フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

補足

2006-05-09 19:43:44 | 哲学・思想
以下は、当ブログ内記事「ニートって言うな」「不登校って言うな」1,2
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/8b453bc77740595ab7b5aec13dd3b746
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/9cccf62c9230fff1fff03ab93cea3d38

への補足です。

この記事が脱学校者叩きに使われることへの警告

<2006.5.9補足>なお、だからといって、子どもが学校に行かなければならないわけではない。子どもの学校に行く・行かないの権利は尊重されてしかるべきだ。それが有名無実化するようなすさまじい社会の学校化も解除されてしかるべきだ。
こういう話をすると、「だから学校には行け。行けばなんとかなる」とう話と混同されるかもしれない。だが、誤解のないよういっておきたい。学校に行きさえすれば、不安定雇用がなくなるわけでもない。「不登校親の会」が、就職の斡旋をしなければならないわけではない。ましてや、フリースクールはなおさら関連性がうすい。登校拒否が国の経済の足を引っ張るなどという議論など、論外だ。
また、このことによって、これまで登校拒否でもいいじゃないかと言ってきた人びとへの価値おとしめがなされてはならない。いわゆる「閉じこもり・ひきもこり」のことについて、これまでたとえば渡辺位といった「登校拒否でもよい」とする論者は、講演や著書のなかで言及してきた。
なお、「明るい登校拒否」か「暗い登校拒否」といった議論は、登校拒否への偏見を反省しない東京のマスメディアが勝手に言い出した概念である。そして、登校拒否という、それ自体病気でも症状でもないものを、病院にくくりつけるために、専門家集団が「明るい登校拒否は治療しにくくて困る」などと難癖をつけて、なんとか医療の専門家の監視化におきたがってきたのも事実だ。それに対して、素人の利益に近い立場の専門家は、医療は必要ない、クスリづけは危険だ。登校拒否の症状の一部は医原病だ、といった警告を発してきた。
フリースクールは、公教育とは別の教育をめざるさまざまなスクールの総称である。そこに、登校拒否を矯正する機関とのイメージをかぶせると、実態を見誤る。
この記事は、「不登校」の子どもたち、親たちの「自己責任」を訴えるものでは断じてない。登校拒否・不登校をひとくくりに「悪」とみなさない前提に立っている。それが善でも悪でもない、あたりまえの子どものありかただとすれば、誰の責任を追及するということもなくなる。
山田さんも、当初「登校拒否でもいいじゃないか」と言った、その必要性・妥当性は認めている。しかし、もうそろそろ「登校拒否/不登校って言うな!」を言う時期に来ているんじゃないか、との見解だ。わたしは、時間軸ではなく空間軸においてこの見解に賛成している。学校に行かない、たったそれだけのことで人をひとまとめに悪者扱いする勢力には、これからも「登校拒否でもいいじゃないか」と切りかえす必要がある。しかし、何が本当の登校拒否かといった本質主義的な議論や、登校拒否の責任追及や正しい直し方をめぐるハイアラーキー争いに対しては、「登校拒否って言うな!」という問題の脱構築こそ必要になってくる。
<2006.5.9補足>


バックグラウンド


ちなみに、山田さんのバックグラウンドを。
この山田さんという人は、元・全共闘、研究会・「職場の人権」会員、「学校に行かない子と親の会・大阪」世話人、定時制高校の教諭にして私立文系大学の教員をつとめ、かの「ハマータウンの野郎ども」の共訳者であり、さらに日教組の委員長でもある。さすが、山田さんは、とイウエッセーだ。本人は気まぐれに書いていると謙遜するが、質は高い。「写経」していて、「うん、そうだよね」と思った。