フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

離合集散、いいじゃない

2005-08-13 05:37:59 | 政策
 いわゆるサヨク系の人たちは、フリーターを見ると説教をしたがる傾向があるようだ。そのなかの常套句に「分断統治反対」というものがある。
 組合の会合で、飲み会で、個人的にいっしょに食事をしたり散歩をしたりするときにも、誰かがこう叫びだす。「それは分断統治だよ!」

 そうして、労働組合に加入しない若者を珍獣扱いし、嘆き、けなしてみせる。何のことはない。現実以上にその人たちの頭のなかでは、フリーターをはじめ若い人たちは、怠惰で、無知で、キモチワルイものなのだ。そして、ケシカラン存在として、矯正・誘導されねばならない。
 そのためには、(因果関係も時系列に沿った理解もないのだけれど)とにかく組合に入り、組合のイベントに参加することが自明の原理になっている。
 理想をいえば、一度も・一日も休まずに組合の会議やイベントに出席し、いつもメールや電話で組合幹部と連絡を取るほうが望ましい。

 若者だから組合に入るという前提もそもそもヘンだ。それに、これでは雇用の不安定化による休日予定の不安定化には対応できない。みなが工場やオフィスに勤めて、だいたい土日には休めると見通せる時代は、工業化社会のものだ。今日のサーヴィス化社会にはあわない。

 人類学者の内藤直樹は、ケニア北部の牧畜民アリアールの調査を報告している。以下の「」内は抜粋・要約である。
 
 「彼らは移動がひんぱんで、まとまりがない。彼らが今いるキャンプ地に不満があって移動を考えるときには、斥候を派遣して水や草の具合を調べる。斥候からの情報をもとにして、いくつかの候補のなかからどれがいいのかをキャンプのメンバ-が議論して決定する。
 しかしどこに移動するか、そもそもいま移動するべきかどうかについて意見が合わないことがある。すると彼らは、構成員すべてが満足するような結論を導き出すよりも、むしろ簡単に袂を分かつ。そして別の村の構成員と出会うと、彼らといっしょにキャンプを作る。」(エコソフィア エコソフィア編集委員会編 民族自然誌研究会発行 昭和堂2003.5:54-55 内藤直樹「境界の旅人たちーー牧畜民アリアールの日常的実践」)

 もしフリーターの組合、または情報交換や親睦や相互扶助のための組織づくりができるとすれば、アリアールのやり方が参考になると思う。
 ムリに意見を一致させたり、まとめたりする必要はさらさらない。圧力がウザイまたはコワイので、口先だけであわせても、イヤになって長続きしないだろう。そして、こうした政治や経済に関する運動は、短期間で成果があがるものではなく、ねばりづよい中・長期的とりくみが求められる。
 だったら、なおのこと、嫌がる人の尊厳を冒す必要はない。いつも同じときに、同じ場所にいなければ仲間じゃないと決めつけ、人を粗末に扱う労働組合関係者や労働NGOアクティヴィストをわたしは何人も見てきた。みなの前で侮辱・罵倒したり、批判ではない悪口・中傷を言う。電話で大変不誠実な応対を重ねる。頭ごなしに意味不明のことを怒鳴りつけて威嚇するなどなど。会社での各種のハラスメントと比べて、どちらがマシなのかと首をひねる場面もあった。
 ほんの少しの意見や趣味の不一致に神経質になる。みながいっしょでなければ不平等でケシカランとか、こ秩序が乱れるとか心配してばかりいる。
 特にリーダーやサブリーダーは、組織化を通じて他人をコントロールしたいがために「分断統治はダメ、もっと団結を」と唱えているようにも見えて、気味が悪かった。
 たとえば、ある労働問題の雑誌を作ろうと呼びかけた人は、とある掲示板で「わたしはこちらのコミュニティにはあわない。だから去ることにする」とカキコをしたときに、おかしなレスをよこした。「そうですか。また気が向いたらいらしてください」
 いったい何を言っているのだろう。わたしはあわないから去ると書いただけだ。だったら、それを尊重すればよい。にもかかわらず、その管理人は、自分とちがうタイプの他人の参加コミュニティを選ぶ権利を尊重できない。自分の管理するコミュニティが選ばれなかったことを理解できず、トンチンカンな答えをよこしたのだ。人の個性や選択を侮辱する、人格無視のコメントであり、腹立たしい。思い出すだけでゾっとする。

 そんなことをしなくてもいい。個人とか各ユニットの独立性を尊重しあって、ムリなくいっしょにやれるなら、協力してことに当たればよい。
 世間の偏見や無理解、当局の弾圧などに、たくさんの中心があったほうが防御しやすい。そのことは、インターネットの基本的な仕組みを見ても分かることだ。
 会社のストレスで死にそうになったり、軽い慢性的なウツ状態になったりしているときに、ムリに勉強会や定例会に出席する必要はない。出席しない人間をおとしめるなどとんでもない。むしろ、そのように個人の都合や体調や考えを壊すようなやり口をとるから、若者は組合に寄りつかないわけだ。
 
 サヨクの一元的集団主義、硬直した共同体主義を、見直す時期に来ている。多様なコミュニティと個人による、ゆるやかな連合を! 
 アクテイヴィストらは、画一主義的で支配欲旺盛な組合に、若者や女性たちが集まらない原因をよく考えたほうがいい。確かに分断統治は迷惑かもしれない。
 ならば、離合集散を活用する手もある。名づけて「分散抵抗」。ちじぢりになって、だからこそ身軽に、必要に応じて抵抗できる。つぶしたい側はどこが中心か分からないので、手を打ちにくい。
 とにかく、個人の権利をやっつけないこと。わたしはもう、上の世代の男性中心の労働組合や、同じ価値観に染まった頭の固い労働NGOの活動家にはウンザリしている。若い世代でも、全共闘世代にこびるような情けない人もいるのだ。
 とにかく、30年一日のごとく分断統治に言及または反対していさえすれば、若い世代がついてくる、といった過去の成功体験による呪縛(?)をとりさるべきなのだ。
 別に労働組合に幻想もないけれど。おかしなことばかりしないでほしい。
 あなたがたの「善意」の行動が、かえって人を苦しめていることに気づいてほしい。

(9/27読みやすくするために一部の表現をあらためました。主旨に変わりありません。)
 
 
 
 

 
 

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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
「フリーター」=「牧畜民」 (pfaelzerwein)
2005-08-14 14:53:12
こんにちは。私は未だにフリーターの定義が分からないというか、分かろうとしていないのですが、「フリーター」=「牧畜民」は凄く分かりやすくて良いですね。使えそうな読み替えだと思います。
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ワタリ批判 1 (木村正司)
2005-08-19 18:07:04
私がこれからしようとする「批判」は攻撃ではありません。ワタリさんの言説の根拠を明確にしたいというほどの意味です。左翼といいいますが、もとは日本人です。そこで、一つ私たちが心得なければいけないのは、日本の労働組合は特殊な性質をもつ、ということです。その第一が企業別組合という形式です。労働の横断性のない、閉じきった世界がこれまで主流を形成した〈現場〉だったということです。ワタリさんが直面した現場もおそらく――ちがっていたらすみませんが――そうした形式のなかの「正社員」という形式、ある程度終身雇用的な色彩の組合だったのではないか、と推測いたします。実は、そこでの人的つながりは多分に「タテ社会」が原理なのです。その閉じきりの団体からソトへと出ることは基本的にない、そういう団体がおそらくワタリさんの前提とされている組合の構造だということです。もうひとつ、いわゆるこれまでの既存の就業スタイルは、そのなかでのチームワークを前提になりたっています。こうしたなかから、そこでの生活原理がきわめて農業共同体的なムラ意識を前提としたものとなっていくのです。飲み食いからはじまり、冠婚葬祭、リクリエーションまでも抱えていく、そうした人的つながりが重要だという原理が第一原理となっていくのです。それは、一つは日本社会には開かれた正規雇用の横断的労働市場が不在という問題があるのだと思います。

私の目から見れば彼らが「百姓」いや「武士」のつもりかなあ、ならば、フリーターは〈エタ・ヒニン〉と考えていいのではないかと思いますね。そういう視点がある。これが前提。自分たちとは明らかに身分が違うのだ。その安心を前提にまず考えるべきです。
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ワタリ批判 2 (木村正司)
2005-08-19 18:17:16
マルクス経済学の用語に「産業予備軍」というのがあります。失業者やフリーターがそれに当ると思うのですが、ふつう、この層が正規雇用を揺さぶるわけです。私は西洋の労働組合運動史を多少勉強しましたが、それはすさまじい、未熟練労働の排除があるわけです。こいつらがいたのでは、俺たちの価値が揺さぶられる、と。つまり、資本家がたえず、彼らの代替性をもちだして、労賃の切り下げの力学を不況期になればなるほど、正規雇用につきつけるわけです。そこで、「分断統治」ってことになるわけですよね。でも、どうなのでしょうか。そうした、強迫観念があるのでしょうか?いや、脅迫的現実があるのでしょうか?理論上は、労組は分断すればまずい、ということになります。私は、日本社会には、そうした危機をもたらすほど、正規雇用と資本との対立がこれまでなかったのではないか、と思えてならないのですが。むしろ、先にあげた、日本ムラのなかでの〈同調圧力〉を、一つ高い身分の人間がひとつ低い身分の人間に迫っている、と見たほうがいいのではないか、そのようにワタリさんの言説を切りとってみてみました。
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離合集散は○(マル)♪ (名前はまだ無い)
2005-08-19 21:35:55
今晩は♪



このHPはしばらく続けて頂けるようですね。ありがとうございます。とりあえずは、安心しましたが、このHPがあまり長続きせず、早く役目を終えることを切望します。私は、一瞬黙らせられたとしても、納得させることのできない、中身のない標語を並べ立てることは無意味と考えています。ですので、相変わらず長い拙文ですが、お時間がある時に目を通して頂ければ幸いです。





サヨク(左翼)については、意図的にカタカナを用いているのかしら? それはさておき、今回は、ワタリさんの経験に基づいてのお話と思いますが、集団(全体)主義的発想はサヨクに限らず、どこの世界(集団)にもあります。そして、流通では「少量多品種」などと叫ばれているのに、価値観の多様性はどんどん狭められ、挙げ句の果てに選択肢はマルかバツ。現在に至っては、思考まで画一化してしまうのではないかという気味悪さを感じます。



何人かが集まって集団ができると、大抵、派閥ができます。そして、同じ仲間と思っていたはずなのに、どこかの派閥に属さないと居心地が悪くなり、不本意ながらどこかの派閥に属すことを余儀なくされたり、馬鹿馬鹿しくなって逃げだそうとすると、なかなか抜けられないことが多いです。友達同士でもそういうことがよく起きます。そんなことが繰り返された集団は、集団の力を誇示するために団結を呼びかけます。しかし、それではすまないこともあり、派閥の長の中には、あえて分裂させることによって、自分に権力を集中させようと企てる輩もいます。この間、衆議院が解散されましたが、これも一つの権力闘争ですね。ついでですが、私の目には、世代間抗争と改革という名の既得権再分配に見えたりもします。



ある一つの目的を達成するために、本来、対立していたもの同士が共闘することがあります。呉越同舟や人民戦線を思い浮かべると分かりやすいと思います。労働問題を個人で解決することは極めて困難と思われますが、労働問題を細分化し、その中で賛成できる部分について、一個人が離合集散し、解決していくことは可能なはずです。ですが、個人が結集すれば、それは既に集団です。集団になると、どうしても上記の問題が生じます。この、問題を克服しながら、諸問題を解決していく工夫が必要と思います。今のところ、よい思案は浮かびません。ご免なさい。でも、楽観的な視点に立てば、目的を絞って結集し、短期間(せいぜい2~3年)で目的を達成し、達成後は速やかに解散することを掲げて協力し合えれば、ワタリさんがいうように、一個人が離合集散することで、個別の問題を解決していくことが可能と思います。それでも権力闘争の類は、多かれ少なかれ起きると思いますけど・・・。また、目的の達成後、本当に速やかに解散できるかが課題になると思います。解散できないと、迷惑な集団になりかねません。必ず、組織は腐敗するものなので。





それと、離合集散というと、都合のいいときに都合よく小遣いを稼いでいる、体たらくなフリーターを思い浮かべる人がいるようですね。フリーターの大多数は定職を望んでいます。また、たとえ体たらくなフリーターだとしても、一念発起し、フリーターから抜け出したいと考えたなら、そこから這い上がれる環境は必要です。もがいても這い上がれないことを、自己責任でかたづけてしまう社会が正常とは思えません。国民の多くは、いつ使い捨ての隙間労働者になるか分かりません。今、定職に就いている者がフリーターを中身のない標語で、罵り、蔑むのは勝手です。しかし、そういうことをいう勤め人の人に言っておきたい。あなたは、定年まで、今の職に止まることができる保障はあるのですか? 常に有利な条件で転職を繰り返せるのですか? 民間企業なら、首切りも、倒産もあります。失業後、同じ条件の定職を見つけることは、極めて困難な社会構造にどんどん向かっています。定職が見つからなければ、不本意ながら隙間労働者になるしか、選択肢がないことも十分にあり得ます。公務員だからと安心していられる時代も終焉を迎えつつあります。能力主義というと聞こえがよいかも知れませんが、あなたはそれほどの能力があるのですか、能力を評価するのは、誰がどんな目的でしているかお分かりですか? 明確な評価基準もありませんよ。本当に自己責任として、そのような現実を甘受できますか? お子さんがいるのであれば、お子さんの将来の生活を想像したことはありますか? おおかたの勤め人は世襲できませんよ。



誤解されると困るので、付け加えておきますが、私は能力主義や自己責任のすべてを否定しているのではありません。およその概念は、まともに運用できるのであれば、人々にとって幸福をもたらします。しかし、それを、乱用すれば災いを招いてしまうということを強調したいのです。





ワタリさんは、相当労働組合には酷い目にあったみたいですね。まあ、今の労働組合は企業に懐柔されたのか、有名無実化しています。全共闘世代というのも、平和を叫びながら、火炎瓶を投げまくっていた人たちがいるわけで、現在の労働問題の解決にとって有力な力になり得るとはあまり思えません。知識人?にも、現在の若者に苦言を呈しつつ、全共闘運動を懐かしみ、賛美する人がいますが、私には、全く訳が分かりません。平和のための武力闘争では、ありがちな戦争と同じ理屈です。フォークソングも悪くないけど、それを聴いて共感していた多くは、貧乏症候群の似非貧乏人です。本当の貧乏人は、レコードなんか聴いている暇はなかったと思います。このへんは、やくざでもないのに、任侠映画や、任侠演歌に共感しちゃった人にも通じるかも知れません。この時代は、現在より貧しさが目立ったかも知れませんが、右肩上がりの経済の上、日本が平和だったことから、疑似体験でもよいから、そういうものを欲した人が多かったのかも知れません。でも、実体験は絶対にしたくないです。現在、日本の治安は悪化し、関心のない人が多いようですが、GDPが上がっているのに貧乏人が増え続けています。





最後に、私がよく「変だなぁ~」と思うのことを記載させていただきます。それは、戦前の教育を受けた世代よりも、戦後の人道的な平和教育を受けたはずの世代の方が、個人にとって過酷なことを要求し、具現化に躍起になっていることです。もう少し、突っ込んだ表現をすると、危険な目にあったことがなく、安全なところにいる者ほど、他者に過酷なことを要求するのが世の常ということです。自分では絶対に実践しないくせに、年収300万円で暮らせるなんて平気で曰うし。
返信する
みなさん、いらっしゃいませ (ワタリ)
2005-08-21 21:41:01
ちょっと見ないうちにたくさんのコメントをいただき、どうもありがとうm(_ _)m。



>pfaelzerwein さん



お久しぶりです。

フリーター=牧畜民という読み替え、よかったでしょうか? どうすれば正社員の方に分かっていただけるか、たくさんの失敗を通じた試行錯誤のひとつだったんです。

まったく同じというわけではないのですが、アナロジーというものは、最終的には破綻するのが相場というもの。

説明が通じてうれしいです!



>木村正司さん



ご批判、ありがとうございます。ブログによる情報発信・受信をしていると、同じ考えの傾向のものどうしが馴れ合いでTB・コメントすることが多いので、批判には希少価値があります。誰にも批判されないでいると、間違ったときに分からなくなるので、批判は歓迎です。(動物行動学の「攻撃(性)」の話にも興味がありますが、それはまた別の脈絡で(^_^)。)



>左翼といいいますが、もとは日本人です



そうでしょうか。いろんな民族の人がいると思いますよ。(隠しているかもしれないけれど。)



>日本の労働組合は特殊な性質をもつ、ということで

>す。その第一が企業別組合という形式です。



ええ、確かに欧米の職種別の組合とは違いますね。



>労働の横断性のない、閉じきった世界がこれまで主流>を形成した〈現場〉だった



そうなんでしょうか? 出向、人員整理などもあったのではないでしょうか? 技能を持つ職人世界においては、数度の転社は当たり前だった、と昔板金工で、今は定時制高校の教員をしている方からうかがったことがありますが、どうでしょうか? (ちなみに、自分は「学力」を、自分の生活や経験の中から出てくるものであって、外から注入されるものとは違うと考えています。そのためこういう書き方をすると、後者の学力観の持ち主からすると、「低学力」に見えるのかもしれません。)

なお、それが古くは旧制高等学校→帝国大学といった進学の指定校制度とも呼べる学校内子飼い年功序列(ただし、明治初期の学制の、落第も当然の資格試験主義を、学年制・クラス制がうわまわった時期よりはじまる)と類似していますね。

わたしからすると、その解説は、間違っているわけではないが、大企業のホワイトカラーの男性限定の話だと思います。全労働人口の約三分の一は、終身雇用のワクの外にある、と昔カレル・ヴァン・ウォルフレンの「人間を幸福にしない日本というシステム」とか、野村正ミ(失礼、漢字が出ない。)の「終身雇用」(岩波同時代ライブラリー)で見た記憶があります。労働・教育問題についての翻訳者からも同じツッコミをもらったことがあります。そのへん、どうなんでしょうか?



>彼らが「百姓」いや「武士」のつもりかなあ、なら

>ば、フリーターは〈エタ・ヒニン〉と考えていいので>はないかと思いますね。そういう視点がある。これが>前提。自分たちとは明らかに身分が違うのだ。その安>心を前提にまず考えるべきです。



ちょっとキツイ言い方ですね。ここで「わたし(たち)はエタ・ヒニンじゃない!」などと書くと、今度はわたしが差別主義者ですかね(苦笑)? おっしゃること、分かります。



>用語に「産業予備軍」というのがあります。失業者や>フリーターがそれに当ると思うのですが、ふつう、こ>の層が正規雇用を揺さぶるわけです



そうですね。経営の論理としては、失業と半失業がイヤならば、文句を言わずに働け、ということです。現在では、たとえばEUのなかでもより賃金の低い・長時間労働の可能な国への工場移転を「脅し」に労働時間延長や賃金切り下げを、企業は組合にせまっています。以前、月刊「労働組合」(労働大学調査研究所)という雑誌で、フランスではその手の「脅し」を使った交渉に、一部の保守系政治家さえも批判しているとの記述を読みました。

ウォーラーステインは、女性や老人などのことを「半プロレタリア」と呼び、資本主義世界システムを支えるもとになっていると指摘していますね。



>でも、どうなのでしょうか。そうした、強迫観念があ>るのでしょうか?いや、脅迫的現実があるのでしょう>か?



少なくとも、自分が試しに出席してみた組合のイベントなどでは、そういうこともありました。定量的なデータは持っていません。

ただ、正社員至上主義により、派遣・フリーターなどへの偏見丸出し、差別そのものの発言やミニコミの記事に対して、抗議してもニコニコ笑ってゴマカス強引さに辟易したことがあります。映画上映のあとの話し合いの席で、組合のアクティビストが、派遣等で働く若い世代や女性そっちのけで、「社会主義になれば失業がなくなる(←社会主義は失業をなくする必要条件であって充分条件ではない)」「賃金・保証の階級問題さえ解決すれば、女性差別も民族差別もなくなる(←実際には、文化や日常生活の問題もあって必ずそうとはいえない)」などとドグマに満ちた決まり文句を繰り返すため、イライラした面持ちで途中で席を立った派遣で働く女性もいました。



>私は、日本社会には、そうした危機をもたらすほど、>正規雇用と資本との対立がこれまでなかったのではな>いか、と思えてならないのですが



同意します。日本の組合は、一部を除いてそんなものでしょう。「ストをやるぞ」と言いながら、やらないまたは大幅縮小とか。どこかの政党の集票マシーンになっていたり。

それから、以前勤めたさる大企業の子会社では、組合が「第二人事部」と化してました。組合つながりで休日の趣味や、引越しや、旅行、冠婚葬祭までやるのです。くつ、服、カバン、食料など、日常の消費も、組合の購入部にほぼ決定されてしまいます。個人の自己決定、個性やユニークさの尊重などありません。それにくわえて賃金や保証は削られる一方です。



>日本ムラのなかでの〈同調圧力〉を、一つ高い身分の>人間がひとつ低い身分の人間に迫っている、



ムラ社会論としては間違いのない答えだと思います。

ただし、木村さんのカキコの中でも文化人類学の大御所の唱えた概念が出てきましたが、それを「国柄論」・「文化論」としてとらえないほうがよいのではないかと思うのです。

それは、ウォルフレンも指摘するように、観念論またの機能があるからです。これに、宿命論の機能もわたしとしては添付したいです。

立派な憲法を持ちながら、人権を守るための国内法整備が不十分であること、裁判がうまく機能しづらいなどの点を変更すれば、日本もかなりの程度、個人の人権とか尊厳が保障される文化環境ができるのではないでしょうか?



批判というよりも、よい解説・側面支援だったかと思います。



自分が、組合アクティヴィストと接してもっともイヤだったのは、次のように言われたことです。

講演会のあとの飲み会のときに、元・不登校の経歴を伝えたところ、まるで犯罪人でも扱うような、胡乱な目で人をながめわたし、「アンタ、そんなことではいけないよ、もっと勉強しなくちゃいけないよ!」と説教をはじめるのです。



なぜ、そのようなことを初対面の人間から言われなければならないのか? 自主的な学習ではなく、強制の性質の強い「勉強(つとめをしいる)」を命じられねばならないのか? 会社まわりでくたくたになったときに、いったい何が「勉強」なのか? 学校とか、組合指定の勉強会だけが「勉強」なのか? ネットや本を使ったり、人から話をうかがったり、なによりも実際に会社で働いた経験は、「勉強」のうちに入らないというのか? 何を・どこまで「勉強」すれば合格(?)なのか? 労働組合や政党の歴史について偏差値を図るテストがあって、一番めざして他律的な学習を続けろというのか? 一方的に組合幹部の選定した事項を暗記するのでは、メッキのように「剥落する学力」あるいは「頭に間借りしている学力」ではないのか? 

ブラジル出身の識字教育家・パウロ・フレイレの提唱した、権威主義的に外部から知識を教え込む銀行貯蓄型の教育ならいらない、自然発生的に身近なことから抽象的な哲学へと入ってゆく対話型の教育ならほしい。

だけど、この人たちとつきあっているかぎり、対話はない。なにしろ、その講演会ときたら、大新聞社の高名なジャーナリストを呼び、質疑応答も許されませんでした。要するに、「権威を崇拝する儀礼」だったのです。飲み会も、リーダーたちに媚を売る競争の場でした。

つまり、そのアクティヴィストは、偏狭な「勉強」観によって、わたしの選択と実存を否定し、みなの前で恥をかかしたのです。

もちろん、その組合とはその後連絡をとっていません。一度、反戦デモで顔を見たこともありますが、あいさつもしませんでした。むこうも、わたしを忌み嫌っています。いいんです、そもそも学力観とか学習観が違いますから。



長くなるのでいったん切ります。







 



 







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レスのつづき (ワタリ)
2005-08-21 22:30:12
>名前はまだないさん



いらっしゃいませ♪ あいかわらず的確なコメントをどうも。



 

>今回は、ワタリさんの経験に基づいてのお話と思い

>ますが、集団(全>体)主義的発想はサヨクに限ら

>ず、どこの世界(集団)にもあります。



そうでしょうか? 今の日本では強いということなのか? それも、教育とか、人権を守る法律の未整備や啓蒙の不足によって起こっている面もあると思いますよ。 

あと、サヨクよりもウヨクのほうが、かえって変わった個人をおおめに見る傾向があるって気がする。最終的には個人差とか団体差なのかもしれないけれど。ウヨクというよりも保守っていうのは、落ち着いていてブレが少ないというか、「まあ、気に食わん変人やけど、昔からああいうヤツが家とか村に一人や二人はいるものだ。悪させんかぎりは、大目にみとこか」「人様には人様の事情があって、いきなり立ち入ると失礼にあたるかな?」みたいな発想がはたらくのか、白い目で見ながらも100%排除しない包括性があるとは思いませんか? 保守って、さりげなーく社会的排除への抵抗の砦になっている気がする。



>ですが、個人が結集すれば、それは既に集団です。集>団になると、どうしても上記の問題が生じます。こ

>の、問題を克服しながら、諸問題を解決していく工夫>が必要と思います。今のところ、よい思案は浮かびま>せん。ご免なさい。



いえいえ、わたしもこれといった妙案があるわけではありません。おっしゃること、もっともです。集団があれば、力学が働く。提案の妥当性よりも、相手の力を認めるかどうか、リーダーらの権威をおがむ儀礼をこなしているかどうかが最重要議題として問題にされることもままあります。

いたずらに公私混同せず、機能優先でひどい会社から不払い賃金だけでも払わすとか、フリーターに対する偏見に対する啓蒙をするとかいったことをやっていければよいのです。ただし、そのためには、あまりに不安定で貧しいフリーターだけではむつかしい。多少なりとも余裕のある正社員の方のファシリテイトが求められます。フランスの失業者の運動も、就業者がはじめました。日本でも、組合が「雇用の底割れ」を意識しはじめた数年前より、徐々に若者の問題についてとりあげられるようになりました。まったく希望がないわけではないのです。



>もがいても這い上がれないことを、自己責任でかたづ>けてしまう社会が正常とは思えません。



激しく同意します。



>今、定職に就いている者がフリーターを中身のない標>語で、罵り、蔑むのは勝手です。しかし、そういうこ>とをいう勤め人の人に言っておきたい。あなたは、定>年まで、今の職に止まることができる保障はあるので>すか?



そうですよ。ただ、分かっているからこそかえって、目の前の不幸を、不遇を遠ざける儀礼としていやがらせをやる、ということもあるでしょうね。(だからといって、やってもいいわけではないのですが。)



>能力主義というと聞こえがよいかも知れませんが、あ>なたはそれほどの能力があるのですか、能力を評価す>るのは、誰がどんな目的でしているかお分かりです

>か? 明確な評価基準もありませんよ。



何が能力なのか? ってかなり難しい問題じゃあないかな。学力は能力の一部だけれど、まず学校で、次には資格試験で選抜していますよね。くわえてゴマすりの才能も必要だったりして。

明確な評価基準がない場合、恣意的なボス支配がまかりとおりますね。部下は上司に全人格的支配を受けることになる。



>私は能力主義や自己責任のすべてを否定しているので>はありません。およその概念は、まともに運用できる>のであれば、人々にとって幸福をもたらします。しか>し、それを、乱用すれば災いを招いてしまう



いい視点だと思います。もともとIQも、学校制度のなかで評価されないが、実は別のタイプの知能をもった人間に光を当てるために発明された。あるいは、偏差値も、「進学の神様」のような優れた教員のいない学校の生徒でも、明確に入れる学校に入ることができるように考案されたものです。それら、一面的に役に立つにすぎない価値評価基準が、独立した価値として一人歩きをはじめると、害毒のほうが多くなってしまうんですよね。



>知識人?にも、現在の若者に苦言を呈しつつ、全共闘>運動を懐かしみ、賛美する人がいますが、私には、全>く訳が分かりません



わたしにもわけがわかりません。ウォルフレンは、日本の知識人は、国の権威による承認を求めすぎる、また明治以降、政策的にそう誘導されてきたと「日本の知識人へ」(窓社)のなかで述べています。浮世離れした文系大学のなかで、観念的に反体制をしたつもりが、大学内部にも外部にも支持層をもてずに、コケることの連続、といったところでしょうか? そしてますます「象牙の塔」のなかで自閉する、と。



アンティオーク大学というオルタナティブ大学の老舗がアメリカにあります。そこでは、3ヶ月ごとに、実務と理論学習を交互にやるそうです。あるいは、スェーデンの「旅の学校」では、集団で第三世界にスタディ・ツアーにでかけ、そこで学んだ成果を人々に発表するのがカリキュラムになっています。そうした教育をしなければ、えんえんと有名なえらい人の本を読むばかり、微細な解釈を競うばかりでは、独立性や批判意識の旺盛な知識人は生まれないと思います。



>戦前の教育を受けた世代よりも、戦後の人道的な平和>教育を受けたはずの世代の方が、個人にとって過酷な>ことを要求し、具現化に躍起になっていることです。>(中略)突っ込んだ表現をすると、危険な目にあったこ>とがなく、安全なところにいる者ほど、他者に過酷な>ことを要求するのが世の常ということです



いや、いわゆる戦後民主主義教育というものも、義務教育における制服や髪型規制がなくならないなど、戦前のをうすめた形で軍国主義的な要素があったのだと思いますよ。日常生活において、人権無視、人格蹂躙が平気で行われ、被害者が責められるか教導される傾向も、人権を守る法のいいかげんさと、啓蒙の不徹底が原因だとわたしは見ていますが、どうでしょうか?

それらの点をすっとばして、日本特殊文化論を唱えるのは、壮大な隠蔽ではないでしょうか?

















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訂正 (ワタリ)
2005-08-22 00:08:12
すみません、1個目のレスで、間違いちゃいました。



>(←社会主義は失業をなくする必要条件であって充分>条件ではない)



のうち、充分条件→十分条件 でした。



目が悪いのにメガネを飼えなくて、誤字脱字が多いのはよくないです。気をつけないといけません。4
返信する
追加 (ワタリ)
2005-08-24 01:48:24
>木村さん



ちょっとあとになってから気づいたんですけれど。

木村さんのおっしゃる熟練工と未熟錬工を明確に区別せずに使っているのは、たしかにワタリのブログの弱点です。詳しい人が来たら、指摘されるかもしれないなあと思いながら、それらを超えた共通点とか連帯の可能性をさぐる立場からわたしはこのブログをすすめています。なので、「一所懸命正社員至上主義」への相対化として、「ひろく見渡すといろんなワーキングスタイルがあるよ」とお知らせしているわけです。

自分自身、フリーターをしていて、なんとなく「コレってマトモじゃない?」と思うところがありました。そのときに、ある人から「何言っているんや、終身雇用なんて幻想やんか」と言われて、目の前のもやが消えるというのか、とても明るい気持ちになったんです。その人は、不登校の親の会関連で知り合った方で、本人の自主性尊重だから、それ以上のくわしいことはおっしゃりませんでした。その後、社会とか労働とかに関する本やサイトを見て、「ああ、正社員は絶対じゃないんだ。低賃金とか超短期雇用とかは問題だけれど、複数の会社をまわることじたいが犯罪のようなことじゃないんだ」と分かって、やっと自己肯定できました。

だから、おなじフリーター的な立場で、いろんなところをまわったからいけないって自分で思ったり、人やマスコミに非難されたりして苦しんでいる人の助けになればいいな、と思って、あえてワタリを広く解釈して書いています。

正社員・公務員・アルバイト等の雇用形態を越えて、雇用の底割れに対策を打ち、社会の分極化を防ぐためにこのブログを作っているのです。基本的に、失業者と就業者の利益はつながっている。そういう偏った立場からこのブログをやっていることをお伝えしておきます。バイアスをわかったうえで読んでいただければ幸いです。



それから、会社や組合がムラ共同体でもないのに共同体のフリをする件について。江戸時代まではけっこう村の内外と出入りがあったとの説を、清水三男さんや網野善彦さんたちが唱えていらっしゃいます。自分としては、そういった状態が一般化したのは、専業主婦と同じく高度成長期以降の企業の雇用や給与のシステムによるものだと考えています。戦前は労働力移動は活発だったと野村正ミさんの「終身雇用」でも読んだことがありますが、どうでしょうか?
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補足などです (名前はまだ無い)
2005-08-24 22:45:09
今晩は♪



伝わらなかった部分あるようなので、補足的なことを中心に記載してみました。補足の方が長いです・・・汗 かなり穿った視点かも知れませんが、お時間のあるときに、のんびりと目を通して頂ければ幸いです。





>そうでしょうか? 今の日本では強いということなのか? それも、教育とか、人権を守る法律の未整備や啓蒙の不足によって起こっている面もあると思いますよ。



はい♪

教育や法的整備の問題はありますけど、全体主義的発想を法律で取り締まることは難しいと思いますし、よしておいた方がよいと思います。人権を守ったりする法律は必要ですが、これも、悪用されかねないので、慎重にしないと怖いですね。



いろんな価値観を寄り添える、居心地のよい集団もあると思います。そこは、とてもよい人の集まりなのでしょう。しかし、逆説的な思考を取れば、全体主義的にならないことを皆が考えている、全体主義ともいえますよね。





>あと、サヨクよりもウヨクのほうが、かえって変わった個人をおおめに見る傾向があるって気がする。最終的には個人差とか団体差なのかもしれないけれど。ウヨクというよりも保守っていうのは、落ち着いていてブレが少ないというか、「まあ、気に食わん変人やけど、昔からああいうヤツが家とか村に一人や二人はいるものだ。悪させんかぎりは、大目にみとこか」「人様には人様の事情があって、いきなり立ち入ると失礼にあたるかな?」みたいな発想がはたらくのか、白い目で見ながらも100%排除しない包括性があるとは思いませんか? 保守って、さりげなーく社会的排除への抵抗の砦になっている気がする





回りくどく、繰り返しになってしまうのですが、一見、多様性を認めているように見えたとしても、何らかのきっかけでより明確な目的が定まった場合、それに同調しない人や、それにそぐわない立場の人が集団の中にいれば、何らかの制裁を受けるのが集団というか、世の常です。多分、ワタリさんの関わった所は目的がはっきりしていたから、締め付けが強かったのだと思います。それが、滑稽な目的だったとしても。



ワタリさんが右翼や保守が落ち着いているように感じるのは、おおざっぱですけど、左翼の人が危機感を持っているのに比べ、右翼や保守の人たちは、簡単にひっくり返らない自信と安心感があるので、締め付けを強くする必要性を感じず、当座は締め付けを強くしない方が得策と考えているからだと思います。しかし、ひとたび何かが起これば、締め付けが厳しくなることもあります。それで、衆議院の解散の例を私は持ち出しました。つまり放任しているように見えたとしても、常に全体主義的になる危険性がありますし、放任する懐の深さを感じるかも知れませんが、それはそれでそういう形態の全体主義ともとれてしまうと思うのです。



確かに変人を放置(任)してくれる社会環境というのはあります。基本的に、その方が平和というかよい社会だと思います。しかし、放置している人たちは、必ずしも右傾ではないし、左傾でもないと思います。問題なのは、集団に属しているときにも、その気持ちを守れるかだと思います。きっかけがあれば、人はいつ豹変し、弱者(変人)を魔女狩りよろしく、吊し上げるようなことをしかねません。有事の際は、大抵、団結のために誰かが犠牲になります。平時でも犠牲になっているのが、今の日本だと、低所得層やニート、専業主婦といったところでしょうか。彼らを攻撃する人は、サヨクに限りませんよね。





>有名なえらい人の本を読むばかり、微細な解釈を競うばかりでは、独立性や批判意識の旺盛な知識人は生まれないと思います。



そうですね。



私が危惧しているのは、彼らにだまされているのではないかということです。以前は、「北欧の国々は税金が高すぎて、若者のやる気がなくどんどん衰退していく」というようなことがよく叫ばれていました。しかし現在では、スウェーデンやフィンランドはよい国のお手本的に扱う知識人が増えてます。確か、以前は批判していたと記憶している人まで褒めているんです。結局、表メディアに出てくる人なんて、お金になりやすい論法と方便を連ねているだけなのかしら? と私はかなり懐疑的です。



表メディアにでてくる知識人の発言や著書を、鵜呑みにするのはとても危険です。彼らは欧米至上主義的な話しかしません。欧米に長期間滞在すれば、人種差別にあった経験や、人種差別でどんな問題が生じているのか、実体験として知っているはずなんですけどね。そのことは一切語らない人がほとんどです。個人が、彼らの話を検証するために、実際に現地に行き確認することは難しいですが、少なくても想像力を働かせ、一度は懐疑的な視点で考察することが必要です。彼らがいうほど、自由ではないし、暖かいところではなさそうです。まあ、表のみではなく、影や裏のメディアの情報も注意しなければいけませんけどね。





>いや、いわゆる戦後民主主義教育というものも、義務教育における制服や髪型規制がなくならないなど、戦前のをうすめた形で軍国主義的な要素があったのだと思いますよ。日常生活において、人権無視、人格蹂躙が平気で行われ、被害者が責められるか教導される傾向も、人権を守る法のいいかげんさと、啓蒙の不徹底が原因だとわたしは見ていますが、どうでしょうか?

>それらの点をすっとばして、日本特殊文化論を唱えるのは、壮大な隠蔽ではないでしょうか?



この話は歴史認識が絡みかねず、パンドラの箱を開けてしまうようで、いささか怖いのですが・・・

人権が無視されるのは軍隊や戦争のみではありません。教育を受けた結果が大きな比重を占めるのは事実と思います。しかし、今回の件は軍国主義とはほとんど(まったく?)関係ないと思います。というのは、私は、単に戦後の教育により利己的な人が増えたと考えるからです。個人主義は尊重すべきですが、度が過ぎると利己主義になります。軍国主義は利己的ではなかなか完遂できませんよね。

戦後の経済復興からしばらくの間、企業が現在のように身軽な経営をすることはありませんでしたし、そういう経営を許さない監視の目もありました。この箍が外れだしたのは、戦後の教育を受けた世代が社会の中枢に進出しだしてからです。私のいいたかったのは、一見、より質の低い教育を受けていた戦前の人の方が、他者を気遣う心があったということです。少なくとも戦後においては。良しも悪しくも、戦後の日本の教育は占領軍の意図が色濃く反映されていますので、今の日本の価値観というか、倫理観がアメリカ的になるのは否めないと思いますが、何かにつけて「欧米では当たり前」的な押しつけはやめてもらいたいです。労働者の保護は欧米並みになっていませんしね。



私の認識としては、「日本が特殊な文化か?」と問われれば、少なくとも欧米と比較した場合、かなり特殊(だった)と考えています。しかし、ここで日本の文化の特殊性を唱えたつもりはありませんし、何かを隠匿したつもりもないのですが・・・ 私が何かを隠匿したように感じてしまったとすると、軍国主義てことかしら?



それと、制服や髪型を軍国主義の象徴ととらえる方が結構いますね。そのように感じる方がいるのは当然と思います。しかし、制服や髪型が統一されていることに利点もあります。それは、安上がりということです。中高生に私服通学が認められてしまうと、貧富の差が目につくようになります。私服で着た切り雀だと、気になっちゃいますからね。まあ、管理や、画一的な教育をしやすいという意図もあるのでしょうが、せめて学校の中ぐらいは格差をなくそう、という意図も多分にあることだけは理解して頂きたいです。突飛かも知れませんが、給食みたいなものです。ちなみに、高校などで、指定の制服がなかったり、私服通学が認められているところもありますが、結構、制服を着て通学している人が多いですよ。髪型も似たような理由ですね。何故、野球部が坊主頭なのかは、合理的な理由があまり見あたらないけど・・・笑







不登校児は少数派ですし、世間の目も冷たいことも多いと思います。でも、毎日学校に元気に通えることが正常とは限りません。むしろ、毎日登校できる方が異常かも知れません。年の割に元気なことは喜ばしいですが、これは統計的には異常です。中国(漢方?)では病気扱いされる場合もあるとか。



説教する人についてですが、(現代)人は表面的には権力にすごく抵抗する割に、権威にはとても弱い傾向があります。そして、権力と権威を混同してしまうこともしばしばで、自分よりも立場の低(弱)そうな人を見つけると、高飛車になりたがる輩が多いです。そういう輩は、そんなことをしないと自己認識ができず、仲間内からも認められないのでは、と怯えている哀れな道化師です。飲み込まれずに憤れたことを良しとし、あまりこういうことは気にしない方がいいと思います。ワタリさんが今の行動をとり続ける限り、幾度となく似たような経験をするでしょうし。ただ、左翼だからではなく、駄目人間による駄目集団だからそうなるのだと思います。左翼に、この傾向が強いのは事実ですけどね。そそ、邪教徒にも似てたりしますね・・・汗





>戦前は労働力移動は活発だったと野村正ミさんの「終身雇用」でも読んだことがありますが、どうでしょうか?



それは確かだと思いますよ。テレビの「おしん」の話はかなり大げさですけど、農村地は貧しい人が多く、人買いまがいの商売が横行し、働き先を求めて、老若男女、都市部や工場、炭坑などを渡り歩く人が多かったです。だから、戦後の日本は、その反省として、人材派遣業には厳しい規制があったと思うのですけど・・・。戦後の日本が比較的末端の労働者まで待遇がよかったのは、共産化への不安があったことも一因でしょうね。組合も共倒れになるような争議を起こす必要もなかったし。
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