成長をリードするのは資本(=お金)じゃない、人材、つまり自分自身の生産性だ。

外国人ホワイトカラーの時代

2008-01-15 | コラム
TIME Asia (英字誌)の昨年12月17日号の表紙を見た人はいるだろうか。日の丸(日本の国旗)の下半分が黄色い星(五紅星旗のイメージ)のついたドアになっていて、そのドアが日の丸の内側に向かって開いている。「日本の扉を開けて中国人が入ってくる。」そんな様子をうまく表現しているのだ。
表紙を飾るタイトルは
「Japan’s Open Door – Japan is letting in ever greater number of immigrants from China – in the process changing forever the character of both nations」。

この特集記事は、単純労働者ではないホワイトカラーとしての中国人を紹介している。私も最近「中国人ホワイトカラー」という単語を使っているので、まさに我が意を得たり、だ。

ホワイトカラーとして外国人が考えられる時代(欧米系の“白人”ではない外国人)はきっとすぐそこなのだと思う。

声に出しにくい日本語!?

2007-12-02 | コラム
ここのところの日本語ブームにもかかわらず私はその手の本を一冊も読んでいないので、気楽に反抗心をむき出しにできるのだが、「最近何を言うにしても、ちょっと丁寧過ぎないかなぁ」と密かに思っている。

先日の新聞で「子供がパスモを使って改札を通ると、保護者の携帯にお知らせメールが行く」というサービスの紹介があった。これ自体新しい話ではない。しかしビビッたのはそのメールの画面。「花子さんが~~駅を入場されました」と書いてある・・・!? 子供が「~~されました」なんて言うか、フツー?

もちろんこのサービスの対象は子供に限っているわけじゃない。お年寄りにこそ役に立つのは百も承知。それにしても「~~を通過しました。」とか「~~に入場しました。」でいいんじゃないの?

それと、もう一つ。
私が余り多用したくないのは「させていだだく」という日本語。卑屈になり過ぎてるんじゃないかと思うから。その上発音しにくいし。
当社に営業に来てくれる新米社会人が「是非とも~~させていただきたいのですが・・・」って何度も繰り返すと、逆にこっちの態度が大きくなりそうで嫌になる。

カタカナが多いのにも閉口する。「弊社はオンリーワンのテクノロジーでクライアントのネットセキュリティーソルーションをサポートさせていただいております・・・!?」なんて言われたら、たとえ興味あっても即座にお断りサセテイタダキマス。 以上っ!