フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

信濃毎日の記事より

2006-05-23 23:45:51 | イベント/ミーティング
↓信濃毎日新聞に長野のプレカリアート・オフの記事が出ています。他の府県でもプレカリアートオフが行われたのはうれしいかぎりです。それに、ユニオンぼちぼちのことが出ているのもいいですね。
http://www8.shinmai.co.jp/job/2006/05/13_001917.html

このなかで気になるのは、熊沢 誠さんのコメントです。
若者が地域に定着しなければいけないとおっしゃっています。

なぜ? もしも保守的な地域にねざせば、デモをやるなんて「アカ」か「キチガイ」扱いです。そして、地域共同体の一員らしく、デモをやる人の悪口を言ったりのけものにしたりしないと、文化不適応になってしまいます。
地域住民のなかにとけこむためには、フリーターたたきやニートたたきに同調する必要もあるでしょう。(残念ながら、それをやっているのが一部の地域ユニオンです。)
逆です。労働組合は地域から浮いているほうがいい。でないと、企業城下町で殿様企業はすき放題やり放題です。その地区の寡占企業や地元ボスにへいこらする労働組合に、わたしたち不安定雇用の者、あるいは地元の下請け・孫受けの会社はムリを言われ、大企業好みのファッションや立ち居振る舞いさえ求められてきた。それを断ち切るためには、地域共同体から離れた組合や、それに類するグループやネットワークが必要ではないでしょうか?

それに、定着って何? いろいろな地域のいろんな会社を渡り歩く人々を、まるで差別するもの言いではありませんか。
牧畜民だからといって、使い捨てられていいわけではないのです。わたし自身も交通調査の仕事で鳥取や名古屋のほうに行ったことがあります。そういったことを「地域に定着していない」を理由に否定されるのはなぜでしょうか?。
ここでの地域って何なのか分かりません。大阪なら大阪地域だけで仕事・生活しないといけないのか? それとも東アジア地域として日本・中国・朝鮮で仕事をしろということなのか? 
これは、そもそもフリータ=ふらふらしている→ロクでもない という根拠なき偏見・感情論でしょう。こういった農耕民族中心主義とは闘っていきたく思っています。遊動生活を送る牧畜民や狩猟採集民にだって悪くない職場で働いたり、失業したら助けてもらったりする権利はあるのだから!

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8 コメント

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ちょっと待って (土肥)
2006-05-24 10:10:38
熊沢誠のコメント

ダメーデーやユニオンは、若者の労働者が手をつなぎ合って、非正規労働者でも生活できる権利がなければうそじゃないか、と発言権を求めていく動きの芽。ただ、現段階では連帯が徹底的に弱い。非正規の中でも最も孤立、漂流しているフリーターが助け合う仲間を見つけるには、地域で定着していけるかがかぎだ



 このコメントは別にワタリさんが受け取っているような意味ではないと思いますよ。ここで言う地域で定着とは普通にわたしたちの運動が認知され、困ったときに労働組合に相談する、さらには組合に加盟するのが当たり前という状態まで持っていくことでしょう。そういう意味では私はこのコメントに敵意は感じません。

 それとういていていいとは私は思っていません(うくことを恐れてはいませんが)。私たちは現在の状況に対して変革を求めています。そのためには多数を獲得しなければなりません。私たちには権力も財力もないのですから。孤立の状況に想像力を持ちつつも、孤立したままでは我々の望む状況を構築できません。その辺のことは再考いただければ幸いです。
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長野県って… (きょろ)
2006-05-24 22:02:22
ワタリさん 土肥さん こんばんわ きょろです。

ちょうど松本のダメーデーのことを書こうと思っていたもので、タイムリーな記事ありがとうございます。

松本駅前でのダメーデーのことは4月に長野市で行われた斎藤貴男氏の講演会「ニート・フリーターを労働問題として考える」に参加した時しりました。その時点できょろはプレカリアートという言葉も不安定就労についてもまったくの無知でしたので、ダメーデーの日に就職の面接を入れてしまい、参加できませんでした。



「地域に密着」って言うのは長野県では「合言葉」もしくは「掛け声」あるいは口癖とか枕詞みたいなものなんだと思います。だから、記者はやっぱりそういうの入れたがる。コメントの主旨が地域に密着だったかどうかは疑わしいと思う。

長野県はよそより10年早く高齢化が来て、その一方で若者の流出が止まらない。若者が「地域に密着」してはほしいのは大人たちの切実な願いなんでしょう。だからといって密着してないことを非難しているわけではないんだと思います。都市部とは事情が違うことをご理解ください。

地場産業とは言ってもそこにもすごい派遣の波が押し寄せていて若い人の正規雇用や再就職の道があるわけでもなく、とはいえ親は家や田畑があったりして、パラサイトも可能だからアルバイターやフリーターの若い人は多いと思う。けど、自分の権利なんかには無自覚な人も多いと感じています。



私は「地域に密着した」(笑)信濃毎日新聞が「プレカリアート」を取り上げただけでもすごいことだと思う。

実際にダメーデーに参加された方もすごいけど。

私も参加したかった。

こうした小さくても確実な歩みは必要なんでしょう。

もちろんワタリさんのおっしゃる通り牧畜民の権利だってあるはずだし。



今後も鋭いワタリさんの視点に注目しています。

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脱地域で何が悪い (ワタリ)
2006-05-25 23:22:37
土居さん、きょろさん、いらっしゃいませ。

まとめレスで失礼します。



>土居さん



ご意見ありがとうございます。



ちかぢか熊沢さんと顔をあわす予定があるので、くわしく聞いてみたいと思います。

ただ、信濃毎日のネット版の記事によると、主観的にはともあれ、客観的には地域に密着していない/できないのはダメという、一連の若者バッシング報道と同列に見えてしまいます。



もちろん、彼が、若者から近い立場でものを言う人であることは存じています。



だけど、わたしの実存からして、地域に密着しろというのは死ねというに等しいのです。保守的で窮屈な田舎を出て都会に働きに出ることは、そんなにいけないことでしょうか。

かつてわたしは愛媛県で、子どもの権利のための子どもによるグループをやっていました。

そのとき、いやがらせのカミソリの入った手紙がまいこみました。あるいは、親の育て方がなっていないとかいう電話がかかってきたりしました。家の前に汚物をまかれたことも一度や二度ではありません。かわいがっている犬を殺すという内容のハガキもきました。近所で自転車を運転していたら、いきなり胸をわしづかみにされたこともありました。

それらは、すべて地域共同体の手によるものです。「みんなそう言っている」「世間がそう言うのだ」それが、彼ら・彼女らが自分たちの行為を正当化するために使う論拠でした。そう、わたしは、わたしの家族ーーコンパニオン・アニマルも含むーーは、みなと違う、浮いているからいけないのです。アムネスティに出入りしたり、アジアスワニーの同じ十代の女子労働者を支援する集会に顔を出したりする浮いた存在は、絶対悪なのです。それ以来、わたしは浮いていてもいい、と開き直りました。そして、地域共同体を捨て、都会で働きはじめたのです。自分の選択と実存を、地域共同体存続のための人柱にする気は毛頭ありません。

浮いていても、人権はあります。したがって、浮いているといけない、という議論には賛成できません。



>ういている からいじめていい、というのは、いじめ・いやがらせを正当化するための詭弁にすぎません。どうしていじめられているの? 浮いているから。そうか、アンタ浮いているからいじめられるんだ。

これはトートロジー(同義反復)です。



そんなものにひれふしているようでは、明確に法律や条例にはひっかからないが本人に苦痛を与える職場のいじめ(ギロっとにらむ、派遣のものにわざとボロの机やユニホームをあてがう、シカト、仕事をとりあげるなど)に抵抗できないでしょう。労働組合の人権意識が問われているのではないでしょうか?



なお、わたしは熊沢さんに敵意があるかどうかという主観的な話はしていません。そんなことはどうでもいいのです。問題は熊沢さんの言論です。彼の心理には興味がありません。



>きょろさん



>松本駅前でのダメーデーのことは4月に長野市で行われた斎藤貴男氏の講演会「ニート・フリーターを労働問題として考える」に参加した時しりました



長野でもそういう集まりの音頭をとる団体があるんですか? いいですね。



>「地域に密着」って言うのは長野県では「合言葉」も>しくは「掛け声」あるいは口癖とか枕詞みたいなもの>なんだと思います。だから、記者はやっぱりそういう>の入れたがる。コメントの主旨が地域に密着だったか>どうかは疑わしいと思う。

>長野県はよそより10年早く高齢化が来て、その一方>で若者の流出が止まらない。若者が「地域に密着」し>てはほしいのは大人たちの切実な願いなんでしょう。>だからといって密着してないことを非難しているわけ>ではないんだと思います。都市部とは事情が違うこと>をご理解ください。



地元からの情報提供をしていただき、ありがとうございます。

なるほど、長野にはそういう事情があったのですね。おかげさまで、ひとつ学ぶことができました。



>信濃毎日新聞が「プレカリアート」を取り上げただけでもすごいことだと思う。



わたしもそう思います。



>実際にダメーデーに参加された方もすごいけど。

私も参加したかった。



そうでしょうね。なんとか今度は参加できるといいですね。





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わたしもダメーデー参加してみたかった (リリコ)
2006-05-27 12:16:45
ワタリさんが「わたしの実存からして、地域に密着しろというのは死ねというに等しい」と思うように、「地域に密着したい」と思う人も多いと思います。というか、お恥ずかしいですが、私はそうです。



世の中には「孤独でも大丈夫」という人もいるとは思うんですが、「連帯感を実感したい」人も多いんじゃないかなって思います。そういうと、知り合いの孤独が平気なフリーター仲間には「自立しないで恥ずかしい」とか「自分の意思をもて」とか言われちゃうんですが……。



そして、そんな私から見ると、この記事に出てくる「地域に定着」は、「フリーターの声をもっと皆に聞かせるには、ダメーデーやユニオンの集会などが、地域で当たり前のように開催(つまり、地域に定着)されるようになるかが鍵」って読めました。じゃなければ「同じ地域にいたほうが、助け合う仲間を見つけやすい」と書いてあるのかと。「地域に密着していない/できないのはダメ」じゃなくて、判断は個人にゆだねられてると思うんです。
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レスありがとう (ワタリ)
2006-05-27 22:34:42
今日、研究会・職場の人権のあとのお茶会で、熊沢さんをつかまえて、話を聞いてみました。その内容は、まだご本人の許可をえていないため、今は明かせません。



ただ、思ったことは、熊沢さんの描く抵抗のモデルは、あまりにも集団主義的・農耕民族的だということです。それがあう人にはいいんでしょう。

だけど、個人主義的・牧畜民的抵抗をやりたいタイプの人間にとっては、あてはまらないということです。



わたしは地域はいらないし、地域に定着する気もありません。仲間というものにも懐疑的です。熊沢さんは学者さんなので、実務的などろどろしたところをご存知ないのでしょう。(派閥抗争・イデオロギー注入・グループ内少数派の悲劇・運動組織内部でのいじめ・いやがらせなど)



>リリコさん



いらっしゃいませ。



地域に密着しておやりになりたいのなら、そうなさる権利はあります。それは尊重されてしかるべきです。恥ずかしいことじゃありません。なぜフリーター仲間がリリコさんを責めるのか、よく分かりません。地域にいたいというのもご自分の意思ですし。。。。

一方で、あちこちを流れ、渡り、そのことによってかろうじて生きてゆける人々のことも尊重していただきたいのです。

いろんな地域や会社をまわっていても、そのぶんいろいろな人との出会いがあり、別れもあります。「漂流」を絶対悪ととらえなくてもいいのではないでしょうか?



「西便制~風の丘を越えて~」という韓国映画があります。パンソリという伝統的な歌を受け継ぐ漂白の芸人のお話です。この映画の大詰め(ラストシーン)で、村から村へと移り歩く女芸人が、かつて生き別れになり今では定着した生活を送る弟と再会するシーンがあります。弟は、やっと再会できた姉に、いっしょに定着して住もうとは言いません。姉の生き様を尊重しているのです。

もうひとり、女芸人に親切にしている男がいます。彼は女芸人にずっとここに住んではどうかともちかけます。にもかかわらず、女芸人は、いつものように別の村へと移ってゆくのです。そうしないと落ち着かないから、といって。

渡ることイコール不幸ではありません。搾取や排除は困るだけです。流動していてもなんとか生活してゆければいいんです。それを保障する仕組みを作るべきです。
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追伸:土肥さん (ワタリ)
2006-06-08 11:36:38
上記のコメント、お名前を間違え、失礼しました。



土肥さん。ちょっと話しが逸れました。追伸します。



実際、経験から言っても、たとえば髪型や服装、言葉のなまりなどを理由に人を即日解雇する例も複数ありました。



浮くのはよくない、と言っていたのでは、労働者の権利のために闘えるんでしょうか? 職場というある種の共同体に密着していないからといって、人格や人権を侵害されてもよいものでしょうか?



↓のサイトの大阪シルバー事件をごらんください。



http://kobetsu.jil.go.jp/kobetsu/book/97.html



たとえ、労働者に協調性がないとみなされ、それゆえに、会社側の過失が一部相殺された場合であっても、場合であっても、会社側に555万円の支払いが命じられているのです。



法よりも人権無視の地域の慣習に、労働組合が服従していていいのでしょうか?



>私たちは現在の状況に対して変革を求めています。そ>のためには多数を獲得しなければなりません。私たち>には権力も財力もないのですから。



浮いている人を攻撃したり、被害者を助けなかったりすれば、多数とか権力とか財力とかを確保できるのでしょうか?



>孤立の状況に想像力を持ちつつも、



おっしゃる意味がわかりません。詳しく説明していただきたいです。



>孤立したままでは我々の望む状況を構築できません。>その辺のことは再考いただければ幸いです。



個人主義=孤立主義ではありません。また、孤独が悪いことだとはわたしは捉えていません。人間、誰でも一人になりたいことはあるし、一人でなくてはできない仕事があるのも事実です。



主観的な話しになりますが、わたしは、研究会・職場の人権の定例会でもっとも強く孤独を感じます。3度定例会とお茶会に出席してみて、その理由はわかりました。わたしのような個人尊重の、共同体批判を受け入れつつよき共同体を志向する者は、ああいった共同体主義の世界にはあわないのです。高学歴者の居並ぶ中での低学歴者ということもあり、居心地がよくないのです。苦痛を感じるのなら、行かない権利はあります。MLも脱会しようと思えばできます。ですのでそれを行使するまでです。

人はひとつのコミュニティだけに関わって生きているのではありません。それを孤独とか一人とか言うのは事実誤認か、自分のいいなりにならない相手に腹を立てて叩いているだけです。

人は、コミュニティと別のコミュニティの間を行き来する権利があります。新しいコミュニティを作る権利もあります。コミュニティに属さないで個人として生きることも、難しいけれど不可能ではありません。また、それを保障するのが近代市民社会というものです。



わたしは、絶対に地域に定着したりしない、偏狭で排他的な仲間意識をおしつけない労働組合を作りたいと考えています。



以前、ある地域ユニオンの仲間主義によって、派遣で働く女性や、アルバイトで働く男性がそうとう傷つけられたのを目撃しました。わたしもやっつけられ、排除された一員でした。ぜんぜん距離をおいたつきあいのできない人たちでした。以前管理人をしていたMLを荒らされたのをきっかけに、その人たちとは縁を切っています。



ここであえて神権政治めいたことを言ってみましょう。

仏教では会者定離(えしゃじょうり)と申します。会うものは必ず分かれるのが定めです。生き別れであっても、死に別れであっても。それを認めないのはいつまでたっても悟りを開けず、不幸のままであり、人間失格です。だから、家や地域に密着せず、流動しなければならないんだ。いつまで経っても仲間といっしょにぬくぬくとしていられると思っているかぎり、苦しみからまぬがれない。



どうです。これは、地域や仲間や定着を信じる者にとって抑圧であり、横柄ですよね。ちょうど立場を逆にしてみてください。熊沢さんと土肥さんは、文字通り会社から会社へと渡って暮らしている、社会的弱者であるわたしに対して、同じイヤガラセをしかけたのですよ。とりわけ、熊沢さんは、自ら神または釈迦になって、わたしや若者・フリーターらを道徳的に断罪したわけです。



こういう仲間主義というのが労働組合の耐え難くイヤなところだとわたしは思っています。



熊沢さんの詭弁に関しては、「移動の自由のために」とコメント欄をごらんください。誰も根拠も考えもなく「ウザい」と言っているのではないのですよ。









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Unknown (土肥)
2006-06-09 12:07:28
 ワタリさんが「地域」や「共同体」を嫌悪していることはよく分かりました。私のコメントが苦痛を与えてしまったことは謝罪します。それでこのコメントを書くことも控えたほうがいいのかなとも思うのですが、私の見解を伝えないのも不誠実だと思うので、あえて書かせていただきます。

 私の言いたかったのは、変革を成し遂げたいのであれば、何らかの人間の集団に足場をおく必要があるということです。その人間の集団をいわゆる地域社会や、会社に限ったつもりはありません。たとえば同じような現実(派遣労働、身体障害、少数民族など)を共有する集団でもいいのです。

 たとえば、私たちがやっている労働運動ですが、組合でやっていることを個人でやるとどうなるかです。

理路整然と待遇の改善や昇給を要求して、経営者が素直に聞けば大変喜ばしいことですが、なかなかそうは行きません。無視されるくらいならまだいいのですが、それを逆恨みして嫌がらせや退職強要をしてくることは大変多いです。では司法に頼るのはどうでしょうか。労働基準監督署は給与の未払いなど白黒はっきりしている事案のときは使えますが、グレーゾーンにはほとんど対応できません。裁判はひたすら時間がかかる上に、経営側に有利な判決が出ることはとても多いです。

 この辺のことはワタリさんもよくご存知のことと思います。筋が通っているからといって(はなはだしくは法的に正しい場合でも)なかなか解決しません。こういうときに「私」が「私たち」である事が生きてきます。私はこのような意味で「私たち」を肯定しているのです。

 ただこのような集団にワタリさんが言うような弊害がある事は否定しません。たとえば派遣労働ひとつとっても男性か女性か、既婚か未婚か、年齢の多過、収入の多寡等多くの違いを含んだ多様な集団です。この集団をまとめる戦略は2つあり、多数派が少数派を排除・抑圧するか、多数派が少数派の権利を積極的に肯定するかです。前者のほうが実行が安易なため、圧倒的に多くなっていると思います。ワタリさんが憎悪するのはこのようなあり方ではないでしょうか。後者のあり方を創るには自分より状況の悪い、差別された仲間の立場を理解しようとする姿勢が問われます。私自身は後者でありたいと願っておりますが、今回ワタリさんを傷つけてしまったように、失敗してしまうことは多々あります。

 それでも集団にこだわるのは他に展望を見出せないからです。自由権すら歴史的に見れば集団の力なしに獲得できたものではありません。思想家が考えれば権利が獲得されるわけではないのです。またその維持も、今進行している法律の後退局面(幸い今国会可決は見送られた共謀罪等)を見れば、法律さえあればよいというものではないでしょう。

 ワタリさんは今の世の中に満足なんかしていないと思います(そうでなきゃこのブログはないか内容が大幅に違うものになるでしょう)。私の基本戦略は以上のように集団を基盤としたものですが、ワタリさんはワタリさんで違う戦略をお持ちだと思います。その辺の意見交換もできれば有益ですね。
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再レスありがとう (ワタリ)
2006-06-12 21:55:42
>土肥さん



わたしのほうこそお名前を撃ち間違える失礼をしたのに、ご意見をありがとう。

ひょっとしたら土肥さん、もう二度とこのサイトには来ないか、と心配したのですが、杞憂だったようです。



少数派に配慮する組合、いいじゃないですか。

これまでの労働組合のイメージとは一味ちがった組合・ぼちぼちにますます興味がわいてきました。



またそのうち、イベントなどでお会いすることもあるかと思いますが、そのときはどうぞよろしくお願いします。
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